嘘つき王と影の騎士

篠雨

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第4章

第70話:報われた歳月

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ネルソンさんの薬を作り始めてから数日が経った。 

 セシルが庭のハーブを摘んでいると、生垣越しにアイリスさんが弾んだ声をかけてきた。

「セシルちゃん、見ておくれよ! あの頑固爺、今日は杖も持たずに広場まで歩いて行ったんだよ。あんたの薬、本当に魔法みたいに効いたんだねぇ」

 セシルは、摘みかけのレモンバームを手に、目を丸くした。

 窓の外の通りを見れば、確かにネルソンさんが近所の人と大声で笑いながら歩いていく姿が見える。あの日、土気色だった顔には血色が戻り、その足取りは力強い。

「本当……良かったです。少し、配合が強すぎなかったか心配だったのですが……」

「何言ってるの、命の恩人だよ。これ、ネルソンの嫁さんが『セシルちゃんに渡して』って。あんた、本当に優しい子だね。ありがとう、ありがとうねぇ」

 アイリスさんは何度もセシルの手を握り、温かなお礼の品――焼きたてのクッキーと、丁寧に編まれた手袋――を置いていった。

 一人残された庭で、セシルはそれを見つめたまま、立ち尽くした。

 「ありがとう」という言葉。

 王宮にいた頃、その言葉は儀礼的な挨拶でしかなかった。あるいは、民衆が「聖王」という偶像に対して捧げる、恐れと期待の混じった祈りだった。

 けれど、今。アイリスさんがくれた言葉は、ただ一人の男としての「セシル」に向けられた、純粋な感謝だった。

 バタン、と家の扉が開く音がした。

 薪割りを終えたアルヴィスが、セシルの様子がおかしいことに気づき、慌てて駆け寄ってくる。

「セシル? どうしたのですか、そんなところで震えて……」

 アルヴィスの声を聞いた瞬間、セシルの均衡が崩れた。 

 手から籠が滑り落ち、摘み取ったばかりのハーブが地面に散らばる。セシルはそのまま、吸い寄せられるようにアルヴィスの逞しい胸へと飛び込んだ。

「アルヴィス……っ、アルヴィス……!」

「セシル! 苦しいのですか? どこか痛むのか!?」

 狼狽するアルヴィスの服を、セシルは指が白くなるほど強く掴み、その胸に顔を埋めた。

 喉の奥から、せき止めていた感情が、言葉にならない慟哭となって溢れ出す。

「ちが……違うんだ。……あの日々が、無駄じゃなかった。……あんなに、あんなに地獄だと思っていた場所で、吐きそうになりながら覚えたことが……僕を縛り付けるための鎖だと思っていたものが……っ」

 十二年間、彼は呪術の苦痛に耐えるため、あるいは「偽りの奇跡」の辻褄を合わせるために、暗い書庫で医学と薬学を貪り続けた。それは彼にとって、自分を殺し、偶像として完成させるための、忌まわしい作業だったはずだった。

「誰かを、本当に救えた……。……魔法なんかじゃなく、偽物じゃない僕の力で……っ、おじいさんが笑って……っ、生きてるんだ……!」

 しゃくり上げるセシルの肩を、アルヴィスは押し潰さんばかりの力で抱きしめた。

 セシルの涙がアルヴィスのシャツを濡らし、温かな体温が伝わってくる。アルヴィスは何も言わず、ただ、嵐のような嗚咽を漏らすセシルの背中を、大きな手で何度も、何度も撫で続けた。

「……そうです、セシル。貴方の十二年は、空虚などではなかった。……貴方はあの地獄の中で、こんなにも優しく、強い力を育てていたのですね」

 アルヴィスの低い、慈愛に満ちた声が頭上から降ってくる。

 セシルは子供のように声を上げて泣きじゃくった。

 過去を許し、自分を認め、ようやく本当の意味で「人間」として産声を上げたかのような、凄絶で、美しい涙だった。
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