大好きな君と離れる日まで

矢田川いつき

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第五章 キミに好きだと言った日のこと

第二十八話

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 桜はすっかり散り、梅雨のじめっとした空気も薄くなり、新緑の季節が辺りに満ち満ちていた。
 春の頃よりも随分と容赦のなくなった陽射しの下、俺たちはいつものように下校していた。

「もうすぐ夏休みだね」

 隣を歩く幼馴染が、待ち遠しそうにつぶやく。その感想にはひどく同感だったので、俺も大仰に頷いてみせる。

「ほんと早く来てほしいよな。残り二週間、ここからが長いんだよなあ」
「最後の試練。期末試験があるもんね」
「ぐっ、それを言うな」

 俺がたじろぐと、彼女は楽しそうに口を開けて笑った。その拍子に白い歯が顔をのぞかせ、生温かい風をはらんだ髪が揺れる。
 あの日。小学生の時に巻き込まれた事故のことを思い出した日以降、俺が誰かの記憶を忘れることはなくなった。それに伴い、これまで忘れていたことのいくつかが、薄っすらとながら思い出せるようになっていた。

「記憶障害が、治りつつあるようですね」

 経過観察ののち、そんな言葉を淡々と医者が言っていたのを覚えている。まだ断言はできないらしいが、「好意を伝えられる」というこれまでの発症トリガーを一度乗り越えたという事実は、快復に向けた大きな進歩であるようだった。
 ……いや、一度ではなかったか。

「遼くん。必要とあれば私が何度でも気持ちを伝えるよ。今度は忘れてもらうためじゃなくて、覚えててもらうために。それに、もし忘れてもまた積み重ねていけばいいんだから、怖がることはないよ」

 頬を赤らめながら、何度目かになる診察の場で、彼女がそんなことを言い出した時は驚いた。しかも医者や父の許可をとってから、「大好き!」と抱きついてくるものだから俺は大いに慌てた。いつもは冷静にしている医者や看護師も、この時ばかりは笑っていた。そして俺は、やはり彩月を忘れることなく、しっかりと記憶を保持していた。
 あの日から約三ヶ月。
 俺たちは、その前とほとんど変わらない日常を過ごしている。

「そういえば、瀬奈と日野瀬くん、付き合ったんだってね」
「ああ、らしいな。五月の連休とか休日に二人で遊びに行ってて、ついこの前颯斗から告白したとか」

 もちろん、変わったこともある。
 梅雨が明けた七月の頭。すなわち先週のこと。
 記憶障害が改善傾向にあることを颯斗に伝えてしばらくしてから、彼は今谷と付き合い始めたことを報告してきたのだ。
 当然、俺は驚いた。
 まんざらでもない様子だったとはいえ、まさか颯斗の方から告白するとは思ってなかった。そんな正直な感想を颯斗に伝えると、彼は珍しく恥ずかしそうに頬をかきながら、「お前のせいかな」と肩パンチを放ってきた。
 その時は意味がわからなかったが、翌日今谷と話してその疑問は氷解した。

「『遼が頑張ってるから、俺も頑張ろうと思った』とか言っててさ、ほんと素直じゃないよねえ」

 幸せそうに笑いながら、颯斗から告白された日のことを惚気る中にあった一言。その一言で、全てを察した。
 あいつも、前に進んでるんだな。
 素直に、嬉しかった。
 高一の時、俺は同級生の女子から呼び出され、告白される前に断ったことがあった。その後に、俺は颯斗に面と向かって怒られ、記憶障害のことを話した。
 颯斗は驚きつつ、謝ってきた。それから自分の家庭環境や、後悔していることを話してくれた。彼は、両親の本心を知りながら、合わせて深まっていく溝をただ眺めているだけだったことを悔やんでいた。もっと早く、思っていたことを伝えれば良かったと、悲しげに笑っていた。俺に怒ってくれたのも、そんな心情があったからのようだった。
 そして今、颯斗は自分の気持ちを伝えたいと思える相手に、伝えることができたのだ。友達として、親友として、これほど嬉しいことはない。
 心に満ちる充足感を噛み締めながら、颯斗のいじり要素でも発掘しようと今谷の惚気話を転がそうとしたところで当人が現れ、それは惜しくも防がれてしまった。

「他人の惚気話を聞くのもいいが、お前の話も聞かせてもらわないとな。菅浦さんも交えて、どこか行こうか」

 そうして四人で集まり、日が暮れるまでファミレスで盛り上がったのもまた、俺の大切な思い出だ。来週の休日には動物園のリベンジとして水族館に行くことにしている。
 そんな記憶とこれからの楽しみを思い出しつつ、今日は彩月と二人でとある場所へ寄り道することにしていた。いつぞやの時みたく高校近くのバス停からバスに乗り、坂道がそびえる停留所で下車する。
 今日は、桜の花びらは舞っていない。代わりにあるのは、すっかり日が長くなった青空に駆ける蝉時雨や、南風にざわめく葉擦れの音、木々の香りを取り込んだまとわりつくような熱気ばかりだ。

「遼くん、行こっ」

 差し伸べられた手を握り、俺たちは坂道を登っていく。途中で買った生花を提げながら広場を抜け、石畳を踏み締め、死者が眠る静謐な墓地へと足を踏み入れる。
 三ヶ月ぶりにきた我が家の墓。そこは、特段変わった様子はない。
 でもなぜか、あの時よりも心は随分と軽くなっていた。

「久しぶり……ううん、違うな。誕生日おめでとう、母さん」

 買ってきた向日葵の花を供えて、手を合わせる。
 いつか、母が好きだったこの花を携えて、お参りに来たいと思っていた。けれど、結局なんだかんだと理由をつけて、一度も来たことがなかった。今にして思えば、きっと心のどこかでまだ母を亡くしたことに対する恐怖や悲しみがあったんだと思う。母を亡くしたあの日は、母の誕生日サプライズを見越して、庭にたくさんの種を撒いた日だったから。
 でも今は、恐怖はない。悲しみはまだあるけれど、それでも涙は流れてこない。なんとか笑顔で、近況を話せるくらいには、俺はもう大丈夫だ。

「母さん。俺、彩月と恋人になったんだ」

 今まで築いてきた思い出を、二人でゆっくりと語る。
 小学生の時にした日向ぼっこや、自転車で出立した一日限りの冒険。
 中学生に上がって一緒に勉強をしたり、買い物をしたり、けれど転校することになって喧嘩っぽくなったり。
 高校生になって再会はしたけれど満足に話すことはできなくて、お互いにたくさん傷つけて、傷ついて、それでもどうにか過去を、自分を受け入れて、今こうして手を繋いで頑張ろうとしていること。
 たくさんの気持ちを、口にする。その度に彩月と顔を見合わせ、どことなく恥ずかしくなって、それでもなんだか笑えてきて、また話を再開する。
 きっと、月日が経つにつれて、こうした記憶も薄れていってしまうのだろう。
 記憶障害を患っていなくとも、自然と人は過去を忘れ、今を生き、未来を見つめて歩いていく。
 でもきっと、それでいいのだ。
 それがきっと、生きていくということだから。

「……私、また遼くんと一緒にいていいのかな」

 不意に、彩月が言う。自信なさげな彼女の言葉に、俺は答える。

「いいよ。というか、一緒にいてよ」
「でも私、また遼くんのこと傷つけちゃうかもしれないよ? 間違ったこと、しちゃうかもしれないよ?」

 こうして弱気になってしまうのもまた、頑張って生きている証拠だ。

「それはお互い様だ。それにもしそうなったら、その時はちゃんと傷ついたって言うから。そしたら、今度は癒してくれよ」

 そんな時でも、俺はそばにいる。正直な自分で、大切な人のそばに居続けたいと思う。

「本当にいいの? 私なんかで、いいの?」
「いいよ。ていうか、なんかとか言うな。彩月が、いいんだよ」

 そうしたらきっと、また歩いていけるから。
 後ろに残った足跡は思い出となって、記憶となって、これからの自分を形作っていくから。
 例え忘れてしまったとしても、なくなりはしない。

「ほら、約束しよう」

 俺は彩月に向き直り、彼女の左手の小指に自分の左手の小指を絡ませる。彩月は若干戸惑いながらも、キュッと小指に力を入れてくれた。
 そして懐かしい記憶を頼りに、あの時交わした俺たちなりの約束の歌を高らかに歌う。

「「指切りげんまん、うそついたら相手の言うことなんでも聞くよ約束ね、指切った」」

 緑色の桜の葉が、夏の夕陽をその身に受けて風とともに頭上を舞う。
 薄っすらと茜色に変わり始めた空は物寂しくも、どこか優しげに世界を包み込んでいた。
 きっとこれからも、俺たちは何度だって間違えるだろう。もしかしたら、俺の方がまた彩月を傷つけてしまうかもしれない。
 でも、それでいい。
 それは、決して悪いことばかりじゃない。

「ちなみにこれさ、うそついたら遼くん何言うの?」
「え? んー、ずっと一緒にいてってもう一回言う」
「無限ループじゃん」
「確かに。切っても切れない縁、ってやつだ」
「なにうまいこと言ってんの、もうー」

 間違えたなら正して、傷つけたなら癒して、一緒に前へと進んでいく。
 なんてことはないのだ。

「遼くん!」

 絡めた小指を離した彩月が、抱きついてくる。

「っとと、どうした?」

 顔を向ければ、にへらと口元を綻ばせる彼女と目が合う。

「昔も、今も、これからも、ずっと大好きだよ!」

 真っ直ぐな好意が、飛んできた。
 心が跳ねる。温かくなる。ドキドキする。
 でもそれだけで、頭が痛くなるわけでも、めまいがするわけでもない。
 三ヶ月間、彩月は毎日欠かさず伝えてくれていた。
 未だに残る、「好意を伝えられること」への恐怖や不安を掻き消すように。
 もう大丈夫だよと、優しく包み込んでくれるように。
 これまで伝えられなかった分を取り返すように。
 彩月は、毎日俺に笑いかけてくれる。

「ありがとう、俺も大好きだよ」

 ずっと伝えたかった気持ちを言葉に乗せて、俺も彼女に笑いかけた。 

 いつか、大好きな君と離れる日まで、一緒にいよう。

 額をくっつけて、夏のものとは違う愛しい熱を感じながら、俺たちは笑い合った。
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