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ユリウス殿下──いえ、ユリウスの私室は、第一王子にふさわしく広く、それでいて無駄がなく、整然としていた。
大理石の床には手織りのカーペット、壁には歴代の王族の肖像画。窓辺からは王都の街並みが見渡せる。
だが、そんな景観も、彼の近くでは霞んで見える。
「……本当に、よく無事で帰ってきてくれたな。アリア」
椅子に腰かけた私の向かいで、ユリウスがワインを注ぎながら言った。
「一度は覚悟したよ。君が帰ってこない可能性も……」
「でも私は帰りました。あなたの“期待”に応えるために」
その言葉に、ユリウスは一瞬だけ動きを止めた。琥珀色のワインがグラスに静かに注がれ続ける。
「君は、いつも自分に厳しい」
ワインを手渡され、私は受け取る。
「でも、僕はね、アリア。君に“完璧”を求めたことなんて一度もない。君が生きていてくれる、それだけで十分だった」
「……嘘、です」
「嘘じゃない」
ユリウスは少し微笑んだ。
「君がこの国を救ったことを誰よりも誇りに思ってる。けれど、それ以上に……君が、僕の隣に戻ってきてくれたことが嬉しい」
その目は、ただの上司や同僚が向けるような視線ではなかった。
……ああ、だめだ。こんなに優しくされたら。
「ユリウス……」
「アリア」
そっと、ユリウスが私の手を取った。
その温もりに、私は一瞬だけ目を閉じる。戦場で何度も失いかけた心が、ようやく安堵に包まれる。
「お願いがあるんだ」
「……なんでしょう」
「君に、正式に近衛団長を任せたい。国王にかけあうつもりだ」
思わず、私は息を呑んだ。
「わたしが……団長?」
「ああ。戦場での采配、士気を維持し続けた統率力、そして剣の腕前。どれをとっても、今の騎士団では君以上の人材はいない」
私は、膝の上で拳をぎゅっと握る。
「でも……私は平民です。貴族社会に迎えられる保証など……」
「僕が保証する。君の出自ではなく、実力を見て判断する」
「それが通るほど、甘くはありませんよ。ユリウス、“殿下”」
わざと皮肉を込めてそう呼ぶと、ユリウスは困ったように笑った。
「君はいつも、自分を過小評価しすぎる」
「過小評価しているのではなく、現実を見ているだけです。レオナルド殿下のように」
その名前を出した瞬間、ユリウスの目が少しだけ細められた。
「……奴にまた何か言われたのか?」
「いえ。ただ、態度があまりにも……変わりすぎていて、呆れたというだけです」
「そうか」
ユリウスはグラスの中のワインを一口含み、言葉を選ぶようにしてから言った。
「アリア。……あいつにだけは、気を許さないでくれ。あいつは今、焦っている。君の存在が、あいつの立場を脅かしていると気づいたから」
「……王族としての立場を?」
「いや、男としても、かもしれないな」
冗談めいた調子だったけれど、彼の表情は真剣だった。
「奴は、君の価値を見誤った。手放したことを、今になって悔いているだろう」
「後悔しても、もう遅いです」
私はきっぱりとそう言い放ち、グラスを置く。
その時、扉の向こうで、控えの侍女の声がした。
「ユリウス殿下、第二王子レオナルド様がお見えです」
……来た。やっぱり来た。
ユリウスと目を合わせる。彼は微かに眉をひそめると、椅子から立ち上がった。
「通す必要はない。今は、私的な時間だ」
だが、扉が勢いよく開いた。
「兄上、少しだけ時間をいただけないか?」
堂々と入ってきたレオナルドの目が、まず私を捉え、次にユリウスを見た。
「……お邪魔だったかもしれないが、伝えたいことがあるんだ」
私は席を立ち、冷静に言葉を選ぶ。
「わたくしに、でしょうか」
「……ああ。君に」
レオナルドは一歩、私のほうに近づく。けれど、ユリウスがすっと私の前に出た。
「ここは、私の私室だ。来客の許可を出すのは、私だぞ、レオナルド」
その言葉にレオナルドは眉をひそめたが、言い返さなかった。
「……アリア。あの時のことを謝りたかった。君を、平民だからと侮ったこと……それは、間違いだった」
「ええ、間違いでしたね。でもそれを今になって言われても、何も変わりません」
「君は……昔のままじゃない」
「当たり前です。英雄と呼ばれてしまったので。平民のままの私では、国は救えませんでした」
皮肉混じりの言葉に、レオナルドはたじろぐ。
「……いや、本当に、俺は君を――」
「やめてください。昔の“恋人”に未練がましい言葉を投げかけるのは、貴族らしくありませんよ、レオナルド“殿下”」
私は、あえて冷たく、上から見下すように言った。
かつて私が見上げていた彼を、今は見下ろすことができる。地位ではなく、誇りによって。
レオナルドは何も言えなくなり、しばらく沈黙したのち、舌打ちをして部屋を出ていった。
扉が閉まる音が響いたあと、ユリウスがこちらを振り返った。
「……強くなったな、アリア」
「そう見えますか?」
「見えるよ。けど……無理は、してないか?」
その声は、今まででいちばん優しかった。
私は、少しだけ目を伏せた。
「……まだ、少しだけ怖いです。全部、夢なんじゃないかって。でも……あなたがいるから、なんとか、現実だと思える」
ユリウスの瞳が、ふわりと柔らかくなる。
次の瞬間、彼がそっと私の髪を撫でた。
「大丈夫。これは夢じゃない。……俺が、君の居場所になるから」
心が、ふっと軽くなる。
けれど、その夜。
王宮の奥深くで、一枚の密書が交わされていた。
『“英雄”アリアの存在は、国家の秩序を乱す――排除すべし』
その署名には、見覚えのある貴族の名が並んでいた。
アリアを巡る陰謀が、静かに幕を開けようとしていた。
大理石の床には手織りのカーペット、壁には歴代の王族の肖像画。窓辺からは王都の街並みが見渡せる。
だが、そんな景観も、彼の近くでは霞んで見える。
「……本当に、よく無事で帰ってきてくれたな。アリア」
椅子に腰かけた私の向かいで、ユリウスがワインを注ぎながら言った。
「一度は覚悟したよ。君が帰ってこない可能性も……」
「でも私は帰りました。あなたの“期待”に応えるために」
その言葉に、ユリウスは一瞬だけ動きを止めた。琥珀色のワインがグラスに静かに注がれ続ける。
「君は、いつも自分に厳しい」
ワインを手渡され、私は受け取る。
「でも、僕はね、アリア。君に“完璧”を求めたことなんて一度もない。君が生きていてくれる、それだけで十分だった」
「……嘘、です」
「嘘じゃない」
ユリウスは少し微笑んだ。
「君がこの国を救ったことを誰よりも誇りに思ってる。けれど、それ以上に……君が、僕の隣に戻ってきてくれたことが嬉しい」
その目は、ただの上司や同僚が向けるような視線ではなかった。
……ああ、だめだ。こんなに優しくされたら。
「ユリウス……」
「アリア」
そっと、ユリウスが私の手を取った。
その温もりに、私は一瞬だけ目を閉じる。戦場で何度も失いかけた心が、ようやく安堵に包まれる。
「お願いがあるんだ」
「……なんでしょう」
「君に、正式に近衛団長を任せたい。国王にかけあうつもりだ」
思わず、私は息を呑んだ。
「わたしが……団長?」
「ああ。戦場での采配、士気を維持し続けた統率力、そして剣の腕前。どれをとっても、今の騎士団では君以上の人材はいない」
私は、膝の上で拳をぎゅっと握る。
「でも……私は平民です。貴族社会に迎えられる保証など……」
「僕が保証する。君の出自ではなく、実力を見て判断する」
「それが通るほど、甘くはありませんよ。ユリウス、“殿下”」
わざと皮肉を込めてそう呼ぶと、ユリウスは困ったように笑った。
「君はいつも、自分を過小評価しすぎる」
「過小評価しているのではなく、現実を見ているだけです。レオナルド殿下のように」
その名前を出した瞬間、ユリウスの目が少しだけ細められた。
「……奴にまた何か言われたのか?」
「いえ。ただ、態度があまりにも……変わりすぎていて、呆れたというだけです」
「そうか」
ユリウスはグラスの中のワインを一口含み、言葉を選ぶようにしてから言った。
「アリア。……あいつにだけは、気を許さないでくれ。あいつは今、焦っている。君の存在が、あいつの立場を脅かしていると気づいたから」
「……王族としての立場を?」
「いや、男としても、かもしれないな」
冗談めいた調子だったけれど、彼の表情は真剣だった。
「奴は、君の価値を見誤った。手放したことを、今になって悔いているだろう」
「後悔しても、もう遅いです」
私はきっぱりとそう言い放ち、グラスを置く。
その時、扉の向こうで、控えの侍女の声がした。
「ユリウス殿下、第二王子レオナルド様がお見えです」
……来た。やっぱり来た。
ユリウスと目を合わせる。彼は微かに眉をひそめると、椅子から立ち上がった。
「通す必要はない。今は、私的な時間だ」
だが、扉が勢いよく開いた。
「兄上、少しだけ時間をいただけないか?」
堂々と入ってきたレオナルドの目が、まず私を捉え、次にユリウスを見た。
「……お邪魔だったかもしれないが、伝えたいことがあるんだ」
私は席を立ち、冷静に言葉を選ぶ。
「わたくしに、でしょうか」
「……ああ。君に」
レオナルドは一歩、私のほうに近づく。けれど、ユリウスがすっと私の前に出た。
「ここは、私の私室だ。来客の許可を出すのは、私だぞ、レオナルド」
その言葉にレオナルドは眉をひそめたが、言い返さなかった。
「……アリア。あの時のことを謝りたかった。君を、平民だからと侮ったこと……それは、間違いだった」
「ええ、間違いでしたね。でもそれを今になって言われても、何も変わりません」
「君は……昔のままじゃない」
「当たり前です。英雄と呼ばれてしまったので。平民のままの私では、国は救えませんでした」
皮肉混じりの言葉に、レオナルドはたじろぐ。
「……いや、本当に、俺は君を――」
「やめてください。昔の“恋人”に未練がましい言葉を投げかけるのは、貴族らしくありませんよ、レオナルド“殿下”」
私は、あえて冷たく、上から見下すように言った。
かつて私が見上げていた彼を、今は見下ろすことができる。地位ではなく、誇りによって。
レオナルドは何も言えなくなり、しばらく沈黙したのち、舌打ちをして部屋を出ていった。
扉が閉まる音が響いたあと、ユリウスがこちらを振り返った。
「……強くなったな、アリア」
「そう見えますか?」
「見えるよ。けど……無理は、してないか?」
その声は、今まででいちばん優しかった。
私は、少しだけ目を伏せた。
「……まだ、少しだけ怖いです。全部、夢なんじゃないかって。でも……あなたがいるから、なんとか、現実だと思える」
ユリウスの瞳が、ふわりと柔らかくなる。
次の瞬間、彼がそっと私の髪を撫でた。
「大丈夫。これは夢じゃない。……俺が、君の居場所になるから」
心が、ふっと軽くなる。
けれど、その夜。
王宮の奥深くで、一枚の密書が交わされていた。
『“英雄”アリアの存在は、国家の秩序を乱す――排除すべし』
その署名には、見覚えのある貴族の名が並んでいた。
アリアを巡る陰謀が、静かに幕を開けようとしていた。
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