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最終章 牙狼の王
眠る聖女
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聖女ネフェルが病に臥した。
その噂は、瞬く間に大陸中を駆け巡り、民衆に大きな衝撃を与えた。
人々は聖女の治癒を願い、聖王国へ巡礼の旅に出た。
聖王国の大聖堂には、早朝から人が押し寄せ、途切れることなく祈りが捧げられていた。
やがて祈りを捧げる場所が足りなくなり、加えて不審者への警戒も必要となったため、聖王国は慌てて対策に乗り出した。
ネフェルが療養している大司教ルカの屋敷を遠望できる場所に、急ごしらえの壁が築かれた。
聖女の壁。
「これ以上近づくと、聖女様にご負担がかかる」
衛兵たちが繰り返し呼びかける。
小さな聖王国には、すでにこれ以上の人を受け入れる余裕はなかった。
「巡礼の禁止」
大陸諸国へ急ぎ通達が出されたが、効果はほとんどなかった。
「無理に民を止めれば、暴動が起きる」
誰もが、それを理解していた。
聖女ネフェルが病に臥した原因を探る動きが始まり、それが新たな火種となった。
「聖女様への信仰が足りなかったせいだ」
「我が領主の態度が、聖女様に不遜だったからだ」
光を失った民衆の怒りは、身近な存在へと向けられる。
焦った領主たちは、巡礼禁止の通達を無視し、逆に自ら聖王国へ派遣団を送った。
「聖女様へ、お見舞いを」
もちろん、多額の寄付を行った事実も大々的に民衆へ知らしめた。
さらに、ネフェルの容体について僅かでも情報が得られれば、それを己の手柄として誇示する腹積もりだった。
「これが、仮病ならどれほど良かったか……」
大司教ルカは、深く溜息をついた。
だが、事態は極めて深刻だった。
「大司教ルカが、ネフェル様の予定を詰め込みすぎたせいだ、なんて声も教会内部では出てますしね」
聖王国の大商人グラシアスが、軽く茶化す。
「言わせておけ。それより、ネフェル様の病だ。グラシアス、何かわかったか?」
ルカの顔には疲労が滲んでいた。
眠っていないのだろう。食事もほとんど取らず、酒にも手を伸ばしていない。精神的な余裕は、どこにもなかった。
「まるで、信者の鏡ですね」
「何か言ったか?」
「いえ。ノルドやマルカスたちが調査に向かっています。報告を待ちましょう。各国の秘蔵書も調べさせていますし、サルサ様も全力で治療に当たっています」
グラシアスは、ちらりとルカを見た。
「ああ、神よ。ネフェル様をお救いください」
ルカは両手を合わせ、膝をつき、首を垂れた。
何度も、何度も、小さな声で祈りを捧げる。
「ほんの一月前までは……ネフェルは元気だったというのに」
※
シシルナ島、サルサのサナトリウム。
院長のサルサは、患者であるセラと向かい合っていた。
「全身を隈なく調べたが、どこにも傷ひとつない」
ネフェルの病状は、ただ一つ。
目覚めないこと。
「どうするんですか?」
「不思議なことに、飲むことはできる。だから、栄養のあるものを飲ませる」
「わかりました。私が調理と看病をします。身辺警護も必要でしょうし」
今のネフェルは無防備だ。
どんな敵が忍び寄るか分からない。
サルサは強力な魔術師だが、常に側にいられるわけではなかった。
セラは剣を差し、冒険者の装備に身を包んでいる。
「セラに看病を任せると、息子のノルドに怒られてしまうかな」
「あの子が怒るわけありませんよ。どれだけお世話になっているか。ここにも、ネフェルにも」
「それじゃあ、少し出かけてくる。島主のところで会合だ。また、きな臭い動きがあるようでな」
サルサはそう言い残し、ネフェルの病室を後にした。
眠る聖女は、まるで心地よい夢を見ているかのような寝顔をしている。
「きっと、休息を取っているのよ。激しい戦いだったもの」
介護者用のベッドに腰掛け、窓の外を見る。
外出する院長が、広がる庭の片隅にある三つの岩へ花を供えているのが見えた。
三英雄の墓。
いたずら好きで温かい彼らは、このサナトリウムで長く療養していた。
そして数年前、突如として大陸中を襲った魔物の大侵攻を止めるため、最後の力を振り絞って戦った。
「帰って来たよ!」
使命を終えた彼らは、シシルナ島へ辿り着き、安心したようにこの地で安らかな最期を迎えた。
「ネフェルも……それなの?」
悪い未来が脳裏をよぎり、慌てて打ち消す。
「美味しいものを作るわ。待ってて。フルーツを潰したジュースにしましょう」
彼女の頬を愛おしそうに撫で、セラは調理場へ向かった。
※
セラの息子、牙狼の子ノルドは、仲間たちと共に東の大地にいた。
遥か果てまで続く、深い森。
ネフェルが使役する、古き光のドラゴンの背に乗って、ここまで移動してきた。
「ありがとう、アストレイル!」
恐るべき竜を撫でているのは、ネフェルの妹アマリと、犬人族のリコだ。
「この先なのね」
ネフェルが眠りにつく直前、最後に訪れた場所。
変哲もない場所だが、彼女が来た以上、何かしらの理由があるはずだった。
その理由は、まだ誰にも分からない。
薬師であるノルドは、ネフェルを目覚めさせる薬を求め、書物を調べ、知りうる限りの知識で調薬を試みた。
だが、効果は一切なかった。
「こっちに、微かにネフェルの匂いが残ってる」
「ワオーン!」
リコと、ノルドの友である牙狼のヴァルが走り出す。
アマリの周囲を飛んでいた精霊の子も、進むべき方向を示すように宙を舞った。
「行こう、アマリ!」
ノルドは彼女の手を取り、森の奥へと踏み出した。
その噂は、瞬く間に大陸中を駆け巡り、民衆に大きな衝撃を与えた。
人々は聖女の治癒を願い、聖王国へ巡礼の旅に出た。
聖王国の大聖堂には、早朝から人が押し寄せ、途切れることなく祈りが捧げられていた。
やがて祈りを捧げる場所が足りなくなり、加えて不審者への警戒も必要となったため、聖王国は慌てて対策に乗り出した。
ネフェルが療養している大司教ルカの屋敷を遠望できる場所に、急ごしらえの壁が築かれた。
聖女の壁。
「これ以上近づくと、聖女様にご負担がかかる」
衛兵たちが繰り返し呼びかける。
小さな聖王国には、すでにこれ以上の人を受け入れる余裕はなかった。
「巡礼の禁止」
大陸諸国へ急ぎ通達が出されたが、効果はほとんどなかった。
「無理に民を止めれば、暴動が起きる」
誰もが、それを理解していた。
聖女ネフェルが病に臥した原因を探る動きが始まり、それが新たな火種となった。
「聖女様への信仰が足りなかったせいだ」
「我が領主の態度が、聖女様に不遜だったからだ」
光を失った民衆の怒りは、身近な存在へと向けられる。
焦った領主たちは、巡礼禁止の通達を無視し、逆に自ら聖王国へ派遣団を送った。
「聖女様へ、お見舞いを」
もちろん、多額の寄付を行った事実も大々的に民衆へ知らしめた。
さらに、ネフェルの容体について僅かでも情報が得られれば、それを己の手柄として誇示する腹積もりだった。
「これが、仮病ならどれほど良かったか……」
大司教ルカは、深く溜息をついた。
だが、事態は極めて深刻だった。
「大司教ルカが、ネフェル様の予定を詰め込みすぎたせいだ、なんて声も教会内部では出てますしね」
聖王国の大商人グラシアスが、軽く茶化す。
「言わせておけ。それより、ネフェル様の病だ。グラシアス、何かわかったか?」
ルカの顔には疲労が滲んでいた。
眠っていないのだろう。食事もほとんど取らず、酒にも手を伸ばしていない。精神的な余裕は、どこにもなかった。
「まるで、信者の鏡ですね」
「何か言ったか?」
「いえ。ノルドやマルカスたちが調査に向かっています。報告を待ちましょう。各国の秘蔵書も調べさせていますし、サルサ様も全力で治療に当たっています」
グラシアスは、ちらりとルカを見た。
「ああ、神よ。ネフェル様をお救いください」
ルカは両手を合わせ、膝をつき、首を垂れた。
何度も、何度も、小さな声で祈りを捧げる。
「ほんの一月前までは……ネフェルは元気だったというのに」
※
シシルナ島、サルサのサナトリウム。
院長のサルサは、患者であるセラと向かい合っていた。
「全身を隈なく調べたが、どこにも傷ひとつない」
ネフェルの病状は、ただ一つ。
目覚めないこと。
「どうするんですか?」
「不思議なことに、飲むことはできる。だから、栄養のあるものを飲ませる」
「わかりました。私が調理と看病をします。身辺警護も必要でしょうし」
今のネフェルは無防備だ。
どんな敵が忍び寄るか分からない。
サルサは強力な魔術師だが、常に側にいられるわけではなかった。
セラは剣を差し、冒険者の装備に身を包んでいる。
「セラに看病を任せると、息子のノルドに怒られてしまうかな」
「あの子が怒るわけありませんよ。どれだけお世話になっているか。ここにも、ネフェルにも」
「それじゃあ、少し出かけてくる。島主のところで会合だ。また、きな臭い動きがあるようでな」
サルサはそう言い残し、ネフェルの病室を後にした。
眠る聖女は、まるで心地よい夢を見ているかのような寝顔をしている。
「きっと、休息を取っているのよ。激しい戦いだったもの」
介護者用のベッドに腰掛け、窓の外を見る。
外出する院長が、広がる庭の片隅にある三つの岩へ花を供えているのが見えた。
三英雄の墓。
いたずら好きで温かい彼らは、このサナトリウムで長く療養していた。
そして数年前、突如として大陸中を襲った魔物の大侵攻を止めるため、最後の力を振り絞って戦った。
「帰って来たよ!」
使命を終えた彼らは、シシルナ島へ辿り着き、安心したようにこの地で安らかな最期を迎えた。
「ネフェルも……それなの?」
悪い未来が脳裏をよぎり、慌てて打ち消す。
「美味しいものを作るわ。待ってて。フルーツを潰したジュースにしましょう」
彼女の頬を愛おしそうに撫で、セラは調理場へ向かった。
※
セラの息子、牙狼の子ノルドは、仲間たちと共に東の大地にいた。
遥か果てまで続く、深い森。
ネフェルが使役する、古き光のドラゴンの背に乗って、ここまで移動してきた。
「ありがとう、アストレイル!」
恐るべき竜を撫でているのは、ネフェルの妹アマリと、犬人族のリコだ。
「この先なのね」
ネフェルが眠りにつく直前、最後に訪れた場所。
変哲もない場所だが、彼女が来た以上、何かしらの理由があるはずだった。
その理由は、まだ誰にも分からない。
薬師であるノルドは、ネフェルを目覚めさせる薬を求め、書物を調べ、知りうる限りの知識で調薬を試みた。
だが、効果は一切なかった。
「こっちに、微かにネフェルの匂いが残ってる」
「ワオーン!」
リコと、ノルドの友である牙狼のヴァルが走り出す。
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「行こう、アマリ!」
ノルドは彼女の手を取り、森の奥へと踏み出した。
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