3 / 6
3
しおりを挟む
アランが去ったのは、夕方を少し過ぎた頃だった。
馬車に乗り込む直前、彼は振り返って、しつこく言った。
「俺は、あきらめない」
まるで執着だけで動いているようなその目に、私はもう何の感情も湧かなかった。ただ、厄介だという思いだけが残る。
「……面倒ね」
「同感だ」
隣でアイザックが吐息混じりに答えた。
「次は王宮から、正式な文書が来るかもしれない。『元婚約者』に対する特例扱い、という名目で」
「わたしを王都に戻そうとするの?」
「あり得る。アラン王太子の失策を補うために、外堀から固めるつもりだろう。君が王都に戻れば、あとは“再婚”を既成事実にするだけで済む」
冗談じゃない。
私はもう“誰かの妃”になるために生きてはいない。
私の人生は、私のもの。王宮のために捧げる気なんて、さらさらない。
「だったら、迎え撃つしかないわね」
私が笑うと、アイザックも口元をわずかにゆるめた。
「その覚悟があるなら、手を貸す」
「最初からそのつもりよ。あなたがいると、百人力だわ」
目を合わせると、アイザックの視線がわずかに揺れる。
「……褒めすぎだ」
「そうかしら?」
「褒められ慣れてないんだ、俺は。だから君に言われると……変に意識してしまう」
その言葉に、思わず心臓が跳ねた。
(変に意識って……それはつまり)
けれど、聞き返す勇気はなかった。
代わりに、私は視線を地図へと戻した。
次の日、王宮からの文が本当に届いた。
『王都での聴聞会への招致』『貴族院より事情聴取の必要』『グランメル領での急速な開発の合法性の確認』
名目こそ“形式的”だが、その意図は明白だった。
「……要するに、レティシア嬢を王都に連れ戻したいわけだな。あくまで“本人の意志”を無視して」
「“善意”を装ってね」
王族らしい姑息なやり方。都合の悪い真実を覆い隠して、体裁だけ整える。
アランにとっても、王家にとっても、私という“元婚約者”が勝手に成功している状況は、面白くないのだろう。
「なら、こちらも手を打つわ。王都には戻らない。むしろ、王宮に対抗できる“外部の後ろ盾”を見つける」
「心当たりは?」
「……ひとつだけ」
それは、亡き母の出身地。
ラングフォード公爵家――王家とは異なる系譜に連なる、自由都市連盟に連なる名家だ。
私は幼い頃、母の里帰りに付き添って、一度だけ訪れた記憶がある。
確か、ラングフォードの現当主は母の従兄。つまり、私にとっては叔父にあたる存在だ。
「もし、彼らの支援を取り付けられれば、王家にも強く出られるはず」
「リスクもあるが……価値はあるな」
私たちは、すぐにラングフォードへの使者を出す手配を始めた。
時間はかかる。けれど、動かなければ奪われるだけ。
それから数日。
町の整備は着々と進み、領民たちの間にも活気が戻ってきていた。
特に水路の再建が功を奏し、農作物の収穫予測が倍に跳ね上がったと聞いたとき、私は思わず手を叩いた。
「やったわ……!」
「君の見立て通りだ。今後も、農業と物流の両面で収益が見込める」
「ありがとう、アイザック。あなたのおかげよ」
「違う。君の判断と行動力の結果だ」
彼はそう言って、そっと微笑んだ。
気づけば、彼の笑顔を見るたびに、胸が苦しくなる。
それが“恋”だということに、私はもうとっくに気づいていた。
でも、口にはできない。
彼には彼の立場がある。私はいま、“王太子に捨てられた女”という肩書きを背負っているのだから。
そして――
その夜。
領内で、不審火が発生した。
火の手が上がったのは、先日建設したばかりの農業倉庫。大切な器具や、秋の種が保管されていた場所だ。
「誰が……!?」
私は夜着のまま駆けつけ、炎の中で立ち尽くすしかなかった。
幸い、火は早めに消し止められたが、被害は大きい。設備は半壊し、再建には時間と金がかかる。
「人為的な放火です」
現場検証に来た衛兵が、静かに告げた。
「松明の残骸と、王都の紙幣が数枚、落ちていました」
王都の紙幣?
それが意味するのは――
「……アラン……っ!」
思わず名前を吐き出していた。
偶然のはずがない。私を脅し、従わせるための“見せしめ”。
私の領地を荒らし、私の力を削ぎ落とすことで、逃げ場をなくすつもりだ。
最低だ。
本当に、最低な男。
「レティシア嬢、大丈夫か?」
声をかけてきたのは、アイザックだった。
彼の衣服には消火活動でできた泥が跳ねていた。目の下には疲労の色が濃く、けれど視線だけは、私を見つめる強さに満ちていた。
「……ごめんなさい。わたしのせいで」
「違う。君は悪くない。悪いのは、こんな卑怯な手を使って君を縛ろうとする連中だ」
アイザックは、私の肩を支えてくれた。
その温もりに、胸の奥がじんわりと熱くなる。
ふと、私は疑問を口にした。
「……ねえ、アイザックさん。どうして、そこまでしてくれるの?」
「それは――」
彼の答えが出る前に、ふたりの間に足音が差し込んできた。
「申し訳ありません! 新たに届いた文書が……王宮より直々に、“王太子殿下の訪問予定”が通達されました!」
また?
今度は、正式に“王家の名”を使ってくる気?
「こんなやり方、許さない……!」
怒りに震える私の背後で、アイザックの表情がわずかに陰った。
「……レティシア嬢。ひとつ、話しておかなければならないことがある」
「え?」
彼は静かに、けれど決然と口を開いた。
「俺の本名は――“イザーク・ルイス・フェルデン”。
フェルデン公爵家の次男だ」
――その名を、私は知っていた。
王家に並ぶ、名門中の名門。
長らく政治から距離を置いていた名家の、かつての次期当主候補。
「え……本当なの……?」
「本当だ。だが俺は、家を捨てた。表の政治とは距離を取り、現場で働く者として自分の力を試す道を選んだ」
なぜ、そんなことを今まで……
「君が“本気”で王家と向き合う覚悟を持った時、俺も全てを明かすと決めていた」
アイザック――イザークは、私の目を真っ直ぐに見て、言った。
「レティシア。君が本気で立ち向かうなら、俺も“本気”で支える。……それが俺の意思だ」
馬車に乗り込む直前、彼は振り返って、しつこく言った。
「俺は、あきらめない」
まるで執着だけで動いているようなその目に、私はもう何の感情も湧かなかった。ただ、厄介だという思いだけが残る。
「……面倒ね」
「同感だ」
隣でアイザックが吐息混じりに答えた。
「次は王宮から、正式な文書が来るかもしれない。『元婚約者』に対する特例扱い、という名目で」
「わたしを王都に戻そうとするの?」
「あり得る。アラン王太子の失策を補うために、外堀から固めるつもりだろう。君が王都に戻れば、あとは“再婚”を既成事実にするだけで済む」
冗談じゃない。
私はもう“誰かの妃”になるために生きてはいない。
私の人生は、私のもの。王宮のために捧げる気なんて、さらさらない。
「だったら、迎え撃つしかないわね」
私が笑うと、アイザックも口元をわずかにゆるめた。
「その覚悟があるなら、手を貸す」
「最初からそのつもりよ。あなたがいると、百人力だわ」
目を合わせると、アイザックの視線がわずかに揺れる。
「……褒めすぎだ」
「そうかしら?」
「褒められ慣れてないんだ、俺は。だから君に言われると……変に意識してしまう」
その言葉に、思わず心臓が跳ねた。
(変に意識って……それはつまり)
けれど、聞き返す勇気はなかった。
代わりに、私は視線を地図へと戻した。
次の日、王宮からの文が本当に届いた。
『王都での聴聞会への招致』『貴族院より事情聴取の必要』『グランメル領での急速な開発の合法性の確認』
名目こそ“形式的”だが、その意図は明白だった。
「……要するに、レティシア嬢を王都に連れ戻したいわけだな。あくまで“本人の意志”を無視して」
「“善意”を装ってね」
王族らしい姑息なやり方。都合の悪い真実を覆い隠して、体裁だけ整える。
アランにとっても、王家にとっても、私という“元婚約者”が勝手に成功している状況は、面白くないのだろう。
「なら、こちらも手を打つわ。王都には戻らない。むしろ、王宮に対抗できる“外部の後ろ盾”を見つける」
「心当たりは?」
「……ひとつだけ」
それは、亡き母の出身地。
ラングフォード公爵家――王家とは異なる系譜に連なる、自由都市連盟に連なる名家だ。
私は幼い頃、母の里帰りに付き添って、一度だけ訪れた記憶がある。
確か、ラングフォードの現当主は母の従兄。つまり、私にとっては叔父にあたる存在だ。
「もし、彼らの支援を取り付けられれば、王家にも強く出られるはず」
「リスクもあるが……価値はあるな」
私たちは、すぐにラングフォードへの使者を出す手配を始めた。
時間はかかる。けれど、動かなければ奪われるだけ。
それから数日。
町の整備は着々と進み、領民たちの間にも活気が戻ってきていた。
特に水路の再建が功を奏し、農作物の収穫予測が倍に跳ね上がったと聞いたとき、私は思わず手を叩いた。
「やったわ……!」
「君の見立て通りだ。今後も、農業と物流の両面で収益が見込める」
「ありがとう、アイザック。あなたのおかげよ」
「違う。君の判断と行動力の結果だ」
彼はそう言って、そっと微笑んだ。
気づけば、彼の笑顔を見るたびに、胸が苦しくなる。
それが“恋”だということに、私はもうとっくに気づいていた。
でも、口にはできない。
彼には彼の立場がある。私はいま、“王太子に捨てられた女”という肩書きを背負っているのだから。
そして――
その夜。
領内で、不審火が発生した。
火の手が上がったのは、先日建設したばかりの農業倉庫。大切な器具や、秋の種が保管されていた場所だ。
「誰が……!?」
私は夜着のまま駆けつけ、炎の中で立ち尽くすしかなかった。
幸い、火は早めに消し止められたが、被害は大きい。設備は半壊し、再建には時間と金がかかる。
「人為的な放火です」
現場検証に来た衛兵が、静かに告げた。
「松明の残骸と、王都の紙幣が数枚、落ちていました」
王都の紙幣?
それが意味するのは――
「……アラン……っ!」
思わず名前を吐き出していた。
偶然のはずがない。私を脅し、従わせるための“見せしめ”。
私の領地を荒らし、私の力を削ぎ落とすことで、逃げ場をなくすつもりだ。
最低だ。
本当に、最低な男。
「レティシア嬢、大丈夫か?」
声をかけてきたのは、アイザックだった。
彼の衣服には消火活動でできた泥が跳ねていた。目の下には疲労の色が濃く、けれど視線だけは、私を見つめる強さに満ちていた。
「……ごめんなさい。わたしのせいで」
「違う。君は悪くない。悪いのは、こんな卑怯な手を使って君を縛ろうとする連中だ」
アイザックは、私の肩を支えてくれた。
その温もりに、胸の奥がじんわりと熱くなる。
ふと、私は疑問を口にした。
「……ねえ、アイザックさん。どうして、そこまでしてくれるの?」
「それは――」
彼の答えが出る前に、ふたりの間に足音が差し込んできた。
「申し訳ありません! 新たに届いた文書が……王宮より直々に、“王太子殿下の訪問予定”が通達されました!」
また?
今度は、正式に“王家の名”を使ってくる気?
「こんなやり方、許さない……!」
怒りに震える私の背後で、アイザックの表情がわずかに陰った。
「……レティシア嬢。ひとつ、話しておかなければならないことがある」
「え?」
彼は静かに、けれど決然と口を開いた。
「俺の本名は――“イザーク・ルイス・フェルデン”。
フェルデン公爵家の次男だ」
――その名を、私は知っていた。
王家に並ぶ、名門中の名門。
長らく政治から距離を置いていた名家の、かつての次期当主候補。
「え……本当なの……?」
「本当だ。だが俺は、家を捨てた。表の政治とは距離を取り、現場で働く者として自分の力を試す道を選んだ」
なぜ、そんなことを今まで……
「君が“本気”で王家と向き合う覚悟を持った時、俺も全てを明かすと決めていた」
アイザック――イザークは、私の目を真っ直ぐに見て、言った。
「レティシア。君が本気で立ち向かうなら、俺も“本気”で支える。……それが俺の意思だ」
390
あなたにおすすめの小説
私がいなくなっても構わないと言ったのは、あなたの方ですよ?
睡蓮
恋愛
セレスとクレイは婚約関係にあった。しかし、セレスよりも他の女性に目移りしてしまったクレイは、ためらうこともなくセレスの事を婚約破棄の上で追放してしまう。お前などいてもいなくても構わないと別れの言葉を告げたクレイであったものの、後に全く同じ言葉をセレスから返されることとなることを、彼は知らないままであった…。
※全6話完結です。
お前なんかに会いにくることは二度とない。そう言って去った元婚約者が、1年後に泣き付いてきました
柚木ゆず
恋愛
侯爵令嬢のファスティーヌ様が自分に好意を抱いていたと知り、即座に私との婚約を解消した伯爵令息のガエル様。
そんなガエル様は「お前なんかに会いに来ることは2度とない」と仰り去っていったのですが、それから1年後。ある日突然、私を訪ねてきました。
しかも、なにやら必死ですね。ファスティーヌ様と、何かあったのでしょうか……?
愚か者が自滅するのを、近くで見ていただけですから
越智屋ノマ
恋愛
宮中舞踏会の最中、侯爵令嬢ルクレツィアは王太子グレゴリオから一方的に婚約破棄を宣告される。新たな婚約者は、平民出身で才女と名高い女官ピア・スミス。
新たな時代の象徴を気取る王太子夫妻の華やかな振る舞いは、やがて国中の不満を集め、王家は静かに綻び始めていく。
一方、表舞台から退いたはずのルクレツィアは、親友である王女アリアンヌと再会する。――崩れゆく王家を前に、それぞれの役割を選び取った『親友』たちの結末は?
姉のものを欲しがる性悪な妹に、墓穴を掘らせてみることにした
柚木ゆず
恋愛
僕の婚約者であるロゼの家族は、困った人ばかりだった。
異母妹のアメリはロゼの物を欲しがって平然と奪い取り、継母ベルは実子だけを甘やかす。父親であるトムはベルに夢中で、そのためアメリの味方ばかりする。
――そんな人達でも、家族ですので――。
それでもロゼは我慢していたのだけれど、その日、アメリ達は一線を越えてしまった。
「マエル様を欲しくなったの。お姉様の婚約者を頂戴」
「邪魔をすれば、ここにあるユリのアクセサリーを壊すわよ?」
アメリとベルは自分達の都合でこの婚約を解消させようとして、ロゼが拒否をしたら亡き母の形見を使って脅迫を始めたらしいのだ。
僕に迷惑をかけようとしたことと、形見を取り上げられたこと。それによってロゼはついに怒り、僕が我慢している理由もなくなった。
だからこれから、君達にこれまでのお礼をすることにしたんだ。アメリ、ベル、そしてトム。どうぞお楽しみに。
愛さえあれば他には何も要らない? 貴方の新しい婚約者は、そう思ってはいないみたいですよ?
柚木ゆず
恋愛
※12月17日、本編が完結いたしました。明日18日より、番外編を投稿させていただきます。
真に愛すべき人と出逢い、興味がなくなった。そんな理由で私は一方的に、ロズオルヤ伯爵家のジル様から婚約を解消されました。
そうして私達の関係はなくなり、そのためウチが行っていたロズオルヤ家への金銭的な支援が止まることとなって――
「支援がなくなれば、現在のような裕福な暮らしが出来なくなってしまう――リリアンに愛想を尽かされると、考えたんだろう」
「確かにもう高価なものを贈れなくなってしまうが、問題はない。リリアンは俺からの愛さえあればいいと思ってくれている清らかな人なのだからな!」
――そうすればジル様はまるでウチが嫌がらせをしているかのように語り、私やお父様をたっぷり嗤って去られたのでした。
そう、なのですね。貴方様は、何もご存じないのですね。
ジル様が絶賛されているその方は、実は――
愛の力があれば何でもできる、11年前にそう言っていましたよね?
柚木ゆず
恋愛
それは、夫であるレジスさんと結婚10周年を祝っている時のことでした。不意にわたし達が暮らすお屋敷に、11年前に駆け落ちした2人が――わたしの妹ヴェロニクとレジスさんの兄テランスさんが現れたのです。
身勝手な行動によって周囲にとんでもない迷惑をかけた上に、駆け落ちの際にはお金や貴金属を多数盗んでいってしまった。そんなことをしているのに、突然戻ってくるだなんて。
なにがあったのでしょうか……?
※12月7日、本編完結。後日、主人公たちのその後のエピソードを追加予定となっております。
ちゃんと忠告をしましたよ?
柚木ゆず
ファンタジー
ある日の、放課後のことでした。王立リザエンドワール学院に籍を置く私フィーナは、生徒会長を務められているジュリアルス侯爵令嬢アゼット様に呼び出されました。
「生徒会の仲間である貴方様に、婚約祝いをお渡したくてこうしておりますの」
アゼット様はそのように仰られていますが、そちらは嘘ですよね? 私は最愛の方に護っていただいているので、貴方様に悪意があると気付けるのですよ。
アゼット様。まだ間に合います。
今なら、引き返せますよ?
※現在体調の影響により、感想欄を一時的に閉じさせていただいております。
妹のために犠牲になることを姉だから仕方ないで片付けないでください。
木山楽斗
恋愛
妹のリオーラは、幼い頃は病弱であった。両親はそんな妹を心配して、いつも甘やかしていた。
それはリオーラが健康体になってからも、続いていた。お医者様の言葉も聞かず、リオーラは病弱であると思い込んでいるのだ。
リオーラは、姉である私のことを侮っていた。
彼女は両親にわがままを言い、犠牲になるのはいつも私だった。妹はいつしか、私を苦しめることに重きを置くようになっていたのだ。
ある時私は、妹のわがままによって舞踏会に無理な日程で参加することになった。
そこで私は、クロード殿下と出会う。彼との出会いは、私の現状を変えていくことになるのだった。
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる