大好きな君と離れる日まで

矢田川いつき

文字の大きさ
7 / 28
第二章 きみに好きだと言えなくなった日

第七話

しおりを挟む
「遼さんは、どうやら解離性健忘症を患っているようです」

 医者からそう告げられたのは、中学一年生の時だった。自分では全くわからなかったが、父が俺の記憶に異変を感じ、念のためと連れて行ってくれた病院で判明した。
 解離性健忘症。
 それは、主にストレスや心的外傷という精神への過剰な負荷により発症する記憶障害らしい。
 解離性健忘症の原因となった出来事そのものに関する記憶に障害が見られる場合もあれば、出来事には直接的は関係ない自分自身に関する記憶や、家族、友達といった身の回りの人についての記憶に障害が見られる場合など症状は多岐にわたるのだが、こと俺の場合については少々特殊なようだった。

「多くの場合、解離性健忘症は精神への過剰な負荷がもたらされる事故や事件をきっかけとして発症します。しかしお話から推察するに、遼さんの場合は他人から好意を伝えられることをきっかけに発症するようです。そして、その好意を伝えてくれた人に関する記憶が抜け落ちてしまうようですね」

 医者は感情を交えず、淡々と症状について説明してくれた。
 医者が言うには、頻発性と誘発性に異常が見られるらしい。すなわち、頻繁に起こる可能性の低い記憶障害が、「他人から好意を向けられる」という出来事をきっかけに何度も発生してしまうのだ。しかも決まってそれは、好意を向けてくれた人に関する記憶に障害が生じてしまうようだった。事実として、問診や信用できる一部の友達、担任の先生までもを交えた聞き取りの結果、告白してくれた人の名前から一緒に過ごした記憶に至るまで、その全てを俺は忘れてしまっていた。
 言葉を失った。
 人は絶望すると目の前が真っ暗になるというが、まさにそれだった。そして不思議と、頭の中は正反対にも真っ白だった。
 次いで浮かんできたのは、大好きな幼馴染の顔だった。

 ――これからよろしくね、リョウくん! ずっと仲良くしようね!

 俺の中には、彩月との思い出がある。
 お互いに片親を亡くしつつも、その悲しみを乗り越えてきた記憶がある。
 それだけで、まだ少し安心できた。彼女との日々は、忘れたわけではない。
 一方で、恐怖と焦りも一気に込み上げてきた。
 当時の俺と彩月は、ただの幼馴染とは違う曖昧な関係にあった。お互いに幼馴染以上の好意があることはなんとなくわかっているけれど、自信はあまりなくて。いつも通りくだらない話をしつつも、相手は自分のことをどう思っているのかとか、そういう探り合いみたいな雰囲気が漂うこともしばしばあった。俺自身も、彩月が俺のことを本当はどう思っているのかはずっと気になっていた。
 多分、好いてくれているとは思う。言葉の端々に、行動のあちこちに、そんな様子が垣間見えた。でももしかしたらただの勘違いかもしれないと思うことも多々あって、それと同時にこの居心地のいい関係を手放したくなくて、俺は女々しくもまだ自分の気持ちを彩月に伝えられずにいた。
 けれど、いつまでもこのままではいけない、いつかは伝えなくてはと思うことも増えてきて、近々どこかへ二人で遊びに行った時に告白しようかなんて計画を密かに立てていた。
 これは、そんな矢先の出来事だった。
 気持ちを、伝えなくて良かった。
 心の底からそう思った。もし俺が解離性健忘症を患っていると知らずに彩月に告白して、もし彩月も同じ気持ちを返してくれたりしたら、それをトリガーに俺は彩月との思い出を軒並み忘れ去っていたかもしれないのだ。そんなありえたかもしれない状況を想像して、俺はゾッとした。

「しかし先生、どうしてそんなことが?」
「根本的な原因はわかりません。ただ記憶障害は、自己防衛の一種として起こることが往々にしてあります。これは推測ですが、もしかすると『好意を伝えられること』に関することで、何か過去に精神へ過剰な負担を強いることがあったのかもしれません。頻繁に記憶障害が発症するのは、そうした過去から自分を守ろうとする自己防衛反応の可能性があります。何か、思い当たる節はありますか?」

 医者からそう問われても、俺には皆目見当もつかなかった。
 今の俺が知る限り、そもそも記憶障害に繋がるほどの大怪我を負ったりだとか、精神的ショックを受ける事件に巻き込まれたりしたことはない。至って普通の、ありふれた平和な日々が続いていたはずだ。
 結局原因はわからず、近いうちに転勤することが決まっていた父に付いて、俺は中学を転校することになった。記憶障害を患っている俺一人で生活することはできないし、なにより父の転勤先の近くには記憶障害について有名な医者が在籍している病院があった。
 彩月には、かなりギリギリになってから伝えた。どんな言葉で伝えたらいいのかわからなかったこともさることながら、病気のことをどこまで教えようかかなり悩んだからだ。
 けれど。散々考えた結果、俺は彩月には何も教えないことにした。
 理由は簡単で、単純明快。
 俺は、彩月を縛りたくなかったからだ。
 幸いにも、彩月は俺が突然転校することに取り乱して、告白とかそういう雰囲気にはならなかった。だから俺も、そっちの話には触れずにどこまでも幼馴染であることを選んで、そして転校してからは少しずつフェードアウトしていった。
 これでいい。このまま彩月とは袂を分かって、それぞれの人生を歩んでいけばいい。彩月とのことは幼い頃の綺麗な思い出として心に留めておけばいい。
 そう、思っていたのに。

「うそ、だろ……」

 二年に及ぶ父の転勤が終わり、地元に帰ってきて自分の学力に合った高校へ入学した日に、俺は驚愕した。
 生徒玄関前に張り出されていたクラス分けの名簿。九組である自分のクラスを確認し、そして何気なく他のクラスの名簿にも目をやっている時に、見つけたのだ。
 菅浦彩月。
 紛れもなく、中学一年生まで一緒に過ごしていた幼馴染の名前を。
 俺は願った。
 ただの同姓同名の赤の他人であることを。
 けれど、こっそりクラスに見に行って、その願いは破れた。
 二年前の面影がそのまま残った顔は、見間違うことなく俺の幼馴染だった。
 幸運にも高校の人数は多く、クラスも遠い。気をつけていれば、顔を合わせることなく過ごすのはそう難しくはなかった。
 ただひとつ。毎年あるクラス替えで近くになりさえしなければ。
 俺は願った。
 高校三年間。ずっと、彩月と離れて過ごせるようにと。
 けれど、その願いも無慈悲にも砕かれた。
 高校二年生で、俺は彩月と同じクラスになった。

「遼くん! 私! 菅浦彩月!」

 朝。彩月は嬉しそうに、中学一年生の時と変わらない笑顔で俺に話しかけてくれた。
 俺はどんな顔をしていいのかわからなくて、多分固まっていたと思う。

「遼くん! 久しぶりだね! ほら、覚えてるかな?」

 やや困惑の色が含まれた表情で、それでも彩月は笑顔を崩さずに明るく接してくれた。
 当然、彩月も違和感を覚えているのだろう。三年前に転校した仲の良い幼馴染が、何も言わずにいつの間にか帰ってきていて、しかも同じ高校に通っているのだ。不思議に思わないはずがない。胸の辺りが、心が苦しくて、俺は歯を食いしばるのに必死だった。
 本当は俺も嬉しかった。
 三年ぶりに面と向き合った、大好きな幼馴染。
 高校生になってより一層可愛く、綺麗になっていた。
 本当は俺も、笑って話したかった。久しぶりだねと、ずっと会いたかったと、言いたかった。

「りょ、遼くん? おーい? き、聞こえてる、かな?」

 けれど、言えない。言うわけにはいかない。
 この解離性健忘症を患ったことで、俺は相手からの好意を受け取れなくなった。それと同時に、この記憶障害を機に「好意を伝えること」に対して緊張以上の恐怖を覚えるようになった。
 そんな俺では、彩月との関係に責任を持つことができない。
 だからこそ俺はもう、彩月とは深く関わらないと決めたのだ。そのためには、心を鬼にして、彩月を多少悲しませてでも拒絶しないといけない。

「え、だれ? 遼、知ってんの?」

 そう問いかけてきた友達の言葉を皮切りに、俺は覚悟を決めた。

「うん、知ってる。昔よく遊んでた、幼馴染」

 彩月の顔に安堵の色が浮かぶ。でも、ごめん。俺はもう、彩月とは一緒にいられない。彩月に、俺の気持ちを伝えることはできない。

「でも、ただそれだけ。行こうぜ」
 
 努めて素っ気なく、唾棄するように吐き捨ててから、俺は校舎の中へと足早に向かった。

「おい、遼」

 隣で、この高校の友達では唯一俺の記憶障害を知っている颯斗が不満げに呼び止めてきたけれど、無視した。足を止めると、ようやく決意した心までもが呆気なく崩れてしまいそうだったから。
 ごめん、彩月。
 俺は心の中で、何度も何度も謝った。
 新学期初日の放課後。クラスの親睦会ということでカラオケに行くことになった時も、俺はずっと心の中で謝りつつ彼女からの視線を無視し、声を無視し、距離を置いていた。
 本当はそのまま最後まで、彩月とは言葉を交わすことなく終わらせるつもりだった。
 でも、彩月が飲み物を取りに席を立ったタイミングで、颯斗も席を立った。何かあるだろうなと思って後を追えば、案の定聞き捨てならない会話をしていた。
 やっぱり、直接言わないとダメか。
 正直、一年間ずっと彩月に冷たく当たり続けるのは精神的もきつかった。だからもう、初日のうちに徹底的に溝を深めて亀裂を大きくし、後はお互いに避け続けるような状態にしておきたかった。その意味では、むしろ好都合ではあった。

「作戦会議なら、本人のいないところでやってくれないか」

 俺はその場に横入りした。彩月は心底驚いた表情をしていたけれど、まだ俺のことを嫌いにはなっていないようだった。
 だから、俺はどこまでも冷淡に、適当に、軽薄にあしらい続けた。
 その度に彩月の傷ついた顔を見るのは心が痛んだ。この上なく苦しかった。でもこれは必要なことなのだと自分に言い聞かせた。
 そして。

「遼くん! そんなこと……言わないでよっ! 私は、私はずっと、今も、遼くんのことが――」
「俺は嫌いだ、彩月。いや……菅浦」

 今にも告白をしてきそうな彩月の言葉を遮って、俺は自分の素直な気持ちとは正反対である嫌悪を叩きつけた。
 それ以上はもう見ていられなくて、傷つけたくなくて、俺は逃げるように部屋に戻った。
 そこから先の記憶はあまりない。彩月は戻ってこなかったから、きっと途中で帰ったんだろう。
 本当にごめん。ごめん、彩月……。
 どこまでも、現実は残酷だと思った。
しおりを挟む
感想 0

あなたにおすすめの小説

わたしの下着 母の私をBBA~と呼ぶことのある息子がまさか...

MisakiNonagase
青春
39才の母・真知子は息子が私の下着を持ち出していることに気づいた。 ネットで同様の事象がないか調べると、案外多いようだ。 さて、真知子は息子を問い詰める? それとも気づかないふりを続けてあげるか? そのほかに外伝も綴りました。

どうしよう私、弟にお腹を大きくさせられちゃった!~弟大好きお姉ちゃんの秘密の悩み~

さいとう みさき
恋愛
「ま、まさか!?」 あたし三鷹優美(みたかゆうみ)高校一年生。 弟の晴仁(はると)が大好きな普通のお姉ちゃん。 弟とは凄く仲が良いの! それはそれはものすごく‥‥‥ 「あん、晴仁いきなりそんなのお口に入らないよぉ~♡」 そんな関係のあたしたち。 でもある日トイレであたしはアレが来そうなのになかなか来ないのも気にもせずスカートのファスナーを上げると‥‥‥ 「うそっ! お腹が出て来てる!?」 お姉ちゃんの秘密の悩みです。

同じアパートに住む年上未亡人美女は甘すぎる。

ピコサイクス
青春
大学生の翔太は、一人暮らしを始めたばかり。 真下の階に住むのは、落ち着いた色気と優しさを併せ持つ大人の女性・水無瀬紗夜。 引っ越しの挨拶で出会った瞬間、翔太は心を奪われてしまう。 偶然にもアルバイト先のスーパーで再会した彼女は、翔太をすぐに採用し、温かく仕事を教えてくれる存在だった。 ある日の仕事帰り、ふたりで過ごす時間が増えていき――そして気づけば紗夜の部屋でご飯をご馳走になるほど親密に。 優しくて穏やかで――その色気に触れるたび、翔太の心は揺れていく。 大人の女性と大学生、甘くちょっぴり刺激的な同居生活(?)がはじまる。

夫婦交換

山田森湖
恋愛
好奇心から始まった一週間の“夫婦交換”。そこで出会った新鮮なときめき

里帰りをしていたら離婚届が送られてきたので今から様子を見に行ってきます

結城芙由奈@コミカライズ連載中
恋愛
<離婚届?納得いかないので今から内密に帰ります> 政略結婚で2年もの間「白い結婚」を続ける最中、妹の出産祝いで里帰りしていると突然届いた離婚届。あまりに理不尽で到底受け入れられないので内緒で帰ってみた結果・・・? ※「カクヨム」「小説家になろう」にも投稿しています

後宮なりきり夫婦録

石田空
キャラ文芸
「月鈴、ちょっと嫁に来るか?」 「はあ……?」 雲仙国では、皇帝が三代続いて謎の昏睡状態に陥る事態が続いていた。 あまりにも不可解なために、新しい皇帝を立てる訳にもいかない国は、急遽皇帝の「影武者」として跡継ぎ騒動を防ぐために寺院に入れられていた皇子の空燕を呼び戻すことに決める。 空燕の国の声に応える条件は、同じく寺院で方士修行をしていた方士の月鈴を妃として後宮に入れること。 かくしてふたりは片や皇帝の影武者として、片や皇帝の偽りの愛妃として、後宮と言う名の魔窟に潜入捜査をすることとなった。 影武者夫婦は、後宮内で起こる事件の謎を解けるのか。そしてふたりの想いの行方はいったい。 サイトより転載になります。

還暦の性 若い彼との恋愛模様

MisakiNonagase
恋愛
還暦を迎えた和子。保持する資格の更新講習で二十代後半の青年、健太に出会った。何気なくてLINE交換してメッセージをやりとりするうちに、胸が高鳴りはじめ、長年忘れていた恋心に花が咲く。 そんな還暦女性と二十代の青年の恋模様。 その後、結婚、そして永遠の別れまでを描いたストーリーです。 全7話

ちょっと大人な物語はこちらです

神崎 未緒里
恋愛
本当にあった!?かもしれない ちょっと大人な短編物語集です。 日常に突然訪れる刺激的な体験。 少し非日常を覗いてみませんか? あなたにもこんな瞬間が訪れるかもしれませんよ? ※本作品ではGemini PRO、Pixai.artで作成した生成AI画像ならびに  Pixabay並びにUnsplshのロイヤリティフリーの画像を使用しています。 ※不定期更新です。 ※文章中の人物名・地名・年代・建物名・商品名・設定などはすべて架空のものです。

処理中です...