天明繚乱 ~次期将軍の座~

ご隠居

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家治、意次に対して犯人扱いしたことを詫び、頭まで下げる。

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 家治はそれから、「なれど…」と続けて驚くべきことを口にした。それも治済はるさだを驚かせるべきことを。

「一つだけ、明らかになったことがある」

 家治が思わせぶりにそう告げると、今度は治済はるさだが、

「そは一体、何でござりましょうや?」

 そう尋ねたので、家治もこれ幸いと、治済はるさだに対してその「明らかになったこと」を告げたのであった。

「されば意次は無実ということぞ…」

 家治がそう告げると、さしもの治済はるさだだまんだ。確かに家治の言う通りだからだ。

 このに及んで意次が下手人げしゅにん首魁しゅかいであると言い立てることは如何いかに意次嫌いの者であっても無理というものであろう。それゆえ治済はるさだも…、意次嫌いの一人である治済はるさだだまんだのであった。何しろ当初、意次を「犯人扱い」したのは他ならぬ治済はるさだだからだ。

 いや、意次を「犯人扱い」したのは治済はるさだとどまらない。実際にこの評定ひょうじょうにおいて当初、意次を今回の事件の下手人げしゅにん首魁しゅかい看做みなして意次を詰問きつもんしたのは南町奉行の牧野まきの成賢しげかたであり、公事くじ勘定かんじょう奉行の山村やまむら良旺たかあきらもその尻馬しりうまに乗って、意次の犯罪を立証すべく、益五郎ますごろう玄通げんつうをその「証人」としてこの評定所ひょうじょうしょへと召喚しょうかんすることを認めたのであった。

 だが結果は当初の思惑おもわくからははずれ、家治の言う通り、意次の無実が明らかになった。

「されば民部みんぶよ…、それに民部みんぶと同じく意次を下手人げしゅにん扱いせしの者ども、意次に謝れ…」

 家治のその命に誰もが目をいた。とりわけ治済はるさだがそうであった。

「何ゆえに御三卿ごさんきょうたる己が、どこぞの馬の骨とも分からぬ、それこそ盗賊も同然の下賤げせんなる成り上がり者めにびを入れねばならぬのだ…」

 それこそが治済はるさだに目をかせた原因であり、意次も治済はるさだのその「様子」からそんな治済はるさだ胸中きょうちゅうが手に取るように分かり、これには意次も腹立たしい思いを通り越し、苦笑くしょうを禁じ得なかったほどである。

 それでも意次は、

「真面目くさった顔で…」

 おそれながらと、割って入ったのであった。

「何だ?」

 家治より問われた意次はひかえ目に、しかし、断固だんことした口調で告げた。

「さればおそれ多くも上様よりの折角せっかくのご高配こうはいなれど、そのにつきましてはかたく辞退じたい申し上げたく…」

びるには及ばぬと申すか?」

御意ぎょい…」

「なれど意次よ、そなたはいわれのなき嫌疑けんぎをかけられ、随分ずいぶん不愉快ふゆかいな思いをしたではないか…、例えば、奉行の牧野まきのなにがしめから随分ずいぶんな追及を、それも礼儀もロクにわきまえぬような追及を受けたではあるまいか…」

 家治は牧野まきのなにがしもとい成賢しげかたの方をそのするどまなしでもってながめながらそう告げた。

 一方、成賢しげかたは家治のそのするど眼光がんこうすくめられ、その上、家治から己のことをその官職名である「大隅おおすみ」とは呼ばれずに、

牧野まきのなにがしめ…」

 そう明らかに嫌悪けんおの情をめられたその名で呼ばれたことに衝撃しょうげきかくせずに愕然がくぜんとしてうつむいた。

 さて、それに対して意次はと言うと、そのような成賢しげかたの「情けない姿」に接することが出来ただけで十分に、

むねつかえがおりた…」

 というもので、意次はその上、びを入れて欲しいとは望まなかったので、

「されば一橋ひとつばし殿におかせられては御三卿ごさんきょうにて…、御三卿ごさんきょうおそれ多くも将軍家のご家族の位置付けにて、その御三卿ごさんきょうにあらせあれし一橋ひとつばし殿に、この意次ごときの者のためにびを入れさせましては…、それこそ頭を下げさせたとありましては、御三卿ごさんきょうの権威、ひいてはおそれ多くも将軍家の権威けんいきずを、それも重大なるきずをつけますことあいりましょうぞ。さればおそれ多くも上様のそのご高配こうはい…、お気持ちだけで十分にて、この上、は必要ござりませぬ…」

 意次は頭を下げながら家治にそう伝えたのであった。

左様さようか…、いや、意次がそのように申すのであればとしても意次を下手人げしゅにんあつかいせしおろか者どもの罪をあえてただそうとは思わなんだが…」

 家治は意次を「犯人扱い」したおろか者ども、もとい治済はるさだたちを見回しながらそう告げると、

「いや、それでもかるおろか者どもに、意次を下手人げしゅにんあつかいせしそのことを許したは…、それこそおろか者ども跳梁ちょうりょうほしいままにさせたは、将軍たる不明ふめいぞ…、さればこのおろか者どもに代わりて、この通りびようぞ…」

 家治は意次に対してそう告げると、驚くべきことに意次に対して会釈えしゃくとは言え、頭を下げたのであった。大よそ、信じられないことであり、これには意次も思わず卒倒そっとうしかけたほどであり、しかし、意次はすぐに我に返るや、己に会釈えしゃくする将軍・家治に対して、それこそ、

おおあわて…」

 そのてい平伏へいふくしたものである。将軍たる家治に会釈えしゃくをさせながら、己は頭を上げたままでは、それはとりもなおさず、

「将軍の権威けんいきずをつけることになりかねない…」

 ひいては幕府そのものの権威けんいにもきずをつけることになりかねないからだ。

 それをふせぐためには意次が平伏へいふくするより他にない。いや、意次一人が平伏へいふくしてもまだ足りない。その場にいた誰もが平伏へいふくしなければそれを…、幕府そのものの権威けんいきずをつけることを回避かいひできない。

 皆も幕臣ばくしんである以上、それを良く承知しており、意次にならってやはり平伏へいふくした。将軍家の家族である治済はるさだ重好しげよし勿論もちろん平伏へいふくし、そして驚いたことに「バサラ」な益五郎ますごろう玄通げんつうの二人もまた、床机しょうぎから立ち上がると、白洲しらすのそれも茣蓙ござではなく、たま砂利じゃりひざをつき、そして両手をいて平伏へいふくした。

 そんな中、家治は皆が平伏へいふくしたことに内心、満足まんぞくであった。それと言うのもこれで一時いっときとは言え、奥医師おくいし殺し、ひいては家基いえもと殺しの汚名おめいまで着せられた意次へのせめてもの「び」とすることができたからだ。

 一応、平伏へいふくしている中には意次もふくまれてはいたものの、実際には意次に対して皆を…、意次以外の皆を平伏へいふくさせたも同然だからだ。

 それと言うのも皆が…、意次もそうだが、平伏へいふくしたのは他でもない、意次に対して会釈えしゃく程度ていどとは言え、頭を下げる家治のその将軍としての権威けんい、ひいては幕府の権威けんいを守るためであった。

 それでは家治は何ゆえに意次に会釈えしゃく程度ていどとは言え、頭を下げたのかと言うと、それもやはり他でもない、一時いっときとは言え、意次の名誉がいちじるしく害されたからだ。

 実際に意次の名誉を害したのはとりわけ治済はるさだ成賢しげかただが、ともあれ家治は意次の名誉を害した…、意次を「下手人げしゅにんあつかいした治済はるさだたちに対してその意次にびを入れるよう命じたものの、それに対して治済はるさだたちはしかし、従うことはなかった。

 いや、意次は治済はるさだたちにびを入れさせるのは得策とくさくではないと、すぐそばでそれを聞いていて、瞬時しゅんじにそう判断したので、意次自身がそれには及ばないと将軍・家治に対して治済はるさだたちに己にびを入れさせるようなことはしないで欲しいと、そう懇願こんがんしたすえの家治の「会釈えしゃく」であった。

 そうであれば、皆の平伏へいふくも…、特に意次を除いた皆の平伏へいふくというのも、

「家治の将軍としての権威けんい、ひいては幕府の権威けんいを守るため…」

 その動機からだけではなく、意次に対して会釈えしゃくする将軍・家治に続いて平伏へいふくしたことからして、

会釈えしゃく程度ていどとは言え、意次に対してびを入れる将軍・家治にならい、皆も平伏へいふくして意次にびを入れた…」

 皆の…、意次をのぞいた皆の平伏へいふくについてはそう解釈かいしゃくすることも十二分に可能というものであろう。

 いや、意次をのぞいた皆がその己の平伏へいふくについてよもや将軍・家治がそのように解釈かいしゃくしていようなどとは思いもよらぬことであろうし、何より自身じしんが己の平伏へいふくについてそのような…、

「意次に対して会釈えしゃくしてびる将軍・家治にならっての、意次に対するびの心からの平伏へいふく…」

 そのような解釈かいしゃくなど思いもよらぬことであろう。無論、家治もそれぐらいは承知しており、家治としても皆の内心まで「コントロール」しようとは思わなかった。

 家治にとって大事なのは、意次に対して会釈えしゃくしてびる己に続いて、皆も平伏へいふくした…、その「事実」であった。意次がその「事実」を前にすれば、

「意次なればきっとの気持ちに気付いてくれるはず…」

 将軍たる己が意次に対して会釈えしゃくしてみせることで、皆をも平伏へいふくさせることで、一時いっときとは言え、名誉めいよがいされた意次に対するびとしたい…、家治は意次に対して会釈えしゃくしながら、そう告げていたのだ。意次ならきっとその気持ちに気付いてくれるはずだと信じて。

 そしてそれは実際、その通りになった。意次は平伏へいふくしつつも少しだけ頭を上げ、将軍・家治と目でもって言葉を交わした。いや、心を通わせたと言った方が正確であろう。意次と家治には言葉は必要なかったからだ。

 この場合もそうで、家治のその「意図いと」に気付いた意次は己の「解釈かいしゃく」が正しいかどうか、家治に目でもって問いかけ、それに対して家治もその通りだと目でもって答えたのであった。意次が家治からのその答えを感じ取ると、改めて感謝をめて平伏へいふくしたものである。
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