握るのはおにぎりだけじゃない

箱月 透

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過去と今の狭間

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 額にじっとりと滲んだ汗を手の甲で乱雑に拭う。風ひとつ吹かない停滞した空気はじめじめと蒸し暑く、べっとりと肌に張り付くようだ。
 不快感に顔をしかめながら、康介は淡いオレンジ色に染まりつつある空を見上げた。七月の夕方は日が沈むのが遅く、五限の授業が終わる六時過ぎになっても熱さを残した太陽が未練がましく空の端に居座っている。わざとらしい金色に輝くそれを恨みがましい目つきで睨みつける。首筋を、汗が一筋垂れていった。
 のろのろと歩いて帰路をたどりつつ、ズボンのポケットから小さく折りたたんだメモを取り出す。そこに書かれているのは、今日と明日の献立。いや、正確には明日の献立の途中まで、である。
 明日、水曜日の晩ご飯の献立を、どうしても思いつけずにいるのだ。

 先週の水曜日の夜。風邪をひいた涼の看病のために彼の部屋を訪れたあの日、康介は結局お粥を振舞うことができなかった。
 あの涼の寝言を聞いた後、床に糊付けされたように動かない足をなんとか引きはがして晩ご飯の支度のために自宅に戻ったものの、心は嵐のような混乱でぐちゃぐちゃだった。
 とっくに炊き上がり保温になっている炊飯器を開けたときも、鍋に水を注ぎ鶏がらスープの素を溶かしているときも、頭の中を占めるのは「いかないで」と悲しげに呟く彼の表情だけ。夢の中で誰かを呼び止める涼のことばかりが気にかかり、気づいたときには鍋の中のお粥はどうしようもないほどに黒く焦げついてしまっていた。
 やってしまった。頭を抱えながら、とりあえず涼の部屋へと戻る。ちょうど目を覚ました涼の目元に残る涙の跡には気づかないふりをしながら、顔の前で両手を合わせてみせる。
「ごめん、お粥作ってたんだけど失敗しちゃって……」
 肩をすくめつつ、ちらりと上目遣いで涼を窺う。彼はかすかに赤く腫れた目元をこすりながら眉を下げて小さく笑った。
「いいよそんな。ていうか、わざわざありがと」
 むくりと起き上がる涼に体温計を手渡して熱を測らせる。数十秒後、小さな液晶に表示された数字は三十六度七分。もう熱は下がっていることにほっと胸を撫でおろす。
「熱もないし、ちゃんとご飯食べたほうがいいよな。もう一回作り直してくるからちょっと待っててくれる?」
「いや、そんなの悪いだろ。それにまだそんなに食欲ないし」
 提案したものの、涼は苦笑交じりにゆるゆると片手を振った。「そっか……」と康介は肩を落とす。やっと熱が下がった彼にちゃんとしたものを食べさせてあげられないことが悔しく、申し訳なさがこみ上げる。
 せめてもの思いでむいたリンゴと買ってきていたヨーグルトを振舞ったけれど、嬉しそうにパクパクと食べる涼を見ているとなおさら胸が痛んだ。きっと「まだそんなに食欲ない」と言ったのは康介を気遣う嘘だったのだろう。それでも、リンゴとヨーグルトという食事を心から美味しそうに食べてくれる。
 そんなので満足して、嬉しそうにしないでよ。自分の失敗が原因だと分かっているのに、なぜかそんな身勝手な思いが小さな泡のようにふつふつと湧きあがる。ウサギ型にむいたリンゴを片手に微笑む涼の顔を見られなくて、そっと目を逸らす。
 逸らした視線の先にあったのは、木目調の簡素な本棚。色味の少ない殺風景な部屋の中で、唯一涼らしさを表しているもの。四段に分かれたそれは、一番下の段の真ん中までぎっしりと本で埋められている。
 生真面目に並んだ背表紙の、その半分以上に『清水松雲』の名前が記されていた。

 顎をつたった汗がぽたりと落ち、メモに丸い染みを作る。ボールペンで書いた「にんじん」の文字が滲んでしまい、指で軽くこする。買い物帰りなのだろう、パンパンのビニール袋をかごに詰めた自転車に乗った主婦がさあっと隣を走り抜けていく。生ぬるい風が舐めるように頬に当たる。
 明日の晩ご飯、どうしよう。熱さのせいでまともに働かない頭でぼんやりと思う。けれど、考えようとすればするほど、頭の中はあの日のお粥のようにどろどろに煮詰まって焦げついてしまい、何も浮かばなくなる。いや、正確には、誰かを呼び止める涼の泣きそうな顔と、本棚にずらりと並んだ松雲の本ばかりが脳裏に浮かび、ぐるぐると頭をかき乱すのだ。
 涼はたぶん、今までに松雲が出版した本をすべて持っている。康介も既刊をすべてそろえているが、涼はそれに加えて松雲が寄稿しているアンソロジーの類まできっちり網羅しているようだった。松雲は純文学志向でありながらも頼まれればさまざまなジャンルのものを書き、その作品はミステリ風味のものから恋愛小説までと幅広い。それを、好みにかかわらずすべてそろえるなんて。よっぽど熱心なファンじゃなければ、そんなことできないだろう。
 あのぎっしり本が詰まった本棚を思い出すたび、黒く巨大な雷雲のようにむくむくと胸の中に広がるひとつの疑惑。今にも雨を降らしそうなほど重く湿ったその疑惑を、康介はふるふると頭を振って散らした。細かい汗の雫が髪の先から飛び散る。
 半袖の先のむき出しの肌を、未練がましい太陽の光がじりじりとゆっくり焼いていく。とりあえず、明日の晩ご飯のことはスーパーに行ってから考えよう。うだるような暑さの中では名案なんて浮かぶはずもないし、もしかしたらスーパーの陳列された食品を見ているうちになにか思いつくかもしれないし。のろのろと顎先の汗を拭いながら、家路の途中にあるスーパーへと歩く。
 スーパーの中はそれほど涼しくなかった。天井のエアコンは仰々しい音を立てて稼働しているものの、古めかしいそれが空気を冷やすよりもぞろぞろと店内を歩く客たちの発する熱の量のほうが上回っている。肌にまとわり付いていた汗の膜が中途半端に乾いて気持ち悪い。眉をひそめそうになるのをなんとかこらえながら、重い足取りで店内を物色する。
 けれど、いくら食品売り場を眺めてみても、何を作ればいいのかさっぱり思い浮かばない。青臭さと土のにおいが入り混じる野菜売り場も、刺すような冷気の漂う生肉、鮮魚コーナーも、出来合いのおかずのパックが並ぶ弁当コーナーまで見て回ったけれど、どれもピンとこないどころかよけいに頭の中がぐちゃぐちゃになった気さえする。思わずため息がもれ出た。
 仕方なく今日のぶんの食料だけを買って、康介は店を出た。店に入る前よりも西へと移動した太陽は、けれどまだまだ執念深い熱をじりじりと放っている。薄い黄色に霞んだそれを睨みつけながら、家までの百メートルと少しの距離を歩く。
 と、アパートの階段の前に男がひとり立っているのに気づいた。どこかそわそわしている態度を不審に思いじっと目を凝らす。左手首の腕時計に視線を落とす男は、今どき珍しい着物姿だった。
 もしかしなくても、絶対に松雲だ。
 どうしたのだろう。駆け寄ろうとしたけれど、重い足は地面に張り付いたようになかなか動かない。暑さのせいじゃない。さっき打ち消したはずの疑惑が、またむくむくと胸の中で膨らみだしたから。
 涼は、松雲に近づくために自分と仲良くなろうとしたのではないか、という疑惑が。
 喉の奥に苦いものがこみ上げる。背中を流れる汗と、肌に張り付くTシャツが気持ち悪い。康介は小さく目を伏せた。
「ああ、康介!」
 康介に気づいた松雲が、腕時計から顔を上げて呼びかける。康介も、たった今気づいたかのように驚いた顔を作って「あれ、松雲」と声を上げてみせた。
「どうしたの?」
 駆け寄り、笑顔で問いかける。松雲は朗らかに笑った。
「いえ、近くに用があったものですから、少し顔を見に来ようと思い立ちましてね」
 微笑む顔に、蓮見さんのところに行っていたのだな、と悟る。蓮見さんというのは松雲の担当の編集者であり、高校時代の同級生である男性のことだ。松雲とは公私を越えて交流があり、仕事での用事以外でも家を行き来したりしている。その蓮見さんの家が、隣の市にあるのだ。ちなみに大学の入試のときは、試験日の前日から蓮見さんの家に泊まらせてもらった。だからお昼ご飯に自分で作ったおにぎりを持参できたのだ。
 康介は隣の松雲の顔をちらりと見やった。浴衣であるとは言え着物姿であることに変わりはないのに、彼は汗ひとつかいていない。
「もしかして随分待った?」
「いえ、本当に今来たところですよ」
「それならよかった。泊ってくの?」
「急な訪問ですからね、そんな図々しいことできませんよ。晩ご飯だけいただいて帰ります」
「図々しいの基準が分かんねーんだけど」
 相変わらずの独特なテンポに思わず笑みがこぼれる。思うところがあるとは言え、こうして久しぶりに会えたことは素直に嬉しい。
「晩ご飯、冷しゃぶだけどいい?」
「もちろん。あ、ご飯は炊き込みご飯にしてくれると嬉しいですね」
「辞書で図々しいの意味調べたほうがいいよ」
「曲がりなりにも作家ですよ私は、調べなくてもそれくらい分かってます」
「なおさら悪いな」
 軽口を叩きあいつつ、並んで階段に足をかける。所どころ錆びた鉄製の階段に汗のしずくがひとつぽたりと落ちる。
 不意に背後で、ドサッと何かが落ちる音がした。振り返ると、涼が立っていた。足元にコンビニのものらしきビニール袋が落ちているから、さっきの音の正体はそれだろう。
「涼……」
 まずい、どうしよう。
 とっさにそう考えてしまい、愕然とする。一瞬でも涼と松雲を合わせたくないと考えてしまったことを自覚して、顔が強張る。
 どくどくと嫌に大きく脈打つ心臓の音を感じながらも、なんとか表情を繕って松雲に向き直る。
「えっと、友達の高倉涼くん。ほら、いつも話してる……」
 そう言って涼へ振り返ったそのとき、突然、涼が走り出した。あっという間に小さくなる背中を茫然と見つめる。取り残されたビニール袋だけがぽつんとアスファルトに影を落としている。
 呆気に取られながら、おずおずと松雲を見やる。
 涼の消えた道の先を見つめる松雲も、愕然と目を見開いたまま表情を失くして固まっていた。
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