握るのはおにぎりだけじゃない

箱月 透

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過去と今の狭間

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「それで、どういうこと?」
 康介はテーブル席の向かい側に座る松雲をちらりと見た。彼は運ばれてきたばかりのアイスコーヒーをストローでゆっくりとかきまぜていて、その顔にさっきのような驚愕の色は見当たらない。張り出し窓から射しこむ薄く陰りだした夕陽が彼の茶色がかった髪を淡く照らすのを、康介はじっと見つめた。

 
 涼が走り去った後、康介は隣で立ち尽くしている松雲に「……どういうこと?」と尋ねた。日差しを避けるように右手を額に当てた松雲は、「……場所を移しましょう。ずっとこのアパートにいたら、あの子が帰ってきづらいでしょうから」と吐息交じりに呟いた。その『あの子』という呼び方に、胸がざわざわと不穏な音を立てる。
 のそりと体を引きずるように動き出した松雲が、道路に置き去りにされていた涼のビニール袋を拾い上げた。茶色い小さなその袋には、きっとコンビニの弁当が入っているのだろう。思わず、涼が駆けていったほうを振り返る。もちろん、そこには誰もいない。手に提げていたスーパーのレジ袋ががさりとかすかな音を響かせた。
 涼の置いていった袋を彼の家のドアノブにかけて、二人は歩いて十分程度の駅前の小さな喫茶店へと移動した。
 喫茶店の中は閑散としていた。スーツ姿のサラリーマンが一人席を埋めているだけで、あとは厨房の中で暇そうにしている店員が一人いるだけだ。奥のソファ席に腰掛けて、色褪せたファイルに綴じられたメニューを開く。喫茶店でありながらサンドイッチなどの軽食だけでなくパスタやオムライスなどのしっかりした料理もあるようだが、美味しそうな写真を見てもまったく食欲がわかない。それどころか、今から松雲に聞く話を思うと喉が詰まるようにすら感じられてしまう。結局、康介も松雲もアイスコーヒーのみを注文した。


 透明なシロップが漆黒の液体をかき分けるようにしてどろどろと沈んでいくのを見下ろしながら、松雲が口を開くのをじっと待つ。ひと口コーヒーを飲んだ彼は、黒いストローから口を離すと「……さて、どこから話しましょう」と呟いた。康介はテーブルの上の手をそっと握りしめる。じっとりと汗ばんでいた。
「あなたの話によく出てくる『高倉涼』くんが、まさかあの子だとは思いませんでした」
 ぽつぽつと話す松雲はまるで独り言を呟いているかのように、ただ手の中のグラスだけを見ていた。どこか遠い目。はるか先の水平線に目を凝らすときのような、静かで繊細な視線。
「涼と、知り合いなの?」
 絞り出した声はからからに渇いていた。ストローをくわえ、コーヒーを吸い上げる。きん、とした痛いほどの冷たさが喉から胃へと滑り落ちていく。
「ええ。知り合い……という言葉で片付けてしまいたくないと思うくらいに、よく知っています」
 松雲は口元にそっと小さな微笑を浮かべた。遠くを見つめる目も、柔らかな弧を描く。
「あの子と会ったのは、私が作家としてデビューして一年が経とうという頃でした」
 ゆっくりと語り始めた松雲の口元を、康介は緊張した面持ちで見つめる。松雲は大学四年の春にデビューしたと聞いている。そして大学を卒業した年の秋に、康介と暮らし始めた。つまり、涼と松雲の出会いは、その半年ほど前ということか。
「原稿に行き詰って、ちょっと気分転換に散歩に出かけることにしたんです。三月半ばの、やっと春を迎えたばかりで、日差しがとても気持ちのいい日でした。家の近所に花がきれいに咲いている公園があったので、のんびり花でも眺めようかと思いましてね。公園に着いて、黄色いスイセンが綺麗に咲いた花壇のそばにあるベンチに腰を下ろしたとき、男の子が一人、砂場でうずくまっているのが目に留まって。向こうを向いていたから顔は見えなかったけれど、じっとうずくまったまま少しも動かないのが気にかかって、声をかけてみることにしたんです。振り返ったその子は、泣いていました」
 話す声は流暢で、絵本の読み聞かせでもしているみたいだと思った。
「それが、あの子でした」
 そう言って、松雲はほう、と息を吐き出した。視線は相変わらず汗をかいたグラスを見つめている。そこに、春の日差しに包まれた小さな公園の光景が映っているかのように。涙をこぼす小さな子どもの姿が映っているかのように。
「どうしたのか尋ねてもちっとも答えてくれなくて、ただぽろぽろと涙をこぼすばかりで。さてどうしたものかと思ったとき、彼のお腹が大きな音を立てましてね。私はおやつに持っていた小さいお菓子のチョコレートケーキをあげました。最初は遠慮していた彼も、空腹には勝てなかったのかおずおず受け取って食べてくれて。美味しい、って、ほんのかすかながらも笑ってくれて、私まで嬉しくなりました」
 とろとろと流れる春の小川のような声を聞きながら、ストローに口をつける。ズッと吸い込むと苦い味がじわりと口内に広がった。すでにぬるくなりつつある液体に、松雲に気取られないようにわずかに眉を寄せる。
 松雲にもらったチョコレートケーキを頬張る幼い涼の姿を脳裏に思い描く。これまでに何度も一緒に食事をしてきたから、美味しそうに食べる顔はすぐにイメージできてしまう。それから、柔らかな頬に残る涙のあとも不思議なくらいに鮮明に思い描けてしまう。この間看病に行ったときの、眠りながらしずかに涙を流す涼を覚えているから。
「それから、公園に散歩に行くたびにその子と出会すようになりましてね。いつも一人でじっとしている彼が気にかかって、できるだけ時間を見つけては公園に出向くようになりました。とは言え毎日行けるわけでもないし、行くと必ず会えるわけでもなくて、だから、あの子の後ろ姿を見つけるたびに嬉しいような切ないような複雑な気持ちになりました」
 じっとコーヒーを見つめる。目の前に座る松雲と揃いの、なかなか減らないその黒い液体の中に、今より若い青年時代の松雲と幼い涼の姿が見えるような気がした。ひとりうずくまる涼にそっと話しかける、松雲の姿が。
「康介、お腹空いてませんか?本当にコーヒーだけでいいんですか」
 ふと尋ねる松雲に、康介は小さく首を横に振った。
「うん。大丈夫」
「そうですか」
 話の核に迫るのはこれからだとは分かっているのに、すでに頭の中はいっぱいいっぱいで感情は下手くそなマーブル模様のようにぐちゃぐちゃだった。喉のつかえを飲み下すように唾を飲む。
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