117 / 221
荷運び人
アマリの恋
しおりを挟む
アマリの最も古い記憶は、ミルクのぬくもりだった。
飲ませてくれていたのは──たぶん、ネフェルではなかった気がする。セラだったかもしれない。
けれど、それ以上に鮮明に焼きついているのは、隣にいた赤ん坊の存在だった。
自分と同じくらいの年頃で、泣きもせず、ただ黙って、じっとこちらを見ていた──。
のちにそれがノルドだったと知ったときの衝撃と、心の底から湧きあがった歓びは、言葉にならなかった。
──つまり、リコよりも、もっとずっと昔から知っているということだ。
長かったようで、短くもあったシシルナ島での療養生活。
サナトリウムに閉じ込められ、中庭くらいしか出歩くことはできなかったけれど、元英雄のおじいちゃんたちとの日々は静かで、あたたかくて、笑いに満ちていた。
そして──お姉ちゃんと共に現れた、優しい少年。ノルドと、その友人の狼、ヴォル。
彼とのお茶会はいつも特別だった。今日も来てくれるだろうかと、カーテンの隙間から空を見上げては待っていた。
そして病が癒えた今、再び戻ってきたのは、喧噪きわまる聖王国の現実だった。
静謐だったあの時間は、まるで帳尻を合わせるかのように、嵐のような日々の中へと吸い込まれていった。
勉学に、聖女の妹としての所作。そして──何よりも、ネフェルの随行。
「お姉ちゃん、私、今日は留守番でもいいかな」
「駄目に決まってるでしょ」
まったくもう……。
ゆっくりした時間を奪っていく犯人は、他でもないネフェルなのだ。
──あのとき過ごせなかった時間を、彼女は必死に取り戻そうとしているのだろう。
アマリとネフェルに血のつながりはない。
北の魔の森に捨てられていた赤子──それが、アマリ。
拾ったのは、その森でたった一人、生きていた少女。すなわち、ネフェルだった。
アマリを育てるために、彼女は聖女となった。
……いや、違う。アマリは知っている。
ネフェルは、ただの聖女ではない。冷静に、歴史の文献をひもとけば、いくつもの違和感に気づくはずだ。
そして、アマリは確信していた。
「大聖女」──数百年に一度、歴史の深層にその名を刻む、特別な存在だということを。
その事実を思い出すたびに、背筋が静かに伸びる。
『大陸に災いが訪れる時、大聖女が現れる』
怖かった。けれど、それ以上に──その背に並び立つために、力をつけたいと、心の底から願った。
「……シシルナ島に、また行きたいな」
ネフェルと交わした、あの祝祭の旅は、まだ果たされていない約束だった。
そんな想いを胸に抱いていたとき、アマリの前に現れたのは、王都とシシルナ島を往復する大商会長、グラシアスだった。
「ノルドのこと、教えてくれる?」
「もちろんだ。手足はすっかり癒え、背も伸びていた。──これが、ノルドからの手紙だ」
彼は、収納魔法から上等な袋と、長文の手紙を取り出して見せた。
「ああ、早く渡して……お姉ちゃんの分もあるのか? ……仕方ないな」
部屋に戻って読むのが楽しみで仕方ない。けれど、それ以上に──袋の中身が、気になってしかたがなかった。
ネフェルが手を伸ばした瞬間、アマリはその手をぴしゃりと叩く。
「見せ合いっこしよう、姉ちゃん」
ノルドの薬は、いつもそうだ。相手を想い、特別に調合されたものばかり。
アマリの袋の奥に、見慣れた蜂蜜飴が見えた。
「いつもの蜂蜜飴か」
ネフェルは、アマリの手をすり抜けて、一粒を口に放り込む。ふっと、やわらかな笑みが零れた。
その笑顔に、胸の奥がつんと痛む。アマリの瞳に、思わず涙がにじんだ。
「……ごめん」
ネフェルは珍しく、申し訳なさそうに微笑んだ。そして、自分の袋からもう一粒、飴を取り出す。
「絶対に、今年の祝祭は一緒に行こう。今度こそ──約束する。……ほら」
差し出された二粒の蜂蜜飴を、アマリは両手でそっと受け取った。
ネフェルは、天衣無縫だ。言いたいことを言い、気まぐれで、誰の顔色も窺わない。
けれど──彼女ほど真剣に、人々のことを思っている者はいない。
彼女には私心がない。
……妹のこと以外には。
※
その日、共和国都パリスでの祝祭には、聖女の姿をひと目見ようと、遠方からも多くの民が訪れていた。
「なんて美しい精霊の踊りだ!」
「これが噂に聞いた聖女様の御力か!」
アマリの唄と精霊の舞は、観る者の魂を揺らし、ネフェルの祝福には、老若男女を問わず誰もが涙した。
けれど、祝祭の華やぎの後で──事件は起きた。
飲ませてくれていたのは──たぶん、ネフェルではなかった気がする。セラだったかもしれない。
けれど、それ以上に鮮明に焼きついているのは、隣にいた赤ん坊の存在だった。
自分と同じくらいの年頃で、泣きもせず、ただ黙って、じっとこちらを見ていた──。
のちにそれがノルドだったと知ったときの衝撃と、心の底から湧きあがった歓びは、言葉にならなかった。
──つまり、リコよりも、もっとずっと昔から知っているということだ。
長かったようで、短くもあったシシルナ島での療養生活。
サナトリウムに閉じ込められ、中庭くらいしか出歩くことはできなかったけれど、元英雄のおじいちゃんたちとの日々は静かで、あたたかくて、笑いに満ちていた。
そして──お姉ちゃんと共に現れた、優しい少年。ノルドと、その友人の狼、ヴォル。
彼とのお茶会はいつも特別だった。今日も来てくれるだろうかと、カーテンの隙間から空を見上げては待っていた。
そして病が癒えた今、再び戻ってきたのは、喧噪きわまる聖王国の現実だった。
静謐だったあの時間は、まるで帳尻を合わせるかのように、嵐のような日々の中へと吸い込まれていった。
勉学に、聖女の妹としての所作。そして──何よりも、ネフェルの随行。
「お姉ちゃん、私、今日は留守番でもいいかな」
「駄目に決まってるでしょ」
まったくもう……。
ゆっくりした時間を奪っていく犯人は、他でもないネフェルなのだ。
──あのとき過ごせなかった時間を、彼女は必死に取り戻そうとしているのだろう。
アマリとネフェルに血のつながりはない。
北の魔の森に捨てられていた赤子──それが、アマリ。
拾ったのは、その森でたった一人、生きていた少女。すなわち、ネフェルだった。
アマリを育てるために、彼女は聖女となった。
……いや、違う。アマリは知っている。
ネフェルは、ただの聖女ではない。冷静に、歴史の文献をひもとけば、いくつもの違和感に気づくはずだ。
そして、アマリは確信していた。
「大聖女」──数百年に一度、歴史の深層にその名を刻む、特別な存在だということを。
その事実を思い出すたびに、背筋が静かに伸びる。
『大陸に災いが訪れる時、大聖女が現れる』
怖かった。けれど、それ以上に──その背に並び立つために、力をつけたいと、心の底から願った。
「……シシルナ島に、また行きたいな」
ネフェルと交わした、あの祝祭の旅は、まだ果たされていない約束だった。
そんな想いを胸に抱いていたとき、アマリの前に現れたのは、王都とシシルナ島を往復する大商会長、グラシアスだった。
「ノルドのこと、教えてくれる?」
「もちろんだ。手足はすっかり癒え、背も伸びていた。──これが、ノルドからの手紙だ」
彼は、収納魔法から上等な袋と、長文の手紙を取り出して見せた。
「ああ、早く渡して……お姉ちゃんの分もあるのか? ……仕方ないな」
部屋に戻って読むのが楽しみで仕方ない。けれど、それ以上に──袋の中身が、気になってしかたがなかった。
ネフェルが手を伸ばした瞬間、アマリはその手をぴしゃりと叩く。
「見せ合いっこしよう、姉ちゃん」
ノルドの薬は、いつもそうだ。相手を想い、特別に調合されたものばかり。
アマリの袋の奥に、見慣れた蜂蜜飴が見えた。
「いつもの蜂蜜飴か」
ネフェルは、アマリの手をすり抜けて、一粒を口に放り込む。ふっと、やわらかな笑みが零れた。
その笑顔に、胸の奥がつんと痛む。アマリの瞳に、思わず涙がにじんだ。
「……ごめん」
ネフェルは珍しく、申し訳なさそうに微笑んだ。そして、自分の袋からもう一粒、飴を取り出す。
「絶対に、今年の祝祭は一緒に行こう。今度こそ──約束する。……ほら」
差し出された二粒の蜂蜜飴を、アマリは両手でそっと受け取った。
ネフェルは、天衣無縫だ。言いたいことを言い、気まぐれで、誰の顔色も窺わない。
けれど──彼女ほど真剣に、人々のことを思っている者はいない。
彼女には私心がない。
……妹のこと以外には。
※
その日、共和国都パリスでの祝祭には、聖女の姿をひと目見ようと、遠方からも多くの民が訪れていた。
「なんて美しい精霊の踊りだ!」
「これが噂に聞いた聖女様の御力か!」
アマリの唄と精霊の舞は、観る者の魂を揺らし、ネフェルの祝福には、老若男女を問わず誰もが涙した。
けれど、祝祭の華やぎの後で──事件は起きた。
2
あなたにおすすめの小説
存在感のない聖女が姿を消した後 [完]
風龍佳乃
恋愛
聖女であるディアターナは
永く仕えた国を捨てた。
何故って?
それは新たに現れた聖女が
ヒロインだったから。
ディアターナは
いつの日からか新聖女と比べられ
人々の心が離れていった事を悟った。
もう私の役目は終わったわ…
神託を受けたディアターナは
手紙を残して消えた。
残された国は天災に見舞われ
てしまった。
しかし聖女は戻る事はなかった。
ディアターナは西帝国にて
初代聖女のコリーアンナに出会い
運命を切り開いて
自分自身の幸せをみつけるのだった。
【完結】幼馴染にフラれて異世界ハーレム風呂で優しく癒されてますが、好感度アップに未練タラタラなのが役立ってるとは気付かず、世界を救いました。
三矢さくら
ファンタジー
【本編完結】⭐︎気分どん底スタート、あとはアガるだけの異世界純情ハーレム&バトルファンタジー⭐︎
長年思い続けた幼馴染にフラれたショックで目の前が全部真っ白になったと思ったら、これ異世界召喚ですか!?
しかも、フラれたばかりのダダ凹みなのに、まさかのハーレム展開。まったくそんな気分じゃないのに、それが『シキタリ』と言われては断りにくい。毎日混浴ですか。そうですか。赤面しますよ。
ただ、召喚されたお城は、落城寸前の風前の灯火。伝説の『マレビト』として召喚された俺、百海勇吾(18)は、城主代行を任されて、城に襲い掛かる謎のバケモノたちに立ち向かうことに。
といっても、発現するらしいチートは使えないし、お城に唯一いた呪術師の第4王女様は召喚の呪術の影響で、眠りっ放し。
とにかく、俺を取り囲んでる女子たちと、お城の皆さんの気持ちをまとめて闘うしかない!
フラれたばかりで、そんな気分じゃないんだけどなぁ!
少し冷めた村人少年の冒険記
mizuno sei
ファンタジー
辺境の村に生まれた少年トーマ。実は日本でシステムエンジニアとして働き、過労死した三十前の男の生まれ変わりだった。
トーマの家は貧しい農家で、神から授かった能力も、村の人たちからは「はずれギフト」とさげすまれるわけの分からないものだった。
優しい家族のために、自分の食い扶持を減らそうと家を出る決心をしたトーマは、唯一無二の相棒、「心の声」である〈ナビ〉とともに、未知の世界へと旅立つのであった。
氷河期世代のおじさん異世界に降り立つ!
本条蒼依
ファンタジー
氷河期世代の大野将臣(おおのまさおみ)は昭和から令和の時代を細々と生きていた。しかし、工場でいつも一人残業を頑張っていたがとうとう過労死でこの世を去る。
死んだ大野将臣は、真っ白な空間を彷徨い神様と会い、その神様の世界に誘われ色々なチート能力を貰い異世界に降り立つ。
大野将臣は異世界シンアースで将臣の将の字を取りショウと名乗る。そして、その能力の錬金術を使い今度の人生は組織や権力者の言いなりにならず、ある時は権力者に立ち向かい、又ある時は闇ギルド五竜(ウーロン)に立ち向かい、そして、神様が護衛としてつけてくれたホムンクルスを最強の戦士に成長させ、昭和の堅物オジサンが自分の人生を楽しむ物語。
異世界召喚でクラスの勇者達よりも強い俺は無能として追放処刑されたので自由に旅をします
Dakurai
ファンタジー
クラスで授業していた不動無限は突如と教室が光に包み込まれ気がつくと異世界に召喚されてしまった。神による儀式でとある神によってのスキルを得たがスキルが強すぎてスキル無しと勘違いされ更にはクラスメイトと王女による思惑で追放処刑に会ってしまうしかし最強スキルと聖獣のカワウソによって難を逃れと思ったらクラスの女子中野蒼花がついてきた。
相棒のカワウソとクラスの中野蒼花そして異世界の仲間と共にこの世界を自由に旅をします。
現在、第四章フェレスト王国ドワーフ編
【完結】もう…我慢しなくても良いですよね?
アノマロカリス
ファンタジー
マーテルリア・フローレンス公爵令嬢は、幼い頃から自国の第一王子との婚約が決まっていて幼少の頃から厳しい教育を施されていた。
泣き言は許されず、笑みを浮かべる事も許されず、お茶会にすら参加させて貰えずに常に完璧な淑女を求められて教育をされて来た。
16歳の成人の義を過ぎてから王子との婚約発表の場で、事あろうことか王子は聖女に選ばれたという男爵令嬢を連れて来て私との婚約を破棄して、男爵令嬢と婚約する事を選んだ。
マーテルリアの幼少からの血の滲むような努力は、一瞬で崩壊してしまった。
あぁ、今迄の苦労は一体なんの為に…
もう…我慢しなくても良いですよね?
この物語は、「虐げられる生活を曽祖母の秘術でざまぁして差し上げますわ!」の続編です。
前作の登場人物達も多数登場する予定です。
マーテルリアのイラストを変更致しました。
ユーヤのお気楽異世界転移
暇野無学
ファンタジー
死因は神様の当て逃げです! 地震による事故で死亡したのだが、原因は神社の扁額が当たっての即死。問題の神様は気まずさから俺を輪廻の輪から外し、異世界の神に俺をゆだねた。異世界への移住を渋る俺に、神様特典付きで異世界へ招待されたが・・・ この神様が超適当な健忘症タイプときた。
45歳のおっさん、異世界召喚に巻き込まれる
よっしぃ
ファンタジー
2巻決定しました!
【書籍版 大ヒット御礼!オリコン18位&続刊決定!】
皆様の熱狂的な応援のおかげで、書籍版『45歳のおっさん、異世界召喚に巻き込まれる』が、オリコン週間ライトノベルランキング18位、そしてアルファポリス様の書店売上ランキングでトップ10入りを記録しました!
本当に、本当にありがとうございます!
皆様の応援が、最高の形で「続刊(2巻)」へと繋がりました。
市丸きすけ先生による、素晴らしい書影も必見です!
【作品紹介】
欲望に取りつかれた権力者が企んだ「スキル強奪」のための勇者召喚。
だが、その儀式に巻き込まれたのは、どこにでもいる普通のサラリーマン――白河小次郎、45歳。
彼に与えられたのは、派手な攻撃魔法ではない。
【鑑定】【いんたーねっと?】【異世界売買】【テイマー】…etc.
その一つ一つが、世界の理すら書き換えかねない、規格外の「便利スキル」だった。
欲望者から逃げ切るか、それとも、サラリーマンとして培った「知識」と、チート級のスキルを武器に、反撃の狼煙を上げるか。
気のいいおっさんの、優しくて、ずる賢い、まったり異世界サバイバルが、今、始まる!
【書誌情報】
タイトル: 『45歳のおっさん、異世界召喚に巻き込まれる』
著者: よっしぃ
イラスト: 市丸きすけ 先生
出版社: アルファポリス
ご購入はこちらから:
Amazon: https://www.amazon.co.jp/dp/4434364235/
楽天ブックス: https://books.rakuten.co.jp/rb/18361791/
【作者より、感謝を込めて】
この日を迎えられたのは、長年にわたり、Webで私の拙い物語を応援し続けてくださった、読者の皆様のおかげです。
そして、この物語を見つけ出し、最高の形で世に送り出してくださる、担当編集者様、イラストレーターの市丸きすけ先生、全ての関係者の皆様に、心からの感謝を。
本当に、ありがとうございます。
【これまでの主な実績】
アルファポリス ファンタジー部門 1位獲得
小説家になろう 異世界転移/転移ジャンル(日間) 5位獲得
アルファポリス 第16回ファンタジー小説大賞 奨励賞受賞
第6回カクヨムWeb小説コンテスト 中間選考通過
復活の大カクヨムチャレンジカップ 9位入賞
ファミ通文庫大賞 一次選考通過
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる