【完結】獣王の番

なの

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第一章:政略の番

第四話:見えざる棘

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書庫での予期せぬ出会いから数日、ユリアンの日常に変化はなかった。

だが、ユリアンの内面には小さな、しかし確かな変化が生まれていた。

深夜の書庫通いは彼の密かな日課となった。
スリルと、それを上回る知的好奇心。そして何より、あの夜、王が見せたほんの僅かな不可解な反応が、彼の心を捉えて離さなかったのだ。無駄な知識だと切り捨てながらも、追い出すこともしなかった獣王。その真意は読めないままだが、あの出来事は、ユリアンの中に「ただ耐えるだけではない」という微かな意志を芽生えさせていた。

そんなある日、侍女が珍しく硬い表情で告げた。

「今宵、大広間で晩餐会がございます。ユリアン様もご出席いただくよう、宰相様からの達しです」

――晩餐会。
その言葉に、ユリアンの心臓が冷たく脈打った。これまで意図的に人目から遠ざけられてきた自分が、なぜ?

おそらく、和平を結んだ隣国への体面を保つため、形だけでも王の「献上品」を披露する必要が出たのだろう。

――行きたくない。
大勢の獣人たちの軽蔑の視線に、再び一身に晒されるのかと思うと胃が縮み上がるようだった。

しかし、これは宰相からの命令。王に次ぐ権力者からの召集を、人質の身であるユリアンが断れるはずもなかった。

それほどの晩餐会だというのに、ユリアンのための衣装は一着も用意されていなかった。
侍女が選び取ったのは、故郷から持ち込んだ中で、ただ一つ礼装と呼べる白い衣――あまりに質素なその衣だった。

袖を通し鏡の前に立つ。
そこに映るのは、これから晒し者にされる己の姿。ユリアンは一度強く目を閉じると静かに息を吐いた。

大広間は、きらびやかな装飾と獣人たちの熱気でむせ返るようだった。
ユリアンが姿を現すと、一瞬ざわめきが広がり、すぐに嘲笑あざわらう声と好奇の視線に変わる。

案内されたのは広間の最も末席。王の玉座からは遥か遠く、まるで存在しないかのように扱われる場所だった。

ライオネルは、すでに玉座に腰を下ろし、側近たちと談笑していた。こちらに一瞥もくれない。その完全な無関心は、ユリアンの胸を深く抉った。

晩餐会が始まっても、ユリアンの周りには誰も近寄らない。彼のテーブルだけが、まるでぽっかりと穴が空いたように静まり返っていた。時折、遠くのテーブルから投げかけられる悪意ある囁き声が耳に届く。

「見ろ、あの線の細いのが噂のΩか」
「王があんなものを番になさるわけがない。ああして飾っておくだけでも、虫唾が走る」

ユリアンは、ただ無心に目の前の皿を見つめた。
食事を喉に通すこと自体が、苦行のようだった。

その時だった。近くのテーブルにいた、熊のように大柄な貴族が立ち上がり、わざとらしくよろめいた。そして持っていた赤ワインのグラスが、まるで狙いを定めたかのようにユリアンの白い礼装にぶちまけられたのだ。

「うおっ、すまんな!手が滑った!」

男は悪びれもせずに笑い、周囲の者たちも、くつくつと喉を鳴らして笑っていた。

純白の衣に、どす黒い染みが醜く広がる。
それは、「王の番」という神聖なはずの存在を自分の手で汚してやったという、彼の歪んだ満足感の表れだった。

広間の空気が、一瞬止まる。誰もが、この不遇なΩがどう反応するかを見守っていた。泣き出すか、怒るか、あるいは屈辱に震えるか。

上座からその様子を冷ややかに見ていた男がいた。
――宰相のグレンだ。   

彼は、この政略の駒であるΩを信用していなかった。感情的で、か弱いΩなど国の安定を揺るがしかねない存在だと考えている。
おそらく、この辱めを受けて泣きわめき、場を乱すだろう。そう予測していた。

しかし、ユリアンの取った行動は、その場にいた全ての者の意表を突くものだった。

ユリアンは、ゆっくりと立ち上がった。汚れた衣を見下ろし、そしてワインをかけた男に視線を向ける。
その瞳に、怒りも、悲しみも、涙もなかった。ただ、氷のように静かな光が宿っているだけだった。

「……私(わたくし)の不注意で、皆様の席を汚してしまいました。申し訳ございません」

深く、しかし凛とした声でそう言うと彼は優雅に一礼した。

「このままでは皆様の気分を害してしまいますので、私はこれで失礼いたします」

その立ち居振る舞いは、あまりにも完璧で気高かった。まるで、自分が被害者であることなど微塵も感じさせない。むしろ、場の空気を乱したことを詫び、王族としての品格さえ漂わせていた。

呆気に取られる貴族たちを尻目に、ユリアンは静かに踵を返す。その背筋は、まっすぐに伸びていた。誰にも媚びず、誰にも屈しない。見えざる棘のような誇りをその身に纏って。

宰相グレンは、その小さな背中が人混みに消えていくのを無言で見送っていた。予測とは全く違う反応。
あの静かな瞳の奥に見た、強い光。

あれは、ただのか弱いΩのそれではない。グレンの眉間に、初めてかすかな戸惑いの皺が刻まれた。

自室に戻ったユリアンは、汚れた服を脱ぎ捨てた。
扉に背を預け、大きく息を吐く。涙は出なかった。代わりに、体の奥底から、冷たい怒りが湧き上がってくるのを感じていた。

――舐められてたまるか。
彼らが望むような、哀れな被害者には決してならない。この心まで彼らに汚させるものか。

ユリアンは固く拳を握りしめた。その夜を境に、彼の心に宿る棘は、さらに鋭く、硬く、研ぎ澄まされていくことになる。

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