大好きな君と離れる日まで

矢田川いつき

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第五章 キミに好きだと言った日のこと

第二十話

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 私とお母さんは、無言で見つめ合っていた。やがて、私がソファに座ると、お母さんも静かに隣に座った。

「……どうして、いきなりお父さんのことを?」
「今日、偶然知っちゃったんだ。お父さんとお母さん、離婚したんじゃなくて、死別だったんでしょ?」

 お母さんの顔が強張る。けれど、私は言葉を続けた。

「ずっとお母さんとは時間合わなくて言ってなかったけど、実は遼くんが戻ってきてたんだ。高校も、クラスも同じ」
「……そっか。それで」
「うん。遼くんから、聞いちゃった。今も思い出せてないんだけど、私と遼くんって、イベントのお花見で会ったんだよね」

 隣に座るお母さんはしばらく視線を伏せていたけれど、やがて観念したようにゆっくりと首を縦に振った。

「ごめんなさい、彩月。ずっと隠して、うそをついていて」
「やっぱり、本当だったんだ。でも、どうして?」

 なるべく声を落ち着けて尋ねる。でも、心臓はうるさいくらいに早鐘を打っていた。
 お母さんは、そっと私の手を握る。

「あなたがね、忘れていたからよ。お父さんが亡くなってしまった日のことを。あなたはまだ小さかったし、怖くて悲しい記憶だから、それでいいと思ってた。……ううん、今もそれでいいと思ってる。だからね、彩月。べつに知らなくてもいいのよ」

 お母さんは気弱な眼差しを私に向けてきた。そこには心配や不安、ともすれば恐怖が浮かんでいた。きっと、私の精神状態を慮ってのことだと思う。
 けれど、私は嫌だった。
 今の私は、記憶障害を患っている遼くんを支えると決めている。記憶障害の原因をなんとか探ろうとまでしているのだ。それなのに、私自身が過去の辛い記憶から目を背けているだなんて、そんな話があるか。

「ダメなの、それじゃ。私は、ちゃんと向き合いたいの」
「彩月」
「お願い、教えてお母さん」

 逃げたくなかった。目を背けたままでいたくなかった。なにより、忘れたままでいたくなかった。

「……わかったわ」

 お母さんはゆっくりと立ち上がると、サイドボードから一枚の写真を取り出してきて、私に見せた。
 ハッとする。
 そこには、幼い私を抱っこし朗らかな笑顔を浮かべるお父さんと、その隣で微笑むお母さんが写っていた。

「もう、十年以上も昔のことになるわね。お父さんとお母さん、そして彩月の三人で、私たちはドライブに出かけたの。三月の終わりだったかな。早咲きの桜が満開らしくて、山にピクニックに行こうってなったの。三人でお弁当を作ってね、彩月の握ったおにぎりを食べるのが楽しみだって、お父さん笑ってたな。彩月も、とても楽しみにしてた」

 お母さんは、手元の写真をそっと撫でた。愛おしむように、優しい手つきだった。

「でもその道中に、事故に遭ってしまったの。逆走してきた乗用車をかわそうとして、私たちの乗った車はそのままガードレールを突き破って坂道から転落した。本当に、あっという間の出来事だった」
「そん、な……」
「お父さんは大怪我をしていたのに、私と彩月を潰れた車の中から助け出してくれた。救急車も呼んでくれた。足を怪我して動けない私のそばで、必死に私や彩月の応急処置をしてくれてた」

 写真を撫でていたお母さんの手が、止まる。

「でも……お父さんの怪我が一番酷くて……私や彩月は大丈夫だったのに……お父さんは、お父さんは……っ!」

 笑顔ばかりが咲いている写真の上に一滴、二滴と涙が落ちた。それは表面を伝って滑り落ち、カーペットに染みを作っていく。
 しばらく、私はお母さんの背中を撫でていた。
 なぜか、私の目からは涙が流れなかった。
 お母さんはすぐに落ち着いて、再び口を開く。

「彩月はね、その時のことをあまり覚えてないみたいだった。でも、確かに心の傷は負っていて、寝ている時に泣いていることがよくあった。だから、あなたにはうそをついたの。お父さんは遠くに行っちゃっただけで、また会えるよって。それからあなたが成長して、何度も本当のことを説明しようと思ったけれど、結局怖くて言えなかった。離婚したってことにして、ずっと隠してたの。本当に、ごめんなさい」
「お母さん……」

 そこまで聞いても、私の中には当時の記憶はなかった。
 我ながら、薄情な娘だなと思う。自分の命を救ってくれたお父さんの最期を、顔を、思い出を忘れてしまうなんて。
 胸は痛い。悲しみもある。けれど、なぜだろう。どうしてか、どこか遠い国の物語を聞いているような、そんな気分になる。

「……あの、花見のイベントに参加したのも、それが理由?」
「ええ。あの時、私も結構参ってたから。そしてそのおかげで、あなたは遼くんっていう素敵な男の子に出会えた」

 お母さんはまだ涙の乾かぬうちに、私をひしと抱き締めた。

「中学の時に転校したって彩月から聞いた時は、私も心配になったけど。そっか……また会えたのね。良かったわね」
「……うん」

 私も、もう一度お母さんの背中に手を回す。
 これで、私は忘れていた過去に向き合えたのだろうか。
 心の傷を負って、奥深くに封じ込めた思い出せない過去を、乗り越えられたのだろうか。

「……ねえ、もうひとつ。訊きたいことがあるんだけど」

 そうだ。まだ、もうひとつある。
 私がおもむろに口を開くと、お母さんは不思議そうに首を傾げてきた。

「……実は遼くん……記憶障害を患っているの」
「え?」

 いきなり娘の口から発せられた言葉に、お母さんは驚愕に目を丸くした。

「解離性健忘症っていって、心的外傷とか大きなストレスとか、精神的への過剰な負担がきっかけで起こる記憶障害らしくて。でも遼くん、それに心当たりがないみたいなの」
「そんな……」
「ちなみに、遼くんのお母さんが亡くなったことは覚えていたから、それ以外の出来事だと思う。もし何か、心当たりがあるなら教えてほしい。私は今、昔の自分の記憶に自信が持てない。きっと、私にはまだたくさん忘れてることがあるんだと思う。もしかしたら、その中に何か遼くんの記憶障害に繋がる出来事があったのかもしれない。私は、それが知りたいの」
「彩月……」
「お願い。もし何かあるなら、教えて!」

 一心に、私はお母さんの瞳を見つめた。
 その瞳は揺れていた。お父さんを亡くした悲しみともまた違う、何かを迷うような眼だった。
 それから、お母さんは暫し考え込んだあと、ゆっくりと話してくれた。
 あくまでも可能性の話だけど、と前置きをして。
 きっと私は、心のどこかでそうじゃないんだと思いたかったんだと思う。
 でも、私の記憶の中に遼くんとの出会いがなくて……それで、一気に不安が広がっていった。

 ――おれ、サツキのこと好きだ。

 全ての話を聞き終えたあと、私が一番大切にしていた声が耳の奥で遠く響く。
 記憶なんて、やっぱり当てにならないと思った。
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