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第3章 時震後1年が経過した
60.時震暦2年(1494年)4月、イタリア
しおりを挟む香山美香はため息をついた。ローマに来て半年たって慣れてはきたが、このインフラの遅れにはイライラが募らざるを得ない。確かに主要道路は敷石による舗装がなされているが、一歩裏道に入ると土の道路にまばらに砂利を敷いたものであり、少し雨が降ると水たまりができる。
さらには、雨水排水を兼ねた下水道はあっても主要部のみであるため、裏道にはいると汚水が垂れ流しであるため、その汚い水たまりもある。流石に名高いパリのように、し尿などの汚物を夜陰に乗じて上階から投げ落とすことはないが、あちこちにし尿を含めた汚物溜め枡がある。
だから、すぐに使用人が汚物を片付ける貴族や上流階級の住む街区を除き、市内には全体に悪臭がただよっている。美香は汚水交じりの水たまりを避けて歩いていたが、前方の大きな水たまりは彼女のレインブーツで踏み込まないと仕方がなく思わずため息がでたのだ。
「あーあ、ひどいわね。臭いは我慢しなきゃ仕方がないけど、雨の後のこの水たまりには参っちゃうわ」
「うーん、慣れるしかないわ。あと2ヶ月で芸術街に移れるから。そうすればこんなことはないわよ」
美香の言葉に友人の永井好美が応じる。
彼女らは、日本から通称“イタプロ”のためにイタリアに来ているのだ。イタリア芸術発展プロジェクト、通称イタプロは、ルナッサンス最盛期にあるイタリア芸術を保全してより発展させるためのものである。これは、地震暦0年(1492年)の秋に、T学の竹内名誉教授に率いられた12人の日本の美術関係者による調査団が、3人の護衛付きでイタリアに来て調査した結果と、イタリア側の要請を受けて立ち上がったものだ。
何しろこの時期に、レオナルド・ダ・ビンチ、ミケランジェロ、ラファエロ、ジェルジェーネなどと歴史に名高い天才群がイタリアという狭い地域で活動しているのだ。だから、彼らの天才を発揮する機会を時震による文明加速の中で失わせてはならない。さらには、進んだ機材とアシストによって、より良くその才能を発揮させることも可能ではないかということだ。
また、この時代にイタリアという地にこれだけの天才が生まれたということは、機会を得ることができずに埋もれた天才がいるのではないかと期待も大きい。これらの提言は在日イタリア大使であった、フェルディナンド・ドッティが中心になっている統一イタリア国準備会及び日本からの調査団から共同で出されたものだ。
イタリアという地は、長く地中海世界を支配したローマ帝国の本拠であったが、この帝国は東西に分裂して西ローマ帝国は早くに滅び、時震暦0年時点では40年前に東ローマ帝国も滅んだ。イタリアは教皇領を含めて10余りの国と自治区に分かれているが、時震により日本からの帰国者によるインパクトにより統一イタリアの設立機運が高まり、現在はそのために準備している段階である。
このために、統一イタリア国準備会が設立されてその総裁に元大使のドッティ氏が就いているが、準備会総裁として彼が最も困っているのは人材の不足である。在日イタリア人は4千人強いるが、イタリアに帰ってその発展に寄与したいという者の数は、現状のところ1800人である。
イタリアもイギリスと同様に、日本の示唆に従って経済成長計画を立てて、統一への努力と産業開発を進めているが、原住の人々を教育しながらこれらの活動を進めるとしても、一定数の21世紀文明で育ったものが必要である。準備会の計算では、現在予定されているインフラ整備、農業、工業、商業などの開発に当たっては、1800人の21世紀の知識を持った人々では全く不足しており、少なくとも2倍の人数が必要である。
そこで。ドッティの考えたのは日本人を呼びこむことである。どのみち、日本がコントロールする世界開発銀行から多額の融資は避けられず、さらには日本からは、重機・農機具などを買い、セメントプラント、建設資機材、種々の工場設備などを購入して組み立てる必要がある。
資機材や設備の購入の際には、日本人の監督者と技能者の派遣を含めた契約にすることは他国と同様であるが、イタリアにしかない特徴を生かして日本人の若者を呼び込むことを考えた。その一環が“イタプロ”に過剰な人数を取り込んで、彼らには一定期間イタリアのために働くことを義務づけたのだ。
その際に非常に効果的であったのは、“万能の天才”レオナルド・ダ・ビンチの1年に及ぶ日本滞在であった。その滞在の数カ月はコロンブスと重なった。しかし、どちらかというと狷介な性格のコロンブスより、日本の社会に積極的に入り込んで学ぶのみならず、味わおうとしたダ・ビンチの方が、遥かにマスコミへの露出が多く人気もあった。
彼は21世紀の社会制度・技術を貧欲に学ぼうとして、イタリア大使館が付けた通訳と資料収集・撮影のスタッフを使ってインフラ設備、工場の生産設備、農場、漁獲設備、オフィスを訪れて、そのあらゆることを知ろうとした。そして、人類史にのこる偉人の彼には尋ねた全ての人が喜んで情報を提供した。
無論彼とて、それらをすべて理解できたわけではないが、彼に随行したスタッフが英語、日本語または可能な場合にはイタリア語で収集した資料のデータバンクを作った。それらには表、図、写真、動画が多く使われていたために、ダ・ビンチ自身のリマインド及び、イタリアの現生人にとって優れた資料になった。
そして、その彼の報道は多くの若者の心を動かして、“イタプロ”に多くの若者を引き付けた。それについては、いみじくも日本の首相が苦笑いして言っている。
「うーん。そうですね。3800人もの若者が“イタプロ”に参加を表明したのは意外だったですね。もっとも、40歳台、50歳台も少なからず入っていますが。日本もここにきて、人不足が深刻になっていますので、我が国の産業のためにはあまり有難い事ではないですな。
でも、“イタプロ”は人類のために必要なことですし、その順調な成功のためにはイタリア社会が安定することが必要です。だから、近代的な統一イタリア成立のために、我が国の若者が協力することは必要でもあるし、良い事だと思いますよ」
そういうことで、香山美香達もダ・ビンチに引き寄せられてイタリアに来た“イタプロ”の一員であるのだ。彼らは今のところ、イタリア側の用意した宿に泊まって、カトリック教会の建物であったギャラリーに通っている。この時代のローマの道路も含めたインフラは、先述のようにお粗末なもので、むしろローマ帝国以下と言って良いだろう。
加えて、宿も民家を買い取って宿に仕立てたもので、水道は井戸ポンプから引かれた剥き出しの配管によるもので、風呂は無く常温のシャワーのみ、トイレはぼっとん便所で炊事はできない。だから、食事はギャラリーに付設された食堂でとることになっているし、同じく温水シャワーもギャラリーのみである。
今は暖かくなっているが、冬の間は薪ストーブを使っていたので、煙いのもあってなかなか辛いものがあった。21世紀人に必須の電力供給については、ソーラパネルに蓄電池さらにエンジン発電機を併用している。エンジン発電機は燃料の軽油が不足しがちであることもあって、極力使わないようにしている。
なにしろ、燃料を含めてこれらのすべては日本からの輸入に頼っているのだ。産業、輸送全てに重要な燃料油の供給については、現在日本においてすでに十分に供給されているものの、欧州各国ではまだ精製工場が建設中であるため、精製済のものを日本から輸入している。
このように、日本からきた3800人は不自由な生活をしているが、現在郊外に新しく芸術街が建設中であり、あと2ヶ月ほどで引っ越す予定である。そこは、80室にも及ぶアトリエに加え、広大なギャラリー群に5千人を収容できる宿舎、さらに観光客を呼び込むためのホテル街で構成されている。
そして何よりなのは上下水道・エアコンを完備しており、独自の電力ステーションを備えている。だから、美香達もまもなく日本と同じような生活ができるのだから。同じ境遇の日本人は楽しみに待っている。
美香と好美は雨上がりの臭くて憂鬱な出勤路を辿ってアトリエに着いた。そこは教会が所有する3階建ての公会堂のような建物であり、60人余りの日本人と、30人余の現住イタリア人が働いている。日本人スタッフのリーダーは40代始めの鎌田由紀というM美大の講師である。
実際は、この第11アトリエの日本人スタッフは110人いるのであるが、半数はイタリア側が行う様々なプロジェクトに借りだされている。これらのスタッフは、1割ほどの専任スタッフを除いて概ね1ヵ月交代で手伝い作業と本来の芸術面の仕事を交代している。
鎌田リーダーなど、美術の専門家は専任スタッフであり、21歳の大学生である美香などは交代要員である。美香は文学部の学生であったが、美術には興味があったので訪日したダ・ビンチが登場する番組を全て視聴した上に、実際に会いに行っている。
さらに、テレビ・雑誌のイタリアの美術特集もくまなくあさっていた。そこで“イタプロ”による募集を知って応募して採用されたものだ。“イタプロ”は日本政府の全額出資のODAであり、その為のリーダー役に必要な専門家はプロジェクトで雇用し、他は海外協力隊とほぼ同じ待遇である。ただ、イタリア側のプロジェクトに従事する場合には、別途手当てがつくようになっている。
学生の場合には、イタリアでの仕事は基本的に単位として認められてはいるが、1ヵ月に一度まとめてレポートを提出の必要がある。欧州と日本はインターネットで繋がっていないので、このレポートの輸送は船便であるため概ね1ヵ月を要する。
そして、“イタプロ”の遂行に当たって最大の問題になるとされたのは言葉の問題であるが、日本語とイタリア語の話し言葉はスマホのアプリでほぼ解決できている。ただ、問題は書き言葉であり、全世界的にアラビア数字を使うことはすでに決定してはおり、これはイタリアでも既に教えている。
ローカル言語は各国、各地方で使われているものを使うのは構わないが、問題は世界共通言語である。21世紀ではそのようになりつつある英語は、この時間線では欧州のたかが人口500万の国の言葉である。だから、間違いなく今後あらゆる国を文化・技術面では少なくともリードする日本の言葉である日本語となるのが自然である。
ただ、日本語のしゃべり言葉はむしろ易しいが、書き言葉は世界でも難解な言語の一つである。そこで、ワープロを使うことを前提にした簡易版日本語を開発して国際言語としようとしている。漢字もワープロを使えばそれほど覚えるのに苦はないのだ。
美香は、今の職場である第11アトリエに行くのが楽しみである。それはこのアトリエには、画家兼建築家となる11歳のラファエロ・サンテイが通っているのだ。後世一般にラファエロと呼ばれるこの縮れた黒髪・細身の少年は、最盛期ルネサンスの三大巨匠と呼ばれ、37歳の若さで亡くなっている。
彼は、大規模な工房を経営して多数の作品を残しているところから、優れた経営感覚もあったようだ。ラファエロは少年ながら利発であり、かつ明らかに絵画・造形について天才的な才能を有している。これは、アトリエに隣接している学校において、教育されている20人の中でも傑出した成績を挙げていることからも証明されている。
この学校は、10学年に分けて21世紀のイタリアの小学校と中学校教育を施している。ラファエロはその一員であり、聡い彼と他に5人の才能を示した子供は、才能に応じた特別教育を行っている。その教育は、彼が一員となって形成したルナッサンス最盛期の絵画、彫刻、建築などの作品を学ぶことも含まれており、当然彼自身の作品も鑑賞することになる。
こ の時期、“イタプロ”はラファエロのみならず、帰国した41歳のレオナルド・ダ・ビンチ、19歳のミケランジェロ、それに17歳のジェルジェーネをすでに囲っている。ダ・ビンチは日本で500年後の文明に浸かり、芸術には興味が薄れており、イタリアで21世紀の産業を移植することに集中したいとの意向を示している。
しかし、周囲の懇願により記録に残っている自分の作品をすでに全て『模写』してしまった。本人が描いたものであり、日本には本物は無いので残っていない、まさに真筆ではある。彼のスタイルは、産業開発の始動に傾倒するなかで、工場等のデザインに携わり、“気晴らし”に絵画を描くというものになりそうだ。
そして、ミケランジェロとジェルジェーネは、“イタプロ”のスタッフに囲まれてすでに制作を開始しており、自分自身の作品の模写から入っている。しかしながら芸術家としての彼らは、模写のみを行うのを良しとせず、新たな作品も交えて作りだし、取り巻く人々を狂喜させている。
本人に、未来の彼らが作った作品を模写させるというようなやり方には、当然批判的な意見もあった。その根拠は本人の将来を曲げてしまうというものであった。この点は日本において心理学などの専門家も交えて議論して、結局イタリア側から提示されたこの方法を許容した。
これは、本人の才能を損なうことの可能性はあるとしても、すでに歴史は変わってしまい、本人が後世に大きく評価される芸術家であるか、そうなるということは知られてしまっている。
だから、そこを出発点として、むしろ自分が作り出す作品を乗り越えた作品を作り出すべく、周囲で促すべきということになったのだ。その過程で、自分の将来作り出す作品を敢えて模写させて、そこを出発点としてより優れた作品、あるいは同等の作品をより多数生み出してほしいということだ。
美香は、親しくなってラファエロに聞いたことがある。
「ラファエロ君。君が生みだした作品、絵画と建築の映像を全部見ているでしょう?それらを自分が作ったという点は、どう思うかな?」
「うーん、今では少し技能が足りないから作れないけど、もう少し修行したら作れるだろうね。一部のものはこういう作品ということで考えたものもあるもの。複製だったら、そんなに時間をかけずに出来ると思うよ。でも、絵の具で絵を描くという作業は時間がかかるものだよね。汚れるし。
僕自身は、絵としてのデッサンは好きだけど、絵の具を使って時間をかけて求めた色を出していくのは少し退屈で好きじゃない。だから、前の僕はデッサンを自分でするけど職人をたくさん集めて、早く沢山作品を作ったのだと思う。僕は政府にも頼まれているので、自分が作ったという作品の複製は全部つくるよ。
だけど、その後は時間がかかって汚れる絵の具を使った絵などはやめて、今習っているコンピュータを使って作品を作っていきたい。その方が自分の中にある自分をより良く出せると思う」
美香の、このラファエロの言葉としての報告は大きな議論を呼んだが、彼に賛同するものも多かった。いずれにせよ、本人の作品としての模写は生み出され残るわけである。ラファエロが造形に極めて優れていることは、残したものから明らかである。その彼がコンピュータグラフィックスを駆使した場合に、凡庸であることはあり得ない。
いずれにせよ、彼はまだ若い。歴史上、37歳で死んだという彼の寿命は間違いなく大きく伸びるであろうし、その中で多作だった彼はより多くの作品を生み出すだろう。なにより、僅か1年前に知ったコンピュータを駆使しようという柔軟性に期待する者は数多い。
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