天明繚乱 ~次期将軍の座~

ご隠居

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一橋治済は牧野成賢との面会を邪魔立てしようとする家老の水谷勝富を追い払う

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 何しろ御三卿ごさんきょう家老のポストは閑職かんしょくとは言え、幕府内の序列じょれつで言えば繰り返すが、大目付おおめつけや江戸町奉行よりも格上かくうえであり、意致おきむねはまだ41の若さにもかかわらずそのポストにいていたのだ。

 のみならず、意致おきむねがそのポストにいたのはさらに3年前、安永7(1778)年の7月であり、つまり意致おきむね弱冠じゃっかん38の若さでもって、閑職かんしょくとはいえ、大目付おおめつけや江戸町奉行よりも格上かくうえ御三卿ごさんきょう家老の地位に到達したわけで、これには成賢しげかたの方が意致おきむねに対して嫉妬しっと心にり立てられたほどである。

 もっとも、成賢しげかたはだからと言って、勝富かつとみのようにその嫉妬しっと心からくる鬱憤うっぷんらさんと欲して、実際、鬱憤うっぷんらしをすようなおろかな真似まねはしなかったが。

 ともあれこれで意致おきむね心底しんそこ…、それこそ勝富かつとみと同じく、己に対する嫉妬しっと心からくる鬱憤うっぷんらしのために、わざわざ成賢しげかたの元へと足を運んだわけでないことだけは明らかとなった。

 意致おきむね曖昧あいまいな返事がそれを裏付うらづけていた。恐らくは意致おきむねは自分よりもはるかに年上の勝富かつとみに引きずられる格好かっこうで、

「やむなく…」

 己の元へと足を運んだに相違あるまい…、成賢しげかたはそう思った。

 一方、勝富かつとみはそうとは気付かずに、勝ち誇ったような表情で、「分かったら早々そうそうに立ち去れぃっ!」と成賢しげかたにそう命じたのであった。

 すると、「立ち去れ、だと?」という声がした。成賢しげかたの声ではない。何と、治済はるさだの声であった。

 治済はるさだ岩本いわもと喜内きないを連れて、この奥座敷おくざしきへと足を運び、出入り口のところでいったん立ち止まると、勝富かつとみに対して、今の勝富かつとみの言葉を繰り返したのであった。

 治済はるさだの登場に、成賢しげかたは大いに恐縮きょうしゅくし、治済はるさだが立つ方へと体の向きを変えて平伏へいふくした。

 いや、勝富かつとみ意致おきむねの驚きぶりたるや、成賢しげかた以上であり、二人もまた、治済はるさだの方へと体を向けて平伏へいふくした。

 それに対して治済はるさだは、

但馬たじま…」

 そう勝富かつとみ後頭こうとう目掛めがけて声を、それも勝富かつとみ官職かんしょく名である「但馬守たじまのかみ」を、その正式名称ではなく、略称りゃくしょうで呼んだのであった。

 それに対して勝富かつとみ相変あいかわらず平伏へいふくしたまま、「ははぁっ」と応じた。

「おのれはどこに座っておるのだ?」

「はっ…」

「そこはが席ぞ…」

 治済はるさだにそう指摘してき、いや、指弾しだんされ、勝富かつとみようやくに己のその、

不心得ふこころえ

 それに気付いたようである。確かにそこは治済はるさだが座るべき場所であり、勝富かつとみが座って良い場所ではなかった。

 勝富かつとみあわてて顔を上げると、意致おきむねの隣へと移動し、そこで再び平伏へいふくした。

 こうして上座かみざいたところで治済はるさだ奥座敷おくざしきの中へと足を踏み入れると、つい今しがたまで勝富かつとみ占領せんりょうしていたその上座かみざへと足を運び、一方、岩本いわもと喜内きないは主君・治済はるさだ成賢しげかたとの間に着座ちゃくざした。

 そして喜内きないまでも平伏へいふくし、治済はるさだは皆のこうべれたのをしかと見届けると、しばらくの間、そうして皆のこうべれさせて後、ようやくに、

おもてを上げぃ…」

 顔を上げるよう皆に命じたのであった。

 すると治済はるさだによって顔を上げるよう命じられた喜内きないたちは一斉いっせいに顔を上げた。

 それから治済はるさだ成賢しげかたの隣にひかえる意致おきむねとさらにその隣にひかえる勝富かつとみの方を見やった。とりわけ、勝富かつとみの方へと視線を向けた。

「何をしておる?」

 治済はるさだ勝富かつとみにそう声をかけた。それに対して勝富かつとみは、「はっ?」と返した。

「いつまで左様に居座いすわっておるつもりだ?」

 治済はるさだ勝富かつとみに対してそう告げたわけだが、その言葉は同時に同じように居座いすわ意致おきむねに対しても向けられた言葉であり、意致おきむねもそうと察すると退出たいしゅつすべく、勝富かつとみうながした。が、勝富かつとみはそれを無視した。

おそれながら、家老としての責務せきむがござりますゆえ…」

 この会談に陪席ばいせきするつもりである…、勝富かつとみはそう示唆しさした。

 だがそんな勝富かつとみに対して治済はるさだはいよいよ苛立いらだちをあらわにした。

「出て行かぬと申すか?」

 治済はるさだ声量せいりょうを低くしてそう告げた。それは治済はるさだが本気で怒り出す前の予兆よちょうであり、意致おきむねはそうと察すると、勝富かつとみそでを引いたものの、しかし、やはり勝富かつとみはそれを無視したので、そこで意致おきむねはやむなく一人、退出した。

 一方、勝富かつとみは平然と、「家老として出て行くわけには参りませぬ」と答えた。そこには多分に、

豊千代とよちよが次期将軍に内定したのも、ひとえに大奥にパイプがある己が大奥に工作をしたおかげゆえ…」

 勝富かつとみにはそのような「自負じふ」があり、そうであれば当然、治済はるさだも己に、

「感謝しているに相違そういあるまい。いや、感謝しなければならぬ…」

 やはりそのような、それも不遜ふそんな「自負じふ」があったので、それら「自負じふ」が勝富かつとみをして、

「当然に…」

 己は陪席ばいせきが許されるものと思わせたのであった。

 いや、勝富かつとみ自負じふするその、「大奥への工作」にしても実際には意致おきむね伯父おじ・意次に頼み、意次が事前に大奥に「根回ねまわし」を済ませていたからこそ、勝富かつとみの「大奥への工作」がうまくいったのであり、してみると、豊千代とよちよ西之丸にしのまる入りを果たせるのも、すなわち、次期将軍に内定ないていしたのもひとえに、意致おきむね、そして意次と、

「田沼サイドの尽力じんりょく賜物たまもの…」

 と言え、その「田沼サイド」の一人である意致おきむねはと言うと、勝富かつとみが持ち合わせている、

不遜ふそんなる自負じふ…」

 そのようなものは欠片かけらも持ち合わせてはおらず、ゆえに治済はるさだの命令に素直すなおに従い、奥座敷おくざしきより退出しようと腰を上げたのであった。

 一方、それとは正反対なのがそこが見えない勝富かつとみであり、勝富かつとみ意致おきむねうながしたにもかかわらず、なお居座いすわろうとした。それもこれも、大奥への工作がうまくいったのは己の力によるものと、それこそ、疑わなかったからだ。

「己一人の手柄てがら…」

 勝富かつとみはそう固く信じて疑わず、思い上がりもはなはだしかった。

 案の定、治済はるさだから、「思い上がるな…」と指弾しだんされた。

「はっ?」

「そなたはまるで己が豊千代とよちよを次の将軍にでもしてやったかのよう、大きな顔をしておるが、思い上がるなと申したのだっ!」

 治済はるさだ大音声だいおんじょうが部屋中に響いた。これには怒鳴どなられた勝富かつとみは元より、成賢しげかたまでが思わず体をふるわせたほどである。

「どうでも出て行かぬと申すのであれば…、手討てうちいたす…」

 治済はるさだはそんな物騒ぶっそうなことをせんすると実際に立ち上がりかけたので、勝富かつとみあわてて、

「失礼つかまつりましたっ!」

 そう言うと、それこそ、

尻尾しっぽいて…」

 その場から逃げ出したのであった。これにはさしもの治済はるさだも内心、苦笑くしょうを禁じ得なかった。

 それと言うのも如何いか御三卿ごさんきょう、それも我が子が次の将軍に内定ないていした治済はるさだと言えども、幕府より派遣はけんされた家老を斬って捨てようものなら、それはすなわち、

「幕府に対する叛逆はんぎゃく…」

 そうと看做みなされて、最悪、豊千代とよちよの次期将軍内定ないていが取り消されるやも知れなかった。

 ゆえにもし仮に、勝富かつとみが、

「それなればどうぞご存分ぞんぶんに…、おり捨てになられませ…」

 そう開き直られたならば、治済はるさだの方が進退しんたいきわまっていたことであろう。

 もっとも、相手が勝富かつとみならば、

「こけおどし…」

 それに簡単にくっするに違いないと、治済はるさだはそう読んでいたからこそ、あえて手討てうちにしようとの、

「パフォーマンス」

 に出たのであった。この点、治済はるさだの人を見る目、読みは正確だったと言えよう。
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