天明繚乱 ~次期将軍の座~

ご隠居

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家治、意知を召し出す

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 さて、それから家治が意次に対して下げていたその頭を上げ、皆も…、意次たちも頭を上げると、そんな中、治済はるさだは改めて己の潔白けっぱくを主張したのであった。

「されば奥医師おくいし池原いけはら長仙院ちょうせんいん斬殺ざんさつ事件はおそれ多くも大納言だいなごん様の死の…、殺害の延長線上にて、されば大納言だいなごん様を殺してはおりませなんだこの治済はるさだ池原いけはら長仙院ちょうせんいん斬殺ざんさつするはずがなく…」

 治済はるさだのその論法ろんぽうを認めるならば、重好しげよしにも当てまり、当然、重好しげよしもその論法ろんぽうで己の潔白けっぱくを主張しようとした。

「それなればこの重好しげよしとて…」

 ところが重好しげよしが己の潔白けっぱくを主張しようとした途端とたん治済はるさだがそれをさえぎるかのように哄笑こうしょうした。

 流石さすが重好しげよしは激怒した。

「何が可笑おかしいっ!」

「いや、まさかに宮内くない殿までもが、大納言だいなごん様を殺害していない、などと申されるのではあるまいかと、そう思うとつい…」

 治済はるさだ冷罵れいば重好しげよしもカッとなった。

「それは一体、如何いかな意味ぞっ!」

 重好しげよし怒声どせい治済はるさだやなぎに風と、それを受け流して平然と続けた。

「されば宮内くない殿にはおそれ多くも大納言だいなごん様を殺害せし、ご立派りっぱな動機がある、ということにて…」

「何だとっ!?」

「考えてもごらんなされ…、何しろ宮内くない殿はおそれ多くも上様がご舎弟しゃていにて…、さればおそれ多くも上様がご嫡男ちゃくなんにあらせられし、いや、あらせられた大納言だいなごん様が薨去こうきょされれば、将軍職は…、次期将軍の座は一体、どなた様に転がりむことやら…」

 それは必然的に将軍・家治にもっと血筋ちすじが近い、家治の実弟じってい重好しげよしに他ならない。治済はるさだは先ほどの、己の身の潔白けっぱくを主張する際には随分ずいぶんと乱暴な論法ろんぽうを用い、それが今度は一転、きわめて論理的な論法ろんぽう重好しげよし家基いえもとを殺害する動機があることを主張したのであった。それも立証したと言っても良いだろう。

 重好しげよし流石さすが治済はるさだのこの論理的な主張に対しては声をあらげるわけにもゆかず、

「なれど…、実際には次期将軍の座は豊千代とよちよに決まったではあるまいか…」

 重好しげよしはそう反論するのが精一杯せいいっぱいであった。

 そして治済はるさだ重好しげよしのその反論に対しても冷罵れいばしてみせた。

「それは結果からの推論と申すものにて…」

 確かにそう言われてしまえばその通りではあった。

 家基いえもとに代わる次期将軍は一橋ひとつばし治済はるさだ実子じっし豊千代とよちよに決まったがゆえに、一橋ひとつばし治済はるさだこそが家基いえもとを殺害、それも奥医師おくいし池原いけはら良誠よしのぶ手先てさきに使い、家基いえもとを殺害し、今度はその池原いけはら良誠よしのぶまでもくちふうじを図った…、確かにそれは豊千代とよちよが次期将軍に決まったことから逆算しての推論と言えた。

 だがそれでも評席ひょうせきにて治済はるさだ重好しげよしのやり取りを聞いていた景漸かげつぐにはやはりと言うべきか、治済はるさだへの疑いが消えなかったのであった。

 確かに治済はるさだの主張は一々いちいちもっともではあるが、しかし、もっとも過ぎるのであった。あらかじめ台本でも用意しておかない限りはああまで、それこそ朗々ろうろううたい上げるかのように主張することは不可能であろう…、少なくとも景漸かげつぐには、いや、景漸かげつぐのみならず、いま一人、意次も同じことを考えていたのだ。

 すると家治が、「両名ともひかえぃ…」と低い声で割って入ったので、治済はるさだ重好しげよしは同時に口を閉ざすと、家治に対して叩頭こうとうしてみせた。

 それでも治済はるさだは頭を上げるや、

おそれながら最後に一つだけ、どうしても申し上げたきがござりまする…」

 家治に対してひくうして、「発言の許可」を求めたのであった。この場合、「最後に一つだけ…」というフレーズはきわめて効果的であった。それと言うのも、

「最後に一つだけなら…」

 頼まれた方はついそう思いがちであり、結果、発言を許してしまうからだ。家治もまさに、

「そのれいれず…」

 であり、治済はるさだに対して発言を許してしまったのであった。

「されば…、おそれ多くも大納言だいなごん様におかせられましては新井あらい宿じゅくへのほとりにてご放鷹ほうようへと向かわれ、その帰途きとに立ち寄りし品川の東海寺にて急のご不例ふれいとのこと…、さればそれが薨去こうきょへとつながりましたなれば、仮にこれが…、ご不例ふれいが何者かの手によるものであれば、大納言だいなごん様のご放鷹ほうようしたがいし者があやしく…」

 治済はるさだの主張はもっともであったので、家治もこれにはうなずかざるを得なかった。

 家治はその上で、

「さればそれな、家基いえもとが死に関与せし者こそ、池原いけはら長仙院ちょうせんいんなのであろう?」

 治済はるさだに対して確かめるようにそう尋ねた。

「無論、池原いけはら長仙院ちょうせんいんもその一味いちみとは思われまするが…」

 治済はるさだがそう答えたので、家治は「一味いちみとな?」と聞きとがめた。

御意ぎょい…」

「と申すと…、家基いえもとを害せしは池原いけはら長仙院ちょうせんいん一人ではないと申すか?」

「恐らくは…、いえ、この治済はるさだめはおそれ多くも大納言だいなごん様が死に関与など、神仏しんぶつちこうていたしてはおりませぬゆえ、確かなることは申し上げかねまるすが、なれど、ご放鷹ほうようには多くの者が付き従いまするゆえ…」

池原いけはら長仙院ちょうせんいん一人では家基いえもとを害せしは無理と申すか?」

御意ぎょい…、それら従者じゅうしゃの目が光っておりますゆえ…」

「されば…、従者じゅうしゃの中にも池原いけはら長仙院ちょうせんいんの仲間がいたと申すか?」

「しかとは申し上げかねまするが、なれど恐らくは…」

 やはり治済はるさだの言う通りであった。池原いけはら良誠よしのぶ一人で家基いえもとを殺すのは家治にも無理なように思えてきた。

 するとその独特どくとくの「嗅覚きゅうかく」でもってそんな家治の胸中きょうちゅうを察したらしい治済はるさだとどめをすことにした。

「されば…、大納言だいなごん様におかせられましては最期さいごのご放鷹ほうよう相成あいなられました、その新井あらい宿じゅくへのご放鷹ほうよう、それに付き従いましたる者を徹底的に調べ上げますれば、おのずと下手人げしゅにんが…、おそれ多くも大納言だいなごん様を害したてまつり、のみならず、大納言だいなごん様を害したてまつりし一味いちみおぼしき池原いけはら長仙院ちょうせんいんをも斬殺ざんさつせし、一連の事件の下手人げしゅにん…、それもまさしく首魁しゅかいが判明するものと思われまする…」

 治済はるさだは自信満々にそう提言した。それが景漸かげつぐや意次、さらには家治をもその首をかしげさせたものである。何ゆえにそこまで自信満々なのだろうかと。

 ともあれ治済はるさだのその主張にしてもやはり家治としてもうなずかざるを得ず、

「されば改めて意知おきともに…、田沼たぬま大和守やまとのかみ意知おきとも家基いえもとが死の真相を命じようぞ…」

 そう提案してみせ、治済はるさだは笑いが込み上げてきそうになるのを必死にこらえながら平伏へいふくしたものである。

 そして治済はるさだ平伏へいふくしたことから、またしても皆が平伏へいふくした。益五郎ますごろう玄通げんつうにしても先ほど…、将軍・家治が意次に対して会釈えしゃくした時と同様、再び、床机しょうぎから腰を上げると、たま砂利じゃりの上で平伏へいふくしたものである。

 それに対して家治はと言うと、平伏へいふくする治済はるさだに対して、「民部みんぶよ…」と声をかけた。やはり治済はるさだと、そのいみなにて呼ぶつもりはないらしい。家治のそんな強い意思を治済はるさだたたみにらめっこしながらそうとさとると、内心では落胆らくたんしたものの、それでもその落胆らくたんを声にはふくめぬよう気をつけながら、

「ははぁっ」

 将軍・家治からの呼びかけにそう応じたのであった。

「さればそなたは一つ、かんちがいをいたしておるぞ…」

 家治からのその言葉に治済はるさだは思わず顔を上げて、

「してかんちがいとは?」

 家治に直接、そう問いただしたい衝動しょうどうられたものの、しかし治済はるさだは必死にそれをこらえて、あいわらず平伏へいふく姿勢しせいたもった。

 そんな治済はるさだを家治は見下ろしながら、

「いや…、民部みんぶのみならず、他の者も同じように…、民部みんぶと同じようにかんちがいしている向きもあるやも知れず、この際、はっきり申すが…」

 家治はそう長い前置きをした後、皆を…、とりわけ治済はるさだ驚愕きょうがく、いや、愕然がくぜんとさせるような言葉をいたのであった。

「されば…、は確かに先月…、3月24日に中奥なかおく御用之間ごようのま意知おきともを招いた…、そこで意知おきともに対して家基いえもとが死の真相を探るよう命じたのであった…」

 家治のその言葉を聞いて、治済はるさだは「やはりな…」とそう思ったものである。

 だが治済はるさだ所謂いわゆる、「想定そうてい範囲はんいない」であったのもここまでであった。

「それと申すのも…、わざわざ意知おきとも家基いえもとが死の真相を探るよう命じたは、その前夜、いや、最早もはや、24日になっていた頃合ころあいであろう、家基いえもと夢枕ゆめまくらに立ったのよ…」

 それはさしもの治済はるさだ初耳はつみみではあったが、それでも意知おきともに対してその家基いえもとの死の真相を探るよう命じた理由としてはうなずけた。何しろ24日と言えば、家基いえもとつき命日めいにちに当たるからだ。そうであれば…、つき命日めいにち家基いえもとが父・家治の夢枕ゆめまくらに立ったとなれば、そう考えるのも自然、いや、父親なれば当然と言えよう。

 だが治済はるさだにとっての本当の驚き、それも愕然がくぜんとさせたのはその先であった。

「さればこれはもしや、亡き家基いえもとに何か伝えたいのではあるまいか、そう思うて、そこで意知おきとも中奥なかおくへとし出し、そして御用之間ごようのまへとまねいては、そこで意知おきともに対して事情を打ち明けた上で、家基いえもとが死の真相を探るよう命じたのだが、生憎あいにく意知おきともに断られてしもうたのよ…」

 家基いえもとの死の真相を探れ…、将軍・家治からのその頼みを意知おきともは断ったと言うのか…、誰もがそう驚いたものである。治済はるさだにしてもそうだ。いや、治済はるさだの場合は意知おきともが将軍の頼みを断ったからと、それだけで驚いたわけではなかった。いや、正確には驚いたと同時に、他の者にはない、

愕然がくぜん…」

 まさしくその感情を治済はるさだに抱かせたのであった。しかもさらなる家治の「告白」が治済はるさださら愕然がくぜんとさせた。

意知おきともさとされたわ…、今さら大納言だいなごん様の死の真相を探り当てたところでどうなるものでもない、とな…。意知おきともはその上で、今はただ心静かに豊千代とよちよぎみ西之丸にしのまるへとおむかえあそばされしことこそ、今は大納言だいなごん様のご遺志いし沿うのではないか、とな…。それゆえ家基いえもとが死の真相を探ることをあきらめたのよ…」

 家治のその言葉を聞いて治済はるさだはそれこそ、

「心の底から…」

 愕然がくぜんとしたものである。己は何という、余計よけい真似まねをしたのだろうかと、そこからくる、「愕然がくぜん」であった。だが時間はもう元にはもどらない。

「さればとしては…、いったんは意知おきとも進言しんげんしたごうて、家基いえもとが死の真相を探ることはあきらめたが、なれど、奥医師おくいし池原いけはら長仙院ちょうせんいんまで殺害されたとなれば話は別ぞ。それもくちふうじともなれば尚更なおさら、見逃すわけにはゆかん…」

 治済はるさだ最早もはや、将軍・家治のその言葉をまともに聞くことができなかった。

 一方、家治はそんな治済はるさだの今の胸中きょうちゅうに気付いているのかいないのか、それは分からないものの、ともあれ、

「されば誰ぞ、意知おきともをここへ連れて参れ…」

 評席ひょうせきにてひかえていた者たちへと向けてそう命じたのであった。
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