嘘つき王と影の騎士

篠雨

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第2章:献身と解凍

第25話:孤独の果ての落日

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灰色の空から、音もなく雪が降り始めていた。

 アドレアンの国境を越えた先にある、不毛の荒野。
そこは、かつてセシルが「奇跡」を注ぎ込み、辛うじて維持していた肥沃な大地とは、文字通り地続きの地獄だった。結界の守りの外の地には、刺すような冷気と、命を拒絶する静寂だけが横たわっている。

 セシルは、泥に汚れた粗末な修道服一枚で、膝まで積もる雪の中を彷徨っていた。

 数日前までセシルが纏っていたのは、神の加護を象徴する金糸の法衣だった。民は彼を「聖王」と呼び、その裾に触れることさえ恐れ多く感じていたはずだ。
 
 だが、あの「転移者」がこの国に現れ、セシルが呪術による代償で血を吐きながら維持してきた均衡を、異世界の知識と技術で軽々と超えてみせた瞬間、それらはすべて剥ぎ取られた。
 そして代わりに与えられたのは、罪人が着るような、肌を刺すほど粗末な麻の布切れ一枚だけだった。

 この麻布のざらついた感触は、セシルがこれから死ぬまで背負わされる「嘘つき」という刻印そのものだった。
 セシルが十二年間、命を削って捧げてきた祈りは、転移者のもたらした合理的な豊かさの前に「民を欺くための無意味な儀式」へと成り下がった。  魔力など、最初から無かったのだ――。
 そう断じられた瞬間に、セシルの十二年は「嘘」になり、セシルは「希代の詐欺師」となった。

 セシルは震える手で、自身の痩せこけた肩を抱く。

(……寒いな。あんなに、あんなに温かな国だったのに)

 一歩、足を踏み出すたびに、氷のような冷気が足の裏から心臓へと駆け抜ける。
 もはや呪術にによって消耗した体は、体温を維持することさえ叶わない。十二年間、一度として休むことなく国を暖め続けてきたその身体は、今やただの冷え切った器でしかなかった。

 セシルは、感覚のなくなった自分の指先をぼんやりと見つめた。

 指先は死人のように白紫に染まり、震えることさえ忘れている。
 この手で、どれほどの病を癒しただろう。どれほどの乾いた大地を、潤しただろう。
 その指が、今はこの雪に埋もれようとしている。

 民のために、国のために、寿命を切り売りしてきた結果が、この白銀の墓場。誰に看取られることもなく、ただの「不吉な残骸」として捨てられた末路だ。

「……誰も、いない」

 掠れた声が、乾いた風にかき消される。
 ここには、縋り付いて奇跡をねだるバルトロも、感謝のふりをしてその命を吸い尽くした重臣たちもいない。
 手のひらを返して石を投げつけた民もいない。

 私が守りたかったのは、この冷たい石を投げつけてくる彼らだったのか。
 感謝の言葉を口にしながら、私の命が尽きるまで搾り取ろうとしていた彼らの笑顔だったのか。

 そして。

 自分を「セシル」と呼び、怒り、嘆き、その細い身体を無理やりにでも抱きしめようとした、あの熱い瞳の男もいない。

 誰もいない。  私が十二年間、血を吐きながら守り続けたものは、何一つ残らなかった。

(アルヴィス……。君にだけは、こんな惨めな姿を見せたくなかった……)

 胸を突くのは、死への恐怖ではなく、ただ一つの後悔だった。

 あの日、突き放してしまった彼の、傷ついた顔。

 「私の隣にいない方が、君のためだ」などと、もっともらしい嘘をついた自分の卑怯さ。
 本当は、誰よりもそばにいてほしかった。あの熱い手のひらに、もう一度だけ触れてほしかった。

 ふ、と視界が大きく歪んだ。

 魔力を使い果たし、限界をとうに超えていた身体が、ついにその機能を停止しようとしていた。

 セシルは力なく雪の上に崩れ落ちた。
 冷たいはずの雪が、今はなぜか、毛布のように柔らかく、不思議と温かく感じられる。これが、死という名の安らぎなのだろうか。

 セシルは、沈みゆく鈍色の太陽を、薄れゆく視界の中でじっと見つめていた。

 ようやく、役目が終わる。

 もう、誰のために祈る必要もない。誰の死に責任を感じる必要もない。

 名前を奪われ、名誉を汚され、ただの無力な人間として、この静かな雪に埋もれていく。
 それは、彼が二十四年の人生で初めて手に入れた、あまりにも残酷で、あまりにも切ない「自由」だった。

「さようなら……アルヴィス」

 氷の結晶が、まつ毛に降り積もる。
 セシルは静かに目を閉じた。

 もう、この瞼が開くことはないのだと、確信に似た安堵を抱きながら。
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