握るのはおにぎりだけじゃない

箱月 透

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僕のはなし

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「さっき涼が俺のことまっすぐだって言ってくれたの、すげぇ嬉しかったんだ」
 康介はクリーム色の小さなカーペットに腰を下ろした。あぐらをかいた脚の上で両手を組みながら、ベッドに横になった涼の顔を見る。布団から覗くうっすらと赤く染まった顔は、真剣な表情で康介を見つめていた。ふ、と頬を緩める。
「俺が養子なのは前にも話したろ?」
 涼の目を見ながら小さく首を傾げてみせる。涼はわずかに目を見張って瞳を揺らし、それからこくりと頷いた。
「うん。知ってる」
「小学三年生の秋頃から養父と――松雲と暮らし始めたんだけど、学校が変わったわけじゃなくてみんな俺の事情は知ってくれてたから、からかわれたりとか嫌なこと言われたりとかは無くて、むしろみんな気遣ってくれてたんだけど」
 康介はそろそろと手を伸ばして、テーブルの上に置いてあった自分用のお茶のボトルを掴んだ。こくりとひとくち口に含むと冷たい液体が喉を通る感覚がはっきりと分かり、思っていたより喉が渇いていたことを自覚する。
 蓋を閉めつつ、話を再開する。
「中学に上がったら、よその小学校から来た人も多くいたから、まあ……いろいろ言われたりすることもあって」
 苦笑するように口の端を持ち上げてみせる。けれど涼は痛みをこらえるように小さく眉根を寄せていて、慌てて康介は「ほんのときどきだけどね」と付け足した。
「そういうの、松雲には全然相談とかできなかったんだけど。でもある日、突然松雲に言われたんだ」
 話しながら康介は手に持ったままだったペットボトルをぎゅ、と握った。ボトルの表面についた水滴が、指と指の隙間を静かにつたう。

 秋の日だった。
 庭の小ぶりな紅葉の木はすっかり赤色に変わっていて、それに似合いの色をした赤とんぼがすい、と青空を横切る。ちぎられたような鰯雲を揺らした涼しい秋風が、開けっ放しの窓からするりと滑りこむ。たしか、松雲の仕事場である書斎にいたときだ。
 松雲はいつものように山積みになった資料の合間でパソコンのキーボードを叩いていて、康介は部屋の片隅にある一人掛けの小さなソファに座って本を読んでいた。いや、ただ本を開いていただけであってその内容などひとつも頭に入ってなんかいなかった。頭の中を占めていたのは、その前日にクラスメイトの女子から言われた言葉。
「ねぇ、先週の授業参観に来てた着物の人って芝崎くんの家の人なの?」
 昼休み、教室で友達と喋っていたら、今までほとんど話したことのない女子数人が急に話しかけてきた。いつも教室の真ん中で派手に騒いでいる子たちだ。嫌な予感を感じつつも「そうだけど」と頷くと、彼女らはワッと大きな歓声を上げた。
 やっぱり、とキャアキャア騒ぐ彼女らに、康介は顔をしかめつつわずかに後ずさった。半年の間で白から薄い灰色に変わった上履きが視界に入る。
 ごくりと唾を飲んだちょうどそのとき、あの言葉は告げられた。
「マジで芝崎くんって実の親いないんだねー! なんかかわいそう」
 茶化したいわけでも同情したいわけでもない、ただ物珍しくて哀れなものを見つけたとでも言うような、軽薄な声音。例えるなら、片方の羽を失くし土の上を這う蝶を見つけたときのような。
 息が止まった。何か言いたいのに、喉を絞められているみたいに言葉が出ない。頭から冷水を浴びせられたように、頭の中がガンガンと脈打つ。
 何も言い返せないまま、彼女らの目も見られないまま。気づいたときには、すでに彼女らはいなくなっていた。
 そんなことがあったけれど、もちろん松雲に言えるはずがなかった。胸のつかえを吐き出したいけれどその方法が分からなくて、ただもやもやとした霧のような冷たさを胸に抱えていた。
 そのとき、ふと、キーボードを叩く音が止んだ。
「世の中にはいろんな人がいますからね」
 パソコンから顔を上げないまま松雲が呟くように言う。康介は抱えていた文庫本から視線を上げて松雲を見た。レースのカーテンを膨らませながら窓から吹きこんだ風が、松雲の髪を柔らかく揺らす。
「嫌なことを言う人も、理解できないことをする人もいます。優しい人、善い人ばかりじゃありません。だから、みんなを好きにならなくていい。ただ──」

 あの日、松雲から告げられた言葉は、ずっと康介の胸の中に息づいている。今でもその口調や声音、息遣いまで鮮明に思い出す事ができるほどに。
 康介は顔を上げ、うっすらと涙の膜が張った瞳を見た。
 小さく息を吸いこみ、口を開く。
「──誠実でありなさい。まっすぐに人と向き合っていれば、そのうちまっすぐに向き合ってくれる人だけが周りに残ります。って」
 あの日の彼の口調や声を思い出しながら、ゆっくりと言葉にする。頬を撫でた秋の風の涼やかさや、紅葉の葉がさわさわと揺れる音がくっきりと鮮明によみがえる。目の前にある涼の黒い瞳に、なぜか松雲の赤茶けた瞳が重なって見えた気がした。
 康介は小さく微笑んでみせた。
 涼も、薄く唇を開いて綻ばせる。
「そっか」
「うん」
「なんか、すごく康介らしいと思う」
「そうかな」
 上体を小さく前後に揺らしながら、はにかむように笑う。
 松雲の言葉は今もずっと康介の心の真ん中にある。まっすぐ、誠実でありなさい。その言葉をいつも実践したいと思って、そう在りたいと思ってきた。
 胸の中が、柔らかなオレンジ色の火が燈ったみたいにふわりとあたたかくなる。窓の外から聞こえるさあさあと笹の葉を揺らすみたいな雨音も、どこかやさしく響く。
 康介は布団の端から覗く涼の手にそっと触れた。かすかな熱さが指先につたわる。
「さ、ご満足いただけたかな」
 瞳を覗きこむと、彼はくすぐったそうに小さく笑った。
「うん、ありがと」
「じゃ、もう寝ないとな」
 額に貼った白い冷却シートを指先でなぞる。涼は「俺は子どもか」と唇をとがらせたけれど、その仕草こそが子どものようで思わず笑みがこぼれた。
 その後、ぽつぽつと取り留めのない話をしているうちに涼は眠りに落ちた。すうすうと穏やかな寝息を立てる顔をそっと覗きこむ。涼やかで印象的な黒い目が閉ざされると、なんだかいつもより幼く見える。
 今日は涼の子どものような一面がたくさん見られたな。微笑ましさに口元を緩めつつ、カーペットから腰を上げる。涼が起きる前に晩ご飯の支度を済ましておくため、一度自宅に帰るつもりなのだ。ご飯はもう炊けているはずだから、鶏がらスープと玉子で中華風のお粥をつくる予定だ。塩だけで味付けされた一般的なものもいいけれど、涼は結構しっかり味がついているほうが好きみたいなのでこっちのほうが食欲も湧くだろうと考えたのだ。
 立ち上がって伸びをしつつ、そっと寝ている涼の顔を見下ろす。すると、静かに眠っている彼が、かすかに何かを呟いた。寝言だろう、目を閉じたまま唇だけ小さく動かしている。どんな夢を見ているのだろう。ますます頬を緩めながらじっと涼を見つめる。
 と、涼がきゅ、と眉根を寄せた。穏やかな寝顔から一変して、まるで何かに耐えているような、苦しげな表情がその端正な顔に浮かぶ。
 思わずぎくりと体が強張る。いったいどんな夢を見ているのだろう。あまりにも切ない、泣き出しそうにすら見える顔を、おずおずと覗きこむ。発熱しているときは怖くて嫌な夢を見やすくなるらしいし、もしそうだとしたら起こしてあげたほうがいいのかもしれない。
 康介は布団越しに涼の肩を掴み、揺り起こそうとした。
「……ないで」
 そのとき涼の唇からこぼれた、小さな声。かすかではあるけれど、さっきまでよりも明瞭になった声に康介はハッと動きを止めた。起こすことも忘れ、彼の言葉を聞き取ろうと耳をそばだてる。
「……い、かないで」
 どくん、と心臓が跳ねる。驚いてまじまじと涼の顔を見つめる、けれど彼が起きている様子はなく、涼やかな目は固く閉じられたままだ。
 肩を掴む指が、鼓動に合わせてじんじんとうずく。
 部屋を出ていこうとしたから呼び止められたのかと思った。けれど、涼はたしかに眠っている。
 夢の中の彼は、いったい誰を呼び止めたのだろう。
 康介は茫然と涼の寝顔を見下ろす。もう寝言を発することなく唇を閉ざしている彼は、いまだ切なそうに眉を寄せていた。
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