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第1章
第15話:再会の果実
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翌朝。意識が覚醒した瞬間に襲ってきたのは、心臓を握りつぶされるような猛烈な後悔だった。
昨日まで確かにそこにあった、微かで、けれど力強かった呼吸の音がしない。布を幾重にも丸めて作った急ごしらえの寝床は、主を失い、ただ冷たく平らな布の塊に戻っていた。
「……おはよう」
無意識にこぼれかけた挨拶が、行き場を失って冷えた空気に溶けていく。
自分で逃がすと決めたのだ。あの子は本来あるべき自由を取り戻した。それは人間として、何よりも喜ぶべき慈悲深い決断だったはずだ。そう自分に言い聞かせるたびに、胸の奥が鋭利なナイフで執拗に抉られるような痛みが走り、呼吸を浅くさせた。
僕は鉛を詰め込まれたような体を引きずり、吸い寄せられるように三階の書庫へと向かった。
必死に窓を拭き、あの子の命をこの手に受け止めた場所。そこへ行けば、まだあの子の体温の残り香や、あの力強い羽ばたきの残響が、壁の隙間にでも残っているのではないかと縋りたかったのだ。
けれど、書庫で僕を待っていたのは、沈黙したままの知識の山と、あの子が来る前と何ら変わることのない、死んだような静寂だけだった。
僕は救いを求めるように机の前に座り、医学書を広げた。活字を追おうとするが、意味をなさない記号が視界を滑り落ちていく。視線は磁石に引き寄せられる鉄屑のように、あの磨き上げた透明な硝子の向こう――境界のない青い空へと、何度も何度も吸い寄せられてしまう。
あの子は今、どの空を切り裂いて飛んでいるだろう。
まだ癒えたばかりの翼を痛めたり、自分よりも大きな魔物に狙われたりしていないだろうか。……そして、この薄暗い塔で共に過ごした数日間のことを、あの子はもう、遠い日の霞のように忘れてしまっただろうか。
「……はは、忘れてるに決まってるよね。当たり前だ、あんなに広い世界に帰ったんだから」
自嘲気味に吐き出した笑いが、虚しく響いたその時だった。
――コツン。
耳を疑った。風が気まぐれに小枝を打ち付けただけの音だ。そう自分を納得させようとして、僕は強く目を閉じる。期待して、それが間違いだと知る瞬間の絶望を、もうこれ以上味わいたくなかった。
――コツ、コツ、コツ。
音は止まない。それどころか、以前よりもずっと確かな意志を持って、急かすように硝子を叩く。僕は弾かれたように椅子を蹴って立ち上がり、窓辺へと駆け寄った。
透明な硝子の向こう側。
そこには、昨日、僕が涙を飲んで見送ったはずの、あの黒い影がいた。
あの子は僕の姿を見つけると、力強く羽をはためかせて、窓枠の縁に器用に降り立った。
「……えっ? なんで、どうして……?」
驚きと困惑で、喉が震える。震える手で窓の鍵を跳ね上げると、冷たい風と共に、あの子は臆することなく室内に飛び込んできた。そして、僕が呆然と立ち尽くす目の前の机に、嘴に銜えていた「何か」を、誇らしげな音を立ててポトリと落とした。
それは、灰色の書庫の中でそこだけが発光しているかのように鮮やかな、血のような赤い木の実だった。
「これ……僕に、持ってきてくれたの?」
鴉は金色の瞳を細め、誇らしげに胸を張ると、カァ、と短く、弾むような声で鳴いた。まるで「留守番のご褒美だ」とでも言いたげな、勝ち誇ったような響き。
あの子は、自由な空に帰ったあと、僕のことを忘れるどころか思い出してくれたのだ。それどころか、この空にそびえ立つ孤独な塔を探し出し、その重い実を運んで、僕の元へ戻ってきてくれた。
「ああ……っ、ああ……」
僕はその赤い実を、壊れ物を扱うようにそっと掌に包み込んだ。
実はまだ、外の世界の厳しくも清々しい冷気を纏っていたが、僕の掌には、これまでの人生で触れたどんな熱源よりも、温かく、熱く感じられた。
必死に堪えていた熱いものが、堰を切ったように頬を伝い、床に落ちた。
あの子は、自分の意志で僕を選んでくれた。
この孤独で、呪われた塔に囚われ、世界から見捨てられた僕を、空を飛ぶ自由よりも価値のある「たった一人の友達」として認めてくれたのだ。
灰色の世界に、ひとしずくの鮮やかな赤が灯った。それは、僕がこの地獄のような異世界で、初めて手に入れた「自分だけの光」だった。
昨日まで確かにそこにあった、微かで、けれど力強かった呼吸の音がしない。布を幾重にも丸めて作った急ごしらえの寝床は、主を失い、ただ冷たく平らな布の塊に戻っていた。
「……おはよう」
無意識にこぼれかけた挨拶が、行き場を失って冷えた空気に溶けていく。
自分で逃がすと決めたのだ。あの子は本来あるべき自由を取り戻した。それは人間として、何よりも喜ぶべき慈悲深い決断だったはずだ。そう自分に言い聞かせるたびに、胸の奥が鋭利なナイフで執拗に抉られるような痛みが走り、呼吸を浅くさせた。
僕は鉛を詰め込まれたような体を引きずり、吸い寄せられるように三階の書庫へと向かった。
必死に窓を拭き、あの子の命をこの手に受け止めた場所。そこへ行けば、まだあの子の体温の残り香や、あの力強い羽ばたきの残響が、壁の隙間にでも残っているのではないかと縋りたかったのだ。
けれど、書庫で僕を待っていたのは、沈黙したままの知識の山と、あの子が来る前と何ら変わることのない、死んだような静寂だけだった。
僕は救いを求めるように机の前に座り、医学書を広げた。活字を追おうとするが、意味をなさない記号が視界を滑り落ちていく。視線は磁石に引き寄せられる鉄屑のように、あの磨き上げた透明な硝子の向こう――境界のない青い空へと、何度も何度も吸い寄せられてしまう。
あの子は今、どの空を切り裂いて飛んでいるだろう。
まだ癒えたばかりの翼を痛めたり、自分よりも大きな魔物に狙われたりしていないだろうか。……そして、この薄暗い塔で共に過ごした数日間のことを、あの子はもう、遠い日の霞のように忘れてしまっただろうか。
「……はは、忘れてるに決まってるよね。当たり前だ、あんなに広い世界に帰ったんだから」
自嘲気味に吐き出した笑いが、虚しく響いたその時だった。
――コツン。
耳を疑った。風が気まぐれに小枝を打ち付けただけの音だ。そう自分を納得させようとして、僕は強く目を閉じる。期待して、それが間違いだと知る瞬間の絶望を、もうこれ以上味わいたくなかった。
――コツ、コツ、コツ。
音は止まない。それどころか、以前よりもずっと確かな意志を持って、急かすように硝子を叩く。僕は弾かれたように椅子を蹴って立ち上がり、窓辺へと駆け寄った。
透明な硝子の向こう側。
そこには、昨日、僕が涙を飲んで見送ったはずの、あの黒い影がいた。
あの子は僕の姿を見つけると、力強く羽をはためかせて、窓枠の縁に器用に降り立った。
「……えっ? なんで、どうして……?」
驚きと困惑で、喉が震える。震える手で窓の鍵を跳ね上げると、冷たい風と共に、あの子は臆することなく室内に飛び込んできた。そして、僕が呆然と立ち尽くす目の前の机に、嘴に銜えていた「何か」を、誇らしげな音を立ててポトリと落とした。
それは、灰色の書庫の中でそこだけが発光しているかのように鮮やかな、血のような赤い木の実だった。
「これ……僕に、持ってきてくれたの?」
鴉は金色の瞳を細め、誇らしげに胸を張ると、カァ、と短く、弾むような声で鳴いた。まるで「留守番のご褒美だ」とでも言いたげな、勝ち誇ったような響き。
あの子は、自由な空に帰ったあと、僕のことを忘れるどころか思い出してくれたのだ。それどころか、この空にそびえ立つ孤独な塔を探し出し、その重い実を運んで、僕の元へ戻ってきてくれた。
「ああ……っ、ああ……」
僕はその赤い実を、壊れ物を扱うようにそっと掌に包み込んだ。
実はまだ、外の世界の厳しくも清々しい冷気を纏っていたが、僕の掌には、これまでの人生で触れたどんな熱源よりも、温かく、熱く感じられた。
必死に堪えていた熱いものが、堰を切ったように頬を伝い、床に落ちた。
あの子は、自分の意志で僕を選んでくれた。
この孤独で、呪われた塔に囚われ、世界から見捨てられた僕を、空を飛ぶ自由よりも価値のある「たった一人の友達」として認めてくれたのだ。
灰色の世界に、ひとしずくの鮮やかな赤が灯った。それは、僕がこの地獄のような異世界で、初めて手に入れた「自分だけの光」だった。
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