天明繚乱 ~次期将軍の座~

ご隠居

文字の大きさ
66 / 197

家治、意次に対して犯人扱いしたことを詫び、頭まで下げる。

しおりを挟む
 家治はそれから、「なれど…」と続けて驚くべきことを口にした。それも治済はるさだを驚かせるべきことを。

「一つだけ、明らかになったことがある」

 家治が思わせぶりにそう告げると、今度は治済はるさだが、

「そは一体、何でござりましょうや?」

 そう尋ねたので、家治もこれ幸いと、治済はるさだに対してその「明らかになったこと」を告げたのであった。

「されば意次は無実ということぞ…」

 家治がそう告げると、さしもの治済はるさだだまんだ。確かに家治の言う通りだからだ。

 このに及んで意次が下手人げしゅにん首魁しゅかいであると言い立てることは如何いかに意次嫌いの者であっても無理というものであろう。それゆえ治済はるさだも…、意次嫌いの一人である治済はるさだだまんだのであった。何しろ当初、意次を「犯人扱い」したのは他ならぬ治済はるさだだからだ。

 いや、意次を「犯人扱い」したのは治済はるさだとどまらない。実際にこの評定ひょうじょうにおいて当初、意次を今回の事件の下手人げしゅにん首魁しゅかい看做みなして意次を詰問きつもんしたのは南町奉行の牧野まきの成賢しげかたであり、公事くじ勘定かんじょう奉行の山村やまむら良旺たかあきらもその尻馬しりうまに乗って、意次の犯罪を立証すべく、益五郎ますごろう玄通げんつうをその「証人」としてこの評定所ひょうじょうしょへと召喚しょうかんすることを認めたのであった。

 だが結果は当初の思惑おもわくからははずれ、家治の言う通り、意次の無実が明らかになった。

「されば民部みんぶよ…、それに民部みんぶと同じく意次を下手人げしゅにん扱いせしの者ども、意次に謝れ…」

 家治のその命に誰もが目をいた。とりわけ治済はるさだがそうであった。

「何ゆえに御三卿ごさんきょうたる己が、どこぞの馬の骨とも分からぬ、それこそ盗賊も同然の下賤げせんなる成り上がり者めにびを入れねばならぬのだ…」

 それこそが治済はるさだに目をかせた原因であり、意次も治済はるさだのその「様子」からそんな治済はるさだ胸中きょうちゅうが手に取るように分かり、これには意次も腹立たしい思いを通り越し、苦笑くしょうを禁じ得なかったほどである。

 それでも意次は、

「真面目くさった顔で…」

 おそれながらと、割って入ったのであった。

「何だ?」

 家治より問われた意次はひかえ目に、しかし、断固だんことした口調で告げた。

「さればおそれ多くも上様よりの折角せっかくのご高配こうはいなれど、そのにつきましてはかたく辞退じたい申し上げたく…」

びるには及ばぬと申すか?」

御意ぎょい…」

「なれど意次よ、そなたはいわれのなき嫌疑けんぎをかけられ、随分ずいぶん不愉快ふゆかいな思いをしたではないか…、例えば、奉行の牧野まきのなにがしめから随分ずいぶんな追及を、それも礼儀もロクにわきまえぬような追及を受けたではあるまいか…」

 家治は牧野まきのなにがしもとい成賢しげかたの方をそのするどまなしでもってながめながらそう告げた。

 一方、成賢しげかたは家治のそのするど眼光がんこうすくめられ、その上、家治から己のことをその官職名である「大隅おおすみ」とは呼ばれずに、

牧野まきのなにがしめ…」

 そう明らかに嫌悪けんおの情をめられたその名で呼ばれたことに衝撃しょうげきかくせずに愕然がくぜんとしてうつむいた。

 さて、それに対して意次はと言うと、そのような成賢しげかたの「情けない姿」に接することが出来ただけで十分に、

むねつかえがおりた…」

 というもので、意次はその上、びを入れて欲しいとは望まなかったので、

「されば一橋ひとつばし殿におかせられては御三卿ごさんきょうにて…、御三卿ごさんきょうおそれ多くも将軍家のご家族の位置付けにて、その御三卿ごさんきょうにあらせあれし一橋ひとつばし殿に、この意次ごときの者のためにびを入れさせましては…、それこそ頭を下げさせたとありましては、御三卿ごさんきょうの権威、ひいてはおそれ多くも将軍家の権威けんいきずを、それも重大なるきずをつけますことあいりましょうぞ。さればおそれ多くも上様のそのご高配こうはい…、お気持ちだけで十分にて、この上、は必要ござりませぬ…」

 意次は頭を下げながら家治にそう伝えたのであった。

左様さようか…、いや、意次がそのように申すのであればとしても意次を下手人げしゅにんあつかいせしおろか者どもの罪をあえてただそうとは思わなんだが…」

 家治は意次を「犯人扱い」したおろか者ども、もとい治済はるさだたちを見回しながらそう告げると、

「いや、それでもかるおろか者どもに、意次を下手人げしゅにんあつかいせしそのことを許したは…、それこそおろか者ども跳梁ちょうりょうほしいままにさせたは、将軍たる不明ふめいぞ…、さればこのおろか者どもに代わりて、この通りびようぞ…」

 家治は意次に対してそう告げると、驚くべきことに意次に対して会釈えしゃくとは言え、頭を下げたのであった。大よそ、信じられないことであり、これには意次も思わず卒倒そっとうしかけたほどであり、しかし、意次はすぐに我に返るや、己に会釈えしゃくする将軍・家治に対して、それこそ、

おおあわて…」

 そのてい平伏へいふくしたものである。将軍たる家治に会釈えしゃくをさせながら、己は頭を上げたままでは、それはとりもなおさず、

「将軍の権威けんいきずをつけることになりかねない…」

 ひいては幕府そのものの権威けんいにもきずをつけることになりかねないからだ。

 それをふせぐためには意次が平伏へいふくするより他にない。いや、意次一人が平伏へいふくしてもまだ足りない。その場にいた誰もが平伏へいふくしなければそれを…、幕府そのものの権威けんいきずをつけることを回避かいひできない。

 皆も幕臣ばくしんである以上、それを良く承知しており、意次にならってやはり平伏へいふくした。将軍家の家族である治済はるさだ重好しげよし勿論もちろん平伏へいふくし、そして驚いたことに「バサラ」な益五郎ますごろう玄通げんつうの二人もまた、床机しょうぎから立ち上がると、白洲しらすのそれも茣蓙ござではなく、たま砂利じゃりひざをつき、そして両手をいて平伏へいふくした。

 そんな中、家治は皆が平伏へいふくしたことに内心、満足まんぞくであった。それと言うのもこれで一時いっときとは言え、奥医師おくいし殺し、ひいては家基いえもと殺しの汚名おめいまで着せられた意次へのせめてもの「び」とすることができたからだ。

 一応、平伏へいふくしている中には意次もふくまれてはいたものの、実際には意次に対して皆を…、意次以外の皆を平伏へいふくさせたも同然だからだ。

 それと言うのも皆が…、意次もそうだが、平伏へいふくしたのは他でもない、意次に対して会釈えしゃく程度ていどとは言え、頭を下げる家治のその将軍としての権威けんい、ひいては幕府の権威けんいを守るためであった。

 それでは家治は何ゆえに意次に会釈えしゃく程度ていどとは言え、頭を下げたのかと言うと、それもやはり他でもない、一時いっときとは言え、意次の名誉がいちじるしく害されたからだ。

 実際に意次の名誉を害したのはとりわけ治済はるさだ成賢しげかただが、ともあれ家治は意次の名誉を害した…、意次を「下手人げしゅにんあつかいした治済はるさだたちに対してその意次にびを入れるよう命じたものの、それに対して治済はるさだたちはしかし、従うことはなかった。

 いや、意次は治済はるさだたちにびを入れさせるのは得策とくさくではないと、すぐそばでそれを聞いていて、瞬時しゅんじにそう判断したので、意次自身がそれには及ばないと将軍・家治に対して治済はるさだたちに己にびを入れさせるようなことはしないで欲しいと、そう懇願こんがんしたすえの家治の「会釈えしゃく」であった。

 そうであれば、皆の平伏へいふくも…、特に意次を除いた皆の平伏へいふくというのも、

「家治の将軍としての権威けんい、ひいては幕府の権威けんいを守るため…」

 その動機からだけではなく、意次に対して会釈えしゃくする将軍・家治に続いて平伏へいふくしたことからして、

会釈えしゃく程度ていどとは言え、意次に対してびを入れる将軍・家治にならい、皆も平伏へいふくして意次にびを入れた…」

 皆の…、意次をのぞいた皆の平伏へいふくについてはそう解釈かいしゃくすることも十二分に可能というものであろう。

 いや、意次をのぞいた皆がその己の平伏へいふくについてよもや将軍・家治がそのように解釈かいしゃくしていようなどとは思いもよらぬことであろうし、何より自身じしんが己の平伏へいふくについてそのような…、

「意次に対して会釈えしゃくしてびる将軍・家治にならっての、意次に対するびの心からの平伏へいふく…」

 そのような解釈かいしゃくなど思いもよらぬことであろう。無論、家治もそれぐらいは承知しており、家治としても皆の内心まで「コントロール」しようとは思わなかった。

 家治にとって大事なのは、意次に対して会釈えしゃくしてびる己に続いて、皆も平伏へいふくした…、その「事実」であった。意次がその「事実」を前にすれば、

「意次なればきっとの気持ちに気付いてくれるはず…」

 将軍たる己が意次に対して会釈えしゃくしてみせることで、皆をも平伏へいふくさせることで、一時いっときとは言え、名誉めいよがいされた意次に対するびとしたい…、家治は意次に対して会釈えしゃくしながら、そう告げていたのだ。意次ならきっとその気持ちに気付いてくれるはずだと信じて。

 そしてそれは実際、その通りになった。意次は平伏へいふくしつつも少しだけ頭を上げ、将軍・家治と目でもって言葉を交わした。いや、心を通わせたと言った方が正確であろう。意次と家治には言葉は必要なかったからだ。

 この場合もそうで、家治のその「意図いと」に気付いた意次は己の「解釈かいしゃく」が正しいかどうか、家治に目でもって問いかけ、それに対して家治もその通りだと目でもって答えたのであった。意次が家治からのその答えを感じ取ると、改めて感謝をめて平伏へいふくしたものである。
しおりを挟む
感想 0

あなたにおすすめの小説

どうしよう私、弟にお腹を大きくさせられちゃった!~弟大好きお姉ちゃんの秘密の悩み~

さいとう みさき
恋愛
「ま、まさか!?」 あたし三鷹優美(みたかゆうみ)高校一年生。 弟の晴仁(はると)が大好きな普通のお姉ちゃん。 弟とは凄く仲が良いの! それはそれはものすごく‥‥‥ 「あん、晴仁いきなりそんなのお口に入らないよぉ~♡」 そんな関係のあたしたち。 でもある日トイレであたしはアレが来そうなのになかなか来ないのも気にもせずスカートのファスナーを上げると‥‥‥ 「うそっ! お腹が出て来てる!?」 お姉ちゃんの秘密の悩みです。

裏長屋の若殿、限られた自由を満喫する

克全
歴史・時代
貧乏人が肩を寄せ合って暮らす聖天長屋に徳田新之丞と名乗る人品卑しからぬ若侍がいた。月のうち数日しか長屋にいないのだが、いる時には自ら竈で米を炊き七輪で魚を焼く小まめな男だった。

与兵衛長屋つれあい帖 お江戸ふたり暮らし

かずえ
歴史・時代
旧題:ふたり暮らし 長屋シリーズ一作目。 第八回歴史・時代小説大賞で優秀短編賞を頂きました。応援してくださった皆様、ありがとうございます。 十歳のみつは、十日前に一人親の母を亡くしたばかり。幸い、母の蓄えがあり、自分の裁縫の腕の良さもあって、何とか今まで通り長屋で暮らしていけそうだ。 頼まれた繕い物を届けた帰り、くすんだ着物で座り込んでいる男の子を拾う。 一人で寂しかったみつは、拾った男の子と二人で暮らし始めた。

仇討浪人と座頭梅一

克全
歴史・時代
「アルファポリス」「カクヨム」「ノベルバ」に同時投稿しています。 旗本の大道寺長十郎直賢は主君の仇を討つために、役目を辞して犯人につながる情報を集めていた。盗賊桜小僧こと梅一は、目が見えるのに盗みの技の為に盲人といして育てられたが、悪人が許せずに暗殺者との二足の草鞋を履いていた。そんな二人が出会う事で将軍家の陰謀が暴かれることになる。

【読者賞】江戸の飯屋『やわらぎ亭』〜元武家娘が一膳でほぐす人と心〜

旅する書斎(☆ほしい)
歴史・時代
【第11回歴史・時代小説大賞 読者賞(読者投票1位)受賞】 文化文政の江戸・深川。 人知れず佇む一軒の飯屋――『やわらぎ亭』。 暖簾を掲げるのは、元武家の娘・おし乃。 家も家族も失い、父の形見の包丁一つで町に飛び込んだ彼女は、 「旨い飯で人の心をほどく」を信条に、今日も竈に火を入れる。 常連は、職人、火消し、子どもたち、そして──町奉行・遠山金四郎!? 変装してまで通い詰めるその理由は、一膳に込められた想いと味。 鯛茶漬け、芋がらの煮物、あんこう鍋…… その料理の奥に、江戸の暮らしと誇りが宿る。 涙も笑いも、湯気とともに立ち上る。 これは、舌と心を温める、江戸人情グルメ劇。

【架空戦記】狂気の空母「浅間丸」逆境戦記

糸冬
歴史・時代
開戦劈頭の真珠湾攻撃にて、日本海軍は第三次攻撃によって港湾施設と燃料タンクを破壊し、さらには米空母「エンタープライズ」を撃沈する上々の滑り出しを見せた。 それから半年が経った昭和十七年(一九四二年)六月。三菱長崎造船所第三ドックに、一隻のフネが傷ついた船体を横たえていた。 かつて、「太平洋の女王」と称された、海軍輸送船「浅間丸」である。 ドーリットル空襲によってディーゼル機関を損傷した「浅間丸」は、史実においては船体が旧式化したため凍結された計画を復活させ、特設航空母艦として蘇ろうとしていたのだった。 ※過去作「炎立つ真珠湾」と世界観を共有した内容となります。

大東亜戦争を有利に

ゆみすけ
歴史・時代
 日本は大東亜戦争に負けた、完敗であった。 そこから架空戦記なるものが増殖する。 しかしおもしろくない、つまらない。 であるから自分なりに無双日本軍を架空戦記に参戦させました。 主観満載のラノベ戦記ですから、ご感弁を

わたしの下着 母の私をBBA~と呼ぶことのある息子がまさか...

MisakiNonagase
青春
39才の母・真知子は息子が私の下着を持ち出していることに気づいた。 ネットで同様の事象がないか調べると、案外多いようだ。 さて、真知子は息子を問い詰める? それとも気づかないふりを続けてあげるか? そのほかに外伝も綴りました。

処理中です...