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第四部
Ⅲ
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「直樹、助かったよ。直樹がいてくれてよかった」
打ち合わせを終えて、舟形先輩が笑った。
天城さんの会社での会議は驚くほどスムーズだった。
天城さんも終始、落ち着いたビジネスモードで、
あの日のような軽口も、挑むような視線もない。
きっと、あれは冗談だったんだ――俺はそう思いたかった。
「いえ……俺も勉強になりました」
外に出ると冬の風が頬を撫で、張り詰めていた空気がふっと緩む。
軽い足取りで会社に戻る途中、ほんの少し笑みがこぼれた。
(うん、大丈夫。仕事はちゃんとできてる)
デスクに戻ると、後ろの席の女子社員たちの会話が耳に入ってくる。
「ねぇ、この前の打ち合わせで、天城商事の人来てたよね?」
「そうそう。あの天城さんって人、めっちゃイケメンじゃない?」
「スーツも似合ってた! なんか、ドラマに出てきそうな感じ」
「でもちょっと危なそう~。ああいうタイプ、絶対モテるよね」
「……危なそう、って?」
思わず口に出してしまい、彼女たちが振り向く。
「あ、直樹くんも会ったんでしょ? 天城さん。なんか、目がすごいって噂だよ。一度見られたら落ちるって」
「え、そんな……」
困ったように笑いながら、視線をそらした。
(落ちるって……何を言ってるんだろう)
彼女たちの笑い声が少し遠くに感じる。
胸の奥が、微かにざわついた。
きっと冗談だ。仕事中の目だ。
でも――思い出してしまう。
あの昼、柔らかい声で言われた言葉。
「僕にも、チャンスがありますね」
冗談のはずなのに、耳に残る。
ディスプレイに映る自分の顔は、どこか落ち着かない表情をしていた。
その瞬間、電話が鳴る。
反射的に受話器を取って、普段通りの声を作る。
「はい、白鷹です」
けれど、その心の奥では――
“白鷹直樹”としての自分が、少し揺れていた。
退勤時間を過ぎたオフィスを出ると、街はすでに夕暮れの色に染まっていた。
家路へ向かう人波の中、俺はゆっくり歩く。
手にはいつものカバン。
中には迅さんが作ってくれた弁当箱。
いつも通りお弁当はおいしかった。
おいしかったんだけど、なんだろう。
俺の好きな甘い卵焼きも照り焼きも入ってたけど……。
朝、迅さん「気をつけて」って言ってくれたけど、
なんか、天城さんのことで引っかかる。
別にやましいことなんて何もないのに。
信号待ちの間、風が頬をかすめる。
ふと、天城さんの笑顔を思い出してしまう。
落ち着いた低い声、穏やかな眼差し。
――「僕にも、チャンスがありますね」
冗談、だと思う。
でも、あの一瞬の目の光が脳裏に焼きついて離れない。
(なんで、思い出してるんだろう……)
もうすぐ家に着く。
家では迅さんが待っている。
きっと温かい夕食ができていて、
「おかえり」って笑ってくれる。
その顔を思い浮かべると、胸が痛む。
(……迅さんに、言えないな)
別に隠したいわけじゃない。
でも、話せばきっと心配をかける。
天城さんの言葉を本気にした自分がバカみたいで、
そんな自分を見せたくなかった。
「ただの取引先なのに……俺、何考えてるんだろ」
呟いた声は、夜風に溶けて消えた。
帰宅する足取りは重く、その背に、街の灯りが滲んで見えた。
食後、俺はソファに座って資料を見ていた。
けれど文字は頭に入ってこない。
心の奥で、あの日の天城さんの笑みがちらつく。
――「僕にもチャンス、ありますね」
冗談だったのか、あの目は。
考えるたびに胸の奥がざわついて、知らず知らずのうちに眉を寄せていた。
「……直樹?」
低い声に顔を上げると、キッチンから迅さんがマグカップを持って戻ってきた。
部屋着のスウェット姿、いつも通り穏やかな表情。
けれど、その目が少し探るように揺れている。
「最近、どうした? なんか元気ない」
「え……? ううん、別に。ちょっと疲れてるだけ」
「仕事、きつい?」
迅さんが隣に座る。
いつもなら自然に寄りかかる距離なのに、今日は肩がわずかに逃げた。
自分でも気づかないくらいの、小さな反射。
だけど、迅さんは敏感に気づかれている。
「……避けてる?」
静かに、苦笑まじりの声。
「俺、なんかしたかな」
「そ、そんなことないよ!」
慌てて顔を上げる。
「ほんとに、そんなつもりじゃなくて……」
「でも、最近ずっと俺の顔見てないだろ。話してても上の空で」
その言葉に、胸がぎゅっと痛む。
――違う、迅さんのせいじゃない。
むしろ、迅さんを傷つけたくなくて、話せないだけ。
だけど、何も言わないことが、もっと傷つけているのかもしれない。
「……ごめんなさい」
「謝ることなの?」
迅さんの声は穏やかだけど、どこか寂しい。
「俺には、ちゃんと話してくれる人でいてほしい。無理に話せって言わないけど……
隠されるのは、正直、つらい」
喉の奥で言葉を飲み込む。
“天城さんが”なんて言えない。
ただの自分の取り越し苦労だし、言ったら迅さんが困る。
だから、黙るしかない。
その沈黙を見つめながら、迅さんは小さく息を吐いた。
「……わかった。今はいいよ」
マグカップをテーブルに置いて、立ち上がる。
「お風呂、先に入ってくるよ」
「……うん」
ドアが閉まる音がして、部屋に静寂が戻る。
俺は膝に視線を落とし、拳を握る。
――どうしてこうなるんだろう。
ただ、好きなのに。
誰よりも大切なのに、ちゃんと伝えられない。
打ち合わせを終えて、舟形先輩が笑った。
天城さんの会社での会議は驚くほどスムーズだった。
天城さんも終始、落ち着いたビジネスモードで、
あの日のような軽口も、挑むような視線もない。
きっと、あれは冗談だったんだ――俺はそう思いたかった。
「いえ……俺も勉強になりました」
外に出ると冬の風が頬を撫で、張り詰めていた空気がふっと緩む。
軽い足取りで会社に戻る途中、ほんの少し笑みがこぼれた。
(うん、大丈夫。仕事はちゃんとできてる)
デスクに戻ると、後ろの席の女子社員たちの会話が耳に入ってくる。
「ねぇ、この前の打ち合わせで、天城商事の人来てたよね?」
「そうそう。あの天城さんって人、めっちゃイケメンじゃない?」
「スーツも似合ってた! なんか、ドラマに出てきそうな感じ」
「でもちょっと危なそう~。ああいうタイプ、絶対モテるよね」
「……危なそう、って?」
思わず口に出してしまい、彼女たちが振り向く。
「あ、直樹くんも会ったんでしょ? 天城さん。なんか、目がすごいって噂だよ。一度見られたら落ちるって」
「え、そんな……」
困ったように笑いながら、視線をそらした。
(落ちるって……何を言ってるんだろう)
彼女たちの笑い声が少し遠くに感じる。
胸の奥が、微かにざわついた。
きっと冗談だ。仕事中の目だ。
でも――思い出してしまう。
あの昼、柔らかい声で言われた言葉。
「僕にも、チャンスがありますね」
冗談のはずなのに、耳に残る。
ディスプレイに映る自分の顔は、どこか落ち着かない表情をしていた。
その瞬間、電話が鳴る。
反射的に受話器を取って、普段通りの声を作る。
「はい、白鷹です」
けれど、その心の奥では――
“白鷹直樹”としての自分が、少し揺れていた。
退勤時間を過ぎたオフィスを出ると、街はすでに夕暮れの色に染まっていた。
家路へ向かう人波の中、俺はゆっくり歩く。
手にはいつものカバン。
中には迅さんが作ってくれた弁当箱。
いつも通りお弁当はおいしかった。
おいしかったんだけど、なんだろう。
俺の好きな甘い卵焼きも照り焼きも入ってたけど……。
朝、迅さん「気をつけて」って言ってくれたけど、
なんか、天城さんのことで引っかかる。
別にやましいことなんて何もないのに。
信号待ちの間、風が頬をかすめる。
ふと、天城さんの笑顔を思い出してしまう。
落ち着いた低い声、穏やかな眼差し。
――「僕にも、チャンスがありますね」
冗談、だと思う。
でも、あの一瞬の目の光が脳裏に焼きついて離れない。
(なんで、思い出してるんだろう……)
もうすぐ家に着く。
家では迅さんが待っている。
きっと温かい夕食ができていて、
「おかえり」って笑ってくれる。
その顔を思い浮かべると、胸が痛む。
(……迅さんに、言えないな)
別に隠したいわけじゃない。
でも、話せばきっと心配をかける。
天城さんの言葉を本気にした自分がバカみたいで、
そんな自分を見せたくなかった。
「ただの取引先なのに……俺、何考えてるんだろ」
呟いた声は、夜風に溶けて消えた。
帰宅する足取りは重く、その背に、街の灯りが滲んで見えた。
食後、俺はソファに座って資料を見ていた。
けれど文字は頭に入ってこない。
心の奥で、あの日の天城さんの笑みがちらつく。
――「僕にもチャンス、ありますね」
冗談だったのか、あの目は。
考えるたびに胸の奥がざわついて、知らず知らずのうちに眉を寄せていた。
「……直樹?」
低い声に顔を上げると、キッチンから迅さんがマグカップを持って戻ってきた。
部屋着のスウェット姿、いつも通り穏やかな表情。
けれど、その目が少し探るように揺れている。
「最近、どうした? なんか元気ない」
「え……? ううん、別に。ちょっと疲れてるだけ」
「仕事、きつい?」
迅さんが隣に座る。
いつもなら自然に寄りかかる距離なのに、今日は肩がわずかに逃げた。
自分でも気づかないくらいの、小さな反射。
だけど、迅さんは敏感に気づかれている。
「……避けてる?」
静かに、苦笑まじりの声。
「俺、なんかしたかな」
「そ、そんなことないよ!」
慌てて顔を上げる。
「ほんとに、そんなつもりじゃなくて……」
「でも、最近ずっと俺の顔見てないだろ。話してても上の空で」
その言葉に、胸がぎゅっと痛む。
――違う、迅さんのせいじゃない。
むしろ、迅さんを傷つけたくなくて、話せないだけ。
だけど、何も言わないことが、もっと傷つけているのかもしれない。
「……ごめんなさい」
「謝ることなの?」
迅さんの声は穏やかだけど、どこか寂しい。
「俺には、ちゃんと話してくれる人でいてほしい。無理に話せって言わないけど……
隠されるのは、正直、つらい」
喉の奥で言葉を飲み込む。
“天城さんが”なんて言えない。
ただの自分の取り越し苦労だし、言ったら迅さんが困る。
だから、黙るしかない。
その沈黙を見つめながら、迅さんは小さく息を吐いた。
「……わかった。今はいいよ」
マグカップをテーブルに置いて、立ち上がる。
「お風呂、先に入ってくるよ」
「……うん」
ドアが閉まる音がして、部屋に静寂が戻る。
俺は膝に視線を落とし、拳を握る。
――どうしてこうなるんだろう。
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誰よりも大切なのに、ちゃんと伝えられない。
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