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二部
迷宮亭に泊まる
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「あわわわ、メグミ姉さん……じゃない!」
リコは椅子からひっくり返りそうになりながら、慌てて立ち上がった。しかし、目の前の女性から漂う香りが違うことに気づくと、そっと椅子に座り直す。
メグミよりも少しふっくらとしており、背もわずかに低い。その柔らかな笑顔と穏やかな雰囲気は、冷静で厳しさを感じさせるメグミとは対照的だった。
「初めまして、ノゾミだよ。料理は楽しんでくれたかい? 姉ちゃんは元気にしてる?」
ノゾミはこの宿の主であり、料理長らしい。人当たりが良く、明るく親しみやすい雰囲気を持っている。
「薬師のノルドです。ご馳走様でした。いつもお世話になってます」
「孤児院のリコです。とても美味しかったでーす! メグミ姉さんには、いつもご指導頂いていまーす!」
「ははは、指導だってさ、ネラ」
ノゾミが隣にいた猫人族の給仕長に声をかけると、ネラは冷めた目を向けた。
「鈍感な犬には、わからないのよ。あの人の怖さが……」ノゾミは苦笑しながら言う。
「ネラは昔、メグミに厳しく指導されたからね」
その言葉を受けて、ネラはノゾミに抱きつき、甘えた声で言った。
「きっと、私たちの仲の良さに焼いてるんですよ!」
その様子にノルドたちは驚いた。先程まではきっちりとした態度の給仕長だったからだ。
「まあ、今日は休んで。明日、朝食の後、ゆっくりお話ししよう! これから後片付けと明日の仕込みがあるんだ。ネラ、部屋に案内して」
ノルドたちは、ネラに連れられて部屋へ向かった。
※
迷宮亭の中は、まるで迷路のように複雑だった。魔石灯の淡い光が暗がりから漏れ、ひんやりとした空気が廊下を包んでいる。
壁に飾られた東洋風の絵画「シシルナ島三十六景」が、どこか幻想的な雰囲気を醸し出していた。
ノルドが物珍しそうに絵を眺めていると、「どう、気に入った?」とネラが話しかけてきた。
「絵のことは詳しくありませんが、こうした東洋風の絵が、今の画家たちに影響を与えたとか……本で読んだことがあります」
「気に入ってくれたなら嬉しいな」
ノルドがさらに視線を移しながら、ふとつぶやく。
「これは、ヴァレンシア孤児院から見た夕日の海……ですか?」
その言葉に、リコがパッと目を輝かせる。
「本当だ! 夕方になると、海がキラキラしてすっごく綺麗なんだよ! あの時間、好きだ!」
ネラも微笑みながらうなずく。
「そう。夕日が沈むとき、海は黄金色に染まり、波の音がやさしく響くのよ」
隣の絵には、穏やかな港町の風景が描かれていた。
「こっちは、サナトリウムからの景色。高台から港を見下ろした構図ね。遠くに船が浮かび、朝焼けに煙る町並みが幻想的でしょ?」
「色々な表情があって……それに、空と海がとても綺麗ですね」
ネラは少し誇らしげに微笑む。
「この空と海の青い色が“シシルナブルー”。この島のダンジョンでしか採れない天然の鉱石から作るインクの色よ」
ノルドとネラが話し込んでいると、不意にノルドの顔に水がかかった。
「あれ? 雨も降ってないのに、水漏れかな。ごめんね」
「いえ、大丈夫です。明日、またゆっくり観ますね」
「そうね。じゃあ、部屋に行きましょう。迷子にならないようにね。まあ、鼻がきくから大丈夫だね」
ネラがくすっと笑い、ノルドたちは廊下を進んでいった。
※
案内された部屋を覗くと、なぜかクッションが山のように積まれていた。その光景に、リコは思わず笑みを浮かべる。
「東洋の和室というやつでね。土足厳禁だから、先に足を洗ってね」
部屋の入り口の横にあるシャワールームで足を洗い、リコは浴衣に着替えると、ヴァルとともにクッションに包まれるようにして、畳の上にだらりと横になった。
一方、ノルドは部屋の机に戦利品を並べ、ふっと息をつく。
「ビュアン、ごめんね、遅くなって。……ビュアン?」
ノルドが声をかけても、ビュアンは現れない。どうやら拗ねているようだった。
……というのも、さっきノルドに水をかけるいたずらをしたせいで、今さら姿を現しづらくなっているのだ。
ノルドは苦笑し、少し声の調子を変える。
「困ったなぁ。このチーズのデザート、冷めちゃうと不味くなってしまうんだよな」
その瞬間、「そうなの? じゃあ、すぐに食べないと!」と、弾むような声がして、ビュアンがぱっと姿を現した。小さく飛び跳ねたかと思うと、机の上にひょいと着地する。
ノルドは苦笑しながら、小さな妖精にデザートを差し出した。
※
朝食を終えた後、ノルド一行とノゾミたちは、ようやく落ち着いて話すことができた。
「お店と宿、おかげさまで満員御礼でね」
「そうなのよ、三年連続三つ星だから! すごいでしょ?」
ネラが誇らしげに、壁に飾られた《星喰書》の賞状を指差した。
「三つ星はこの大陸に五十軒くらいしかないし、この島では三軒だけよ」
「リコ、どこにでも飾ってあるって言わなかった?」
「だって、グラシアスとシシルナ島に来る途中に泊まった宿には、だいたい飾ってあったんだもん。……あれ? もしかして、普通はそんなにないの?」ネラは呆れたように肩をすくめた。
「グラシアスって、聖王国の御用商人のグラシアス商会長様ですかぁ?」
ノゾミが鼻にかかった甘い声で目を輝かせた。
「そうだよぉ。孤児の私をシシルナ島に連れてきてくれた」
「やっぱりお優しいんですね。それで、どんな女性がタイプなのでしょうか?」
「もう、そんなことより、ここに来た目的は?」
ネラが強引に話題を変えた。ノゾミは残念そうに頬をふくらませたが、それ以上は聞かなかった。
ノルドたちは、ダンジョン町の森へ《バインドカズラ》の探索に来たことを説明した。
「じゃあ、もし森に入るなら、ついでに《幻のきのこ》も探してほしいの。なかなか手に入らなくて」
「でも、どんなきのこなのかわからないと?」
「ここに、干したきのこがあるわ」ノゾミがガラス瓶の蓋を開けると、ふわりと濃厚な香りが広がった。
「すごい……この匂い」
湿った土と若葉の爽やかな香りが混じり合い、まるで森の静寂そのものが凝縮されたような感覚がした。
「でしょ? 《モリユ茸》は春に生えるの。みずみずしくて香りがいいの。でも、探索する時間がなくて困ってるの。もし見つけたらお願いね。ただし、森の深層部は危険だから行かないでね」
「はーい。今日は森で一泊して、明日戻ってきます」
「じゃあ、冒険者用ランチボックスを準備するわ。ちょっと待ってて!」
ネラから弁当を受け取り、お返しに特製の保湿クリームを渡した。
「これって、噂に聞いた《怪我を治すクリーム》……?」
ノゾミが目を輝かせ、興味津々にクリームをネラから受け取る。
「いえ、試作品なので気になさらず」ノルドの今年の最新作の試作品である。
ノルドが軽く流すように言うと、ノゾミは喜びを隠せない表情になった。彼女の手は傷ついており、すぐにでもクリームを試したい様子だった。
「ほんとうに? ありがとう! 気をつけて行ってきてね!」
ノゾミたちに見送られ、朝の光を背にノルドたちは森へと足を踏み入れる。木々の間から差し込む光が、森を柔らかく照らしていた。
しばらく歩くと、木々がざわめき、魔物たちの声が耳に入る。森が、騒がしい。
そして、またもや小さな地震が起こった。
不穏な気配が、じわりと空気に漂い始めていた。
リコは椅子からひっくり返りそうになりながら、慌てて立ち上がった。しかし、目の前の女性から漂う香りが違うことに気づくと、そっと椅子に座り直す。
メグミよりも少しふっくらとしており、背もわずかに低い。その柔らかな笑顔と穏やかな雰囲気は、冷静で厳しさを感じさせるメグミとは対照的だった。
「初めまして、ノゾミだよ。料理は楽しんでくれたかい? 姉ちゃんは元気にしてる?」
ノゾミはこの宿の主であり、料理長らしい。人当たりが良く、明るく親しみやすい雰囲気を持っている。
「薬師のノルドです。ご馳走様でした。いつもお世話になってます」
「孤児院のリコです。とても美味しかったでーす! メグミ姉さんには、いつもご指導頂いていまーす!」
「ははは、指導だってさ、ネラ」
ノゾミが隣にいた猫人族の給仕長に声をかけると、ネラは冷めた目を向けた。
「鈍感な犬には、わからないのよ。あの人の怖さが……」ノゾミは苦笑しながら言う。
「ネラは昔、メグミに厳しく指導されたからね」
その言葉を受けて、ネラはノゾミに抱きつき、甘えた声で言った。
「きっと、私たちの仲の良さに焼いてるんですよ!」
その様子にノルドたちは驚いた。先程まではきっちりとした態度の給仕長だったからだ。
「まあ、今日は休んで。明日、朝食の後、ゆっくりお話ししよう! これから後片付けと明日の仕込みがあるんだ。ネラ、部屋に案内して」
ノルドたちは、ネラに連れられて部屋へ向かった。
※
迷宮亭の中は、まるで迷路のように複雑だった。魔石灯の淡い光が暗がりから漏れ、ひんやりとした空気が廊下を包んでいる。
壁に飾られた東洋風の絵画「シシルナ島三十六景」が、どこか幻想的な雰囲気を醸し出していた。
ノルドが物珍しそうに絵を眺めていると、「どう、気に入った?」とネラが話しかけてきた。
「絵のことは詳しくありませんが、こうした東洋風の絵が、今の画家たちに影響を与えたとか……本で読んだことがあります」
「気に入ってくれたなら嬉しいな」
ノルドがさらに視線を移しながら、ふとつぶやく。
「これは、ヴァレンシア孤児院から見た夕日の海……ですか?」
その言葉に、リコがパッと目を輝かせる。
「本当だ! 夕方になると、海がキラキラしてすっごく綺麗なんだよ! あの時間、好きだ!」
ネラも微笑みながらうなずく。
「そう。夕日が沈むとき、海は黄金色に染まり、波の音がやさしく響くのよ」
隣の絵には、穏やかな港町の風景が描かれていた。
「こっちは、サナトリウムからの景色。高台から港を見下ろした構図ね。遠くに船が浮かび、朝焼けに煙る町並みが幻想的でしょ?」
「色々な表情があって……それに、空と海がとても綺麗ですね」
ネラは少し誇らしげに微笑む。
「この空と海の青い色が“シシルナブルー”。この島のダンジョンでしか採れない天然の鉱石から作るインクの色よ」
ノルドとネラが話し込んでいると、不意にノルドの顔に水がかかった。
「あれ? 雨も降ってないのに、水漏れかな。ごめんね」
「いえ、大丈夫です。明日、またゆっくり観ますね」
「そうね。じゃあ、部屋に行きましょう。迷子にならないようにね。まあ、鼻がきくから大丈夫だね」
ネラがくすっと笑い、ノルドたちは廊下を進んでいった。
※
案内された部屋を覗くと、なぜかクッションが山のように積まれていた。その光景に、リコは思わず笑みを浮かべる。
「東洋の和室というやつでね。土足厳禁だから、先に足を洗ってね」
部屋の入り口の横にあるシャワールームで足を洗い、リコは浴衣に着替えると、ヴァルとともにクッションに包まれるようにして、畳の上にだらりと横になった。
一方、ノルドは部屋の机に戦利品を並べ、ふっと息をつく。
「ビュアン、ごめんね、遅くなって。……ビュアン?」
ノルドが声をかけても、ビュアンは現れない。どうやら拗ねているようだった。
……というのも、さっきノルドに水をかけるいたずらをしたせいで、今さら姿を現しづらくなっているのだ。
ノルドは苦笑し、少し声の調子を変える。
「困ったなぁ。このチーズのデザート、冷めちゃうと不味くなってしまうんだよな」
その瞬間、「そうなの? じゃあ、すぐに食べないと!」と、弾むような声がして、ビュアンがぱっと姿を現した。小さく飛び跳ねたかと思うと、机の上にひょいと着地する。
ノルドは苦笑しながら、小さな妖精にデザートを差し出した。
※
朝食を終えた後、ノルド一行とノゾミたちは、ようやく落ち着いて話すことができた。
「お店と宿、おかげさまで満員御礼でね」
「そうなのよ、三年連続三つ星だから! すごいでしょ?」
ネラが誇らしげに、壁に飾られた《星喰書》の賞状を指差した。
「三つ星はこの大陸に五十軒くらいしかないし、この島では三軒だけよ」
「リコ、どこにでも飾ってあるって言わなかった?」
「だって、グラシアスとシシルナ島に来る途中に泊まった宿には、だいたい飾ってあったんだもん。……あれ? もしかして、普通はそんなにないの?」ネラは呆れたように肩をすくめた。
「グラシアスって、聖王国の御用商人のグラシアス商会長様ですかぁ?」
ノゾミが鼻にかかった甘い声で目を輝かせた。
「そうだよぉ。孤児の私をシシルナ島に連れてきてくれた」
「やっぱりお優しいんですね。それで、どんな女性がタイプなのでしょうか?」
「もう、そんなことより、ここに来た目的は?」
ネラが強引に話題を変えた。ノゾミは残念そうに頬をふくらませたが、それ以上は聞かなかった。
ノルドたちは、ダンジョン町の森へ《バインドカズラ》の探索に来たことを説明した。
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「でも、どんなきのこなのかわからないと?」
「ここに、干したきのこがあるわ」ノゾミがガラス瓶の蓋を開けると、ふわりと濃厚な香りが広がった。
「すごい……この匂い」
湿った土と若葉の爽やかな香りが混じり合い、まるで森の静寂そのものが凝縮されたような感覚がした。
「でしょ? 《モリユ茸》は春に生えるの。みずみずしくて香りがいいの。でも、探索する時間がなくて困ってるの。もし見つけたらお願いね。ただし、森の深層部は危険だから行かないでね」
「はーい。今日は森で一泊して、明日戻ってきます」
「じゃあ、冒険者用ランチボックスを準備するわ。ちょっと待ってて!」
ネラから弁当を受け取り、お返しに特製の保湿クリームを渡した。
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ノゾミが目を輝かせ、興味津々にクリームをネラから受け取る。
「いえ、試作品なので気になさらず」ノルドの今年の最新作の試作品である。
ノルドが軽く流すように言うと、ノゾミは喜びを隠せない表情になった。彼女の手は傷ついており、すぐにでもクリームを試したい様子だった。
「ほんとうに? ありがとう! 気をつけて行ってきてね!」
ノゾミたちに見送られ、朝の光を背にノルドたちは森へと足を踏み入れる。木々の間から差し込む光が、森を柔らかく照らしていた。
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