水色オオカミのルク

月芝

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234 帝国の祖

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 見上げた空を埋め尽くしていたのは、うす汚れて、ボコボコと盛り上がり、刈られることもなく長いこと放置されたヒツジの毛のような厚い雲。
 いまにも降り出しそうな天気。
 その日は、朝からなんとなく重苦しい空気にて、いつにもまして気が滅入っていたソレイユ。
 意に沿わぬ相手のそばに居る。
 いったいいつまでこんなことをつづけなければいけないのか、耐えねばならぬのか。
 虚しさばかりがつのり、ココロの内を占めるのはサンのことばかり。
 じつは一度だけ、さみしさに耐えかねて夜中にこっそりと抜け出し、彼女のもとを訪れたことがありました。

 ニオイを辿れば彼女の居場所はすぐにわかりました。
 教会支部の三階、幼女が一人で過ごすには広すぎる部屋にサンはいました。
 テラスにそっと降り立ったソレイユ。
 窓ガラスをコンコンと叩く。
 その音にすぐ気がついたサン。ソレイユの姿を目にするなり、くしゃりと顔がゆがみ、タタタと窓辺に駆け寄ってきた。
 けれども彼女は窓を開けてはくれませんでした。 
 ただ窓ガラス越しに泣きながら「ごめんね」とくり返すばかり。
 彼女にはわかっていたのです。もしも開けてしまったら、自分はもうガマンできなくなるということが。
 大切な人たちや、やさしい場所を守るために、必死にこらえている。
 サンとはそういう子なのです。彼女ががんばるのは、いつも他のだれかのため。
 幼子のそんな姿をまえにして、ムリを押し通すことなどできるわけがありません。
 すぐ目の前にいるというのに、その温もりに触れられない。
 たったガラス一枚の距離が、いまは遠い。
 いっそこの窓をやぶり彼女をさらって逃げてしまおうか。でもそんなマネをすれば、きっとサンはソレイユを許してはくれないでしょう。
 いまは事態が好転するのを待ち、耐えるしかない。
 ガラス越しに手を合わせながら、サンとソレイユはさめざめと泣きました。

 あの夜のことを思い出し、ソレイユがいっそう気落ちしていたところに姿をあらわしたのは、自分たちを苦しめている元凶の女。
 デアドラに気安く名前を呼ばれるたびに、その指でカラダに触れられるたびに、ふつふつとわいてくるのは怒り。それを押し殺しながら今日もおとなしく彼女につき従う。すべてはサンと彼女の大切なものを守るために。
 いつものように白塗りの華やかな馬車にのり込んでの移動。
 広すぎる城内、高貴な身はわずかばかりの距離であっても、自分の足で歩くことはほとんどありません。
 またぞろパーティーにでもつき合わされるのかと、内心でゲンナリしていたソレイユ。
 そんな彼の気も知らずに、一方的に話しかけてくるデアドラ。

「のう、ソレイユ。かつてこんな騎士がいたという話を知っておるか?」

 武にすぐれ、忠節を知り、上を敬い、下を慈しみ、仲間に敬意を払う。功を誇ることもなく、また敵を蔑むこともない。驕ることなく、つねに真摯な態度を崩さない。
 騎士の中の騎士。
 彼は生涯、妻を娶らなかった。なぜなら家庭を持ち、子をなし、家門をかまえると、ココロがそちらに傾いて主上への忠義がゆらぐと考えたから。ほんのわずかでも気持ちがそれることすら彼は許さなかった。どこまでも自分にきびしい男であったという。
 いきなりそんな男の話を聞かされて、やや戸惑いを隠せないソレイユ。自分にもそのようにあれと、暗にほのめかしているのでしょうか? しかしそれはムリなこと。なぜならデアドラはソレイユの居場所ではないのですから。
 それにしてもデアドラの声が、こころなしかうわずっているだけでなく、少しばかりふるえも含まれている。いつもとはちがう調子にて、そのことを怪しんでいるソレイユの方をふり返ることもなく、彼女はさらに話しをつづける。

「そんな人物が残した言葉が『騎士は二君に仕えず』というもの」

 不幸にも大きな戦場にて敗北を喫した主上を逃がすために、敵地に最後まで踏みとどまり、ついには虜囚となった騎士。
 その勇名と高潔ぶりは知らぬ者なしにて、相手方の大将は彼を惜しんで自分に仕えないかと勧誘したところ、先の言葉を答えたという。
 こうなればしようがあるまい。
 なまじ情けをかけては彼の騎士道を侮辱することになると考えた大将は、部下に命じてその首をはねさせました。
 信念に殉じ、穏やかな表情にて逝った首をまえにして、大将はなげくようにこう言いました。

「帰るべき場所があるからこそ、ヒトは恋しいとおもい、郷愁にとらわれる。それゆえにあたら偉大な騎士をむざむざと死なせてしまった。ならばどうすればいいのか? かんたんなことよ。壊してなくしてしまえばいい。なくなればもう戻れない。待つ者とていない荒地を恋しいとはだれも思わない。あぁ、わたしは順番をまちがえてしまった」

 騎士の名を惜しみ、その武勇を欲するあまり、つい先走ってしまったことを後悔する大将。
 彼こそが、きらぼしのごとき古今東西の英傑どもを従えて、のちにアルカディオン帝国の祖と呼ばれることになる人物。

 デアドラの話が終わるのにちょうど合わせるかのように、馬車が歩みをとめました。
 いつも連れ回されていた夜会や茶会の席とはあきらかにちがう雰囲気を、馬車の外にはやくも感じていたソレイユ。
 ですがそこには懐かしくも愛おしいニオイも混じっておりました。
 ソワソワしておもわず喜色をうかべたソレイユ。
 黄金の水色オオカミを見下ろすデアドラの表情は、窓からの逆光によって陰となりよくわかりません。
 もしもそのときの彼女の瞳をソレイユがちゃんと見てさえいれば、あるいは……。


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