握るのはおにぎりだけじゃない

箱月 透

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過去と今の狭間

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「えーと、どこまで話しましたっけ」
 白いストローに口をつけながら松雲が訊く。
「涼とよく会うようになったところまで」
 同じようにコーヒーで唇を湿らせながら答えると、松雲は「ああ、そうそう」と呟きながら小さく頬を緩ませた。
「私はいつも彼に作り話をして聞かせていました。小説の構想として使えそうなネタなんかを話すと頭の中がまとまるし、なにより彼が喜んで聞いてくれるのが嬉しくてね。そうして半年ほど過ぎたある休日、その日は少し所用があって午前中に出かけていて、その帰り道にいつもの公園の前を通りかかったんです。遊具なんてほとんどない小さな公園だから、休みの日なのに子どもの声なんてまったく聞こえず、ひどく静かでした。ぐるりと公園を取り囲む生垣の横を歩きながら、なんとなくひょいと中を覗きこんでみました。すると、見慣れた背中がひとつ、いつものように砂場でうずくまっていました」
 松雲がまたコーヒーをひとくち啜る。グラスの表面を伝った雫がぽたりとテーブルの上へと落ちた。蛍光灯の光を反射するそれは場違いなほどにきらきらと綺麗だ。
「私は思わず彼に駆け寄りました。こんにちは、といつものように話しかけると、彼は、突然ぽろぽろと涙をこぼし始めまして。慌ててどうしたのか尋ねたんですけど答えてくれなくて、困り果てていたら彼のお腹がくうと鳴ったんです。家には誰もいないと言うし、そのときは何も食べ物を持っていなかったので、自分のアパートに連れていくことにしました。今考えると少し軽率ですけどね。とは言え、康介も知っている通り私はほとんど料理なんてできないので、急いで清水のおばさんに電話して私でも簡単に作れそうなカレーのレシピを教えてもらいました」
「もしかして、あのカレーって」
 思わず声がもれていた。康介は目を見開いてじっと松雲を見た。
「ええ、私のカレーはそのとき考案したものです」
 松雲はこくりと顎を引くようにして頷いた。
 ぐらり、と脳みそが揺れた、気がした。テーブルの上に放り出していた両手を固く握りしめる。
 あの、松雲オリジナルの、小さく切られた野菜と豚肉や牛肉の代わりに使われたウィンナーが特徴的なカレーは、涼のために作られたものだったのか。
 涼を初めて家に招いたときのことを思い出す。あのとき振る舞った料理は、家に呼ぶ口実にした料理は、カレーだった。
 松雲に教わったあのカレーだ。
「初めて作った下手くそなカレーを、それでもあの子は美味しいと言って食べてくれました。おかわりもして、お腹がいっぱいになるころにはもう涙も乾いていて、いつものような笑顔も見せてくれるようになって。そうしてしばらく家で一緒に過ごしてから、いつもの公園へと送っていきました。その翌日、朝早くにうちのインターホンが鳴りましてね。めったに来客なんか来ないからいったい何事かと思いながらドアを開けると、ひどく険しい表情の女性が一人立っていました」
 知らず知らずのうちに息を止めていたことに気づく。喉の奥を締めたような細い息を吐き出して、分かりたくなくてもなんとなく予想できてしまう展開を思う。
「あの子の、お母さまでした」
 予想通りの単語。思わずこくりと頷いた。
「うん」
「勝手に食べ物を与えたり家に上げたりするな、もう二度とうちの子に関わるなって、すごい剣幕でね。弁明する余地もなく、嵐のようにまくし立ててさっさとお帰りになってしまって。茫然としちゃいました。そしてその日から、公園からあの子の姿はなくなりました」
「……うん」
 俯き気味に語っていた松雲の口元に、自嘲じみた笑みが小さく浮かんだ。窓に映る景色はとっくに夕焼けから夜へと変わっていて、紺青の色に染まりつつある空が広がっている。暗い色の窓に、うなだれたように向かい合う二人の姿が淡く反射していた。
「私の軽率な行動は、あの子の居場所を奪ってしまった。ひとりにしたくなかったのに、かえってひとりにさせてしまった。あの子が顔を合わせたくないと思うのも、無理はないですね」
 そう語る松雲の声はいつもと変わらずはっきりと明瞭で、けれど語尾だけほんのわずかに吐息で掠れた。心臓をじかに掴まれたようだった。握りつぶされるような痛みがぎゅっと胸を刺す。思わず奥歯を噛みしめる。
 康介は一度唇を引き結んで、口を開いた。
「……その後、どうなったの」
 松雲は小さく首を横に振った。
「その後すぐに私は引っ越したので、それからのことは分かりません」
 引っ越し、という単語を言うとき、松雲はわずかに目を伏せた。それで康介は気づく。その『引っ越し』が自分を引き取るためであることに。
 もし松雲が引っ越さずに涼のそばにいられたなら、何かが変わったかもしれないのに。涼はひとりにならずにすんだかもしれないのに。もし、なんてことを考えても仕方ないことは分かっているけれど、それでもどうしても考えずにはいられなかった。
「その引っ越しって」
 思わずぽつりとこぼす。
 松雲がゆっくりと顔を上げて康介を見た。静かな落ち着いた色の瞳が、まっすぐに康介を捉える。
「はい。けれど、それとこれとは全くの無関係です。あなたがなにか負い目や引け目を感じる必要なんて、一切ありません。私は私の意志で、あなたと生きることを決めたのですから」
 きっぱりと、毅然とした声で松雲が告げる。静謐な目には、けれど一目で真剣に言ってくれているのだと分かる強い光が宿っていた。
 一度瞬きをして、康介はゆっくり頷いた。
「……うん」
「きっとそれだけは、絶対に忘れないでくださいね」
 念押しするように、確かめるように呟いた松雲が、テーブルの上に投げ出していた康介の右手をそっと自分の手のひらで包みこむ。少しだけかさついた手のひらは、あたたかかった。



 喫茶店を出る頃にはあたりはもうすっかり暗くなっていた。暑さの名残を滲ませた、けれどほのかに涼しい夜の風がTシャツの裾を小さく揺らす。
 すぐそこに見えている駅まで、松雲を送っていく。改札を通り抜けた松雲はくるりと振り返り、「また電話しますね」と微笑んだ。「うん」と同じように笑みを返しながら、手を振る。松雲のふわりと翻った濃紺の浴衣の袂は、灰色の人混みの中へとかき消えるように見えなくなった。
 のろのろとアパートへ帰る。ちらりと隣の部屋のドアを見ると、ドアノブにビニール袋がぶら下がったままだった。真っ白な袋がやけに鮮やかに闇の中に浮かび上がっていた。
 閉め切っていたせいでむわりと蒸し暑い室温にうんざりしながらエアコンをつける。どさりとベッドに腰掛けて、途端に仰々しい音で空気を吐き出しはじめたそれを見るともなしに眺める。けれど頭の中を占めてぐるぐると灰色の嵐のように渦巻き続けているのは、さっき聞いたばかりの松雲の話だ。
 涼は松雲を知っていた。作家としてではなく、ただひとりの人間としての松雲を。
 康介は沈みこむようにベッドへと倒れた。天井の白い照明がまぶしくて、そっと目を閉じる。
 閉じたまぶたの裏側に次々と浮かび上がるのは、これまでそばで見てきた涼のこと。引っ越しの挨拶をしに行ったとき、「友達になってくれる?」と微笑んだ姿。カレーをおすそ分けしようと部屋に招いたとき、「すげえ、美味しい」と眉を下げて笑った顔。他の誰とも連もうとしないのに、康介にだけは自分から声をかけてきてくれたこと。毎週水曜日の約束を守り続けて、隣で一緒に晩ご飯を食べてくれること。
 そのすべては、いったい何のためだったんだろう。隣にいた彼はいったい誰を見ていたんだろう。
 投げ出していた手でぎゅっとシーツをきつく掴む。
 やっぱり、涼は松雲に近づくために、松雲への手掛かりを掴むために仲良くなろうとしてきたのだろうか。この間の、涼のあの本棚を見たときから――いや、見ないふりをしていただけで本当はずっと前から胸に巣食っていた思いがじわじわと夏の夕暮れの雲のように増幅する。頭の奥のほうに鋭い痛みがはしった、気がした。
 けれど、ともう一人の自分が声を上げる。今までそばで見てきた涼は、きっとそんな簡単に他人を利用したりできるような人間じゃないはずだ。ほんの少しぶっきらぼうで分かりにくいところはあるけれど、でも優しいひとなのだ。
 それに、もし涼が松雲に近づきたくて自分と仲良くしていたとして、はたして自分にそれを責める資格なんてあるのだろうか。
 エアコンから下りてくる風がつめたい。康介は寝返りをうって、ぎゅっと体を縮こませる。
 いつかの晩ご飯のとき、和食に慣れていない様子で「給食を思い出す」と小さく笑った涼。いつも公園にひとりでいて、お昼ご飯を食べられずに泣いていたという幼い涼。そんな彼の、きっと他にいなかったであろう「頼れる大人」を失ってしまったのだ。その面影を追いかけてしまうのは、たぶん当然なんじゃないか。唯一の頼れる大人であった松雲に近づきたいと思うのは、きっと当然のことなんじゃないか。
 じゃあなんで涼は松雲の姿を見て急に走り去ったのだろう。あれは、まるで逃げ出したみたいだった。一目散に駆けだしてだんだんと小さくなっていた背中が脳裏によみがえる。まさか松雲が言っていたように「顔も見たくない」なんて思っているわけでもないだろう。だって、あんなに熱心に松雲の本を集めているくらいなのだから。
 いろいろな思いが入り混じり、複雑なマーブル状を描いてぐるぐると脳内を渦巻く。分からない。もう、なにも分からない、考えたくない。康介はきつく目を瞑る。このまま眠ってしまいたい。
 とりあえず、ひとつだけはっきりしていることは、このままじゃ明日涼の顔をちゃんと正面から見られないだろうということ。
 水曜日の約束と、まだ献立の決まっていない夕食を思う。心臓が鉛になったみたいに、ずしりと重く、胸に食い込むようだった。
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