握るのはおにぎりだけじゃない

箱月 透

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君のことを

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 手の中のスマートフォンを見下ろしながら、いつのまにか止めていた息を静かに吐き出す。もう何度目かのため息だ。康介は小さく頭を振ると、「もどる」のボタンを連打してチャットアプリに打ち込んでいた文章を削除した。そのトークルームの一番上には「高倉涼」の名前が表示されている。
 授業中ということもあり、ラウンジには康介以外に人の姿はない。遠くからぼやけて聞こえてくる、なにかつらつらと説明している講師の声。窓の外から響いてくるうるさい蝉の声。それらを聞くともなしに聞きながら、腕を枕にしてテーブルの上に突っ伏す。脚が悪いテーブルはぐらりとわずかに傾いた。
 昨日聞いた松雲の話はまだ心の中に残り続けている。声の調子や、語る表情すらも思い描けてしまえるほど、はっきりと鮮明に。
 どうしよう。昨日から幾度となく胸の中で呟き続けてきた言葉を、また呟く。ぐりぐりと頭を腕に擦りつける。こめかみのあたりを小さな汗のしずくが伝っていった。ラウンジ内に一応エアコンは設置されているけれど、古いそれはごうごうという音ばかりが大げさでなかなか空気を冷やしてくれない。
 どうしよう、今日の晩ご飯。もちろん悩んでいるのは献立のことではなく、涼との約束のことだ。やっぱり、今日は涼と顔を合わせられそうにない。涼とまっすぐに向き合える自信なんてない。
 涼はなんのために自分と仲良くなろうとしたのだろう、という疑惑は、まだ胸の中に黒くわだかまったままだ。そのもやもやとしたつめたい感触を帯びた疑惑の真相を、知ってしまいたくない。康介はちらりと顔を上げて、スマホに表示されたままのトークルームに目をやる。いくつも浮かんだ不揃いな大きさの吹き出しには、ささいで取り留めのない、けれど大切に思ってきた涼とのやりとりが一つひとつ記録されている。そのひとつを、そっと指先で撫でる。また小さなため息がこぼれた。
 なにか思うところがあるのならきちんと話し合うべきだ。そんなこと分かっている。けれど、どうしてもそれができない。本当のことを、彼の真意を知ってしまうのがこわい。かと言ってすべてに蓋をして何事もなかったかのように振る舞うこともできない。彼を疑っている気持ちも、そしてそれを後ろめたく思っている気持ちも、ごまかしようがないほどに大きく膨らんでしまっている。
 どちらにせよ、彼とまっすぐに向き合う自信なんてないのだ。
 じっとりと背中に張りついたTシャツをぱたぱたと引きはがして、もう一度トークルームに文字を打ち込んでいく。のろのろと動かす指先が、まるで一文字書き込むごとに少しずつ擦り切れるみたいにかすかに痛む気がした。
『ごめん。明日の英語の授業で発表があって、その準備したいから今日は一緒に晩ご飯食べれない』
 打ち込んだ文章を眺める。
 嘘はついていない。明日英語の授業があるのは事実で、教壇に立ってみんなの前でスピーチしなければならないのも事実だ。ただ、その準備なんてもうとっくの昔に終えていることも事実だけれど。原稿は完成しているし何度も推敲したし、ある程度は文章も頭に入っている。約束を反故にしないといけないほど切羽詰まっているわけではないことも、事実なのだ。
 心臓がつきりと鋭く痛む。喉の奥が締まるようだ。警報のように騒々しく鳴く蝉の声と今にも壊れてしまうんじゃないかと思うほどにうるさいエアコンの音が耳の中で渦を巻くみたいにこだまする。ああ、もう。なにかを断ち切るように、康介は送信ボタンを押した。
 ピコン、と場違いに軽快な音で表示される小さな吹きだし。
 送ったばかりのメッセージを確かめることなく、康介はスマホをリュックの奥へとしまい込んだ。





「えっ、芝崎そんだけしか食わねーの?」
 先にテーブルについていた嶋田が驚いた声を上げた。康介は手に持っていたプラスチックのトレーを彼の隣に置きながら「うん」と苦笑してみせる。トレーに載っているのはわかめうどんと水だけだ。
「あんまり食欲なくて」
「そんなこと言って昨日も全然食ってなかったくね?」
 向かいの席に座っている菅田も、味噌汁をすすっていた手をとめて眉を寄せる。
「夏バテ? 大丈夫かよ」
「元気出してかなきゃだぜぇ、せっかく明日から夏休みなのに」
 軽口のように告げられる心配の言葉に、康介はまた曖昧に笑ってみせた。
 最近の食欲不振の原因がただの夏バテなんかじゃないことは、自分が一番分かっている。重く沈んだため息をなんとか飲み込みつつ、パキンと割り箸を割った。左右不揃いの、不格好な形になった。
 試験期間最終日ということもあり、学食はひどく騒がしい。溢れんばかりにひしめく学生たちはみな、やっと解放されるとでも言うように晴れ晴れとした顔をしている。ギャハハ、とすぐ隣のテーブルから聞こえてくる馬鹿笑いの声が鋭く耳を刺す。思わず小さく顔をしかめた。
「ていうか芝崎さぁ」
 チキン南蛮を頬張っていた菅田が気の抜けた声を上げた。どんぶりから顔を上げてちらりと目の前の男を見やる。口元にタルタルソースをつけたまま、菅田はさらりと言い放った。
「お前、最近高倉とケンカしてんの?」
 思わずうどんを吹きだしそうになった。
 ゴホゴホと咳込みながら「……なんで」と呟く。菅田は芝居がかった仕草で肩をすくめた。
「なんでもなにも、見てれば分かるって。全然二人で話してるところ見かけねーし、それに芝崎の話に高倉が出てこねーし」
 なあ? と菅田が嶋田に問いかけると、嶋田も「うん」と大きく頷いた。
「気まずいなら俺たちが間を取り持ってやろうか?」
 そう訊く嶋田の声には心配の色が濃く滲んでいる。普段は遠慮のない友人たちにこんなに気遣われてしまうほどに、今の自分たちの状況は明からさまだったのか。康介は自嘲に似た笑みを浮かべた。
 松雲と会ってから──つまり涼と顔を合わせなくなってから、もう二週間が経っていた。
 先々週は英語の授業の準備のために反故となった水曜日の約束は、先週はレポートを仕上げなければならないからと言ってまた果たされなかった。
 夏休みが目前に迫っている今の時期は試験やらレポートやらが山のように課される。大学に入って初めての試験期間はまだ慣れないことや分からないことも多くあって、なかなか他のことに時間を割いている余裕なんてない。
 そうやって言い訳をして、向き合うことから逃げ続けている。
 ずっと一緒にいるって言ったのにな。
井上の一件で涼と話し合いをして、彼の過去の出来事を聞いたあのときを思い出す。あのとき、彼のさらさらした頭を抱きながら告げた「ずっと一緒にいるから」という言葉は紛れもない誓いであり、心の底から湧き出てきた約束だったのに。
 でも、あのとき同じように「離れたくない、一緒にご飯を食べられないのは嫌だ」と言ってくれた涼も、今は何の音沙汰もない。水曜日の約束を反故にするための連絡をしたときだって、ただ一言『分かった、頑張って』という返事が返ってくるだけ。避けられていることには気づいているだろうに、それでもその理由を尋ねたり追及したりするような文言は送られてこなくて、ただの世間話のメッセージすら送られてこない。本当に、なんのアクションもないのだ。
 そう考えて、康介は口元にひねくれた笑みを滲ませた。
 向き合うことから逃げて自分から避けているくせに、彼から働きかけてくることを待っている。なんて卑怯なのだろう。『まっすぐなところがすごい』と、彼に言われたはずなのに。松雲の言葉どおりに、誠実であろうとしていたはずなのに。
「まあこの後のテストが終われば夏休み始まるんだし、早めに解決しといたほうがいいんじゃね?」
「そーそー。せっかくの夏休みなのにぎくしゃくしてたら時間がもったいねぇって」
 励ましてくれる友人たちの声に、康介は「うん」と力なく頷いた。
 分かっている、このままではだめなことくらい。だけど、どうしたらいいか分からないのだ。
 のろのろと箸を動かし、透き通ったダシの中からうどんをつまみ上げる。ゆっくりとすすったそれは、まるで粘土のように味気なかった。
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