4 / 40
第一章:政略の番
第三話:予期せぬ出会い
しおりを挟む
獣王国に来てから、十日以上が過ぎた。
ユリアンの生活は静かで冷たく、そして孤独だった。まるで止まってしまった時計のように変化のない毎日がただ繰り返されていく。
朝、目が覚め、無言の侍女が運んでくる食事をとり、陽の当たらない部屋で一日を過ごす。夜になれば、再び冷え切った食事を口にし、広いベッドで一人、長い夜を耐える。
それでも、ユリアンは無為に時間を過ごすことだけはしなかった。このまま思考まで止めてしまえば、本当にただの置物になってしまう。
彼は侍女に、数冊の本を持ってきてほしいと頼み込んだ。最初は怪訝な顔をされたが、無害なΩのささやかな願いは聞き届けられ、埃をかぶった数冊の本が部屋に運び込まれた。
その中の一冊、獣王国の古い法律に関する分厚い本のページをめくっていた時、指先に硬い感触が当たった。そっと取り出してみると、それは象牙で作られた小さな札だった。
細かな彫刻が施されたその札こそ、城の書庫を自由に利用できる許可証であることに気づいたのは、全くの偶然だった。
おそらく、以前この本を読んでいた誰かが、栞代わりに挟んだまま忘れてしまったのだろう。ユリアンは数日迷った末、一つの決意を固める。人々の活動が少なくなる深夜、誰にも見つからないように書庫を訪れることにしたのだ。
それは、危険な賭けだった。もし王や兵士に見つかれば、「目障りな真似」をしたとして、何をされるか分からない。だが、知識は力になる。この国の歴史や文化、地理を知ることは、いつか自分を守る盾になるかもしれない。何より、分厚い壁に囲まれた部屋で心をすり減らすより、ずっと有意義に思えた。
その夜、ユリアンは息を殺して自室を抜け出した。月明かりだけが頼りの薄暗い廊下を、影のように進む。幸い、深夜の北塔は静まり返っており、誰の気配もなかった。巨大な書庫の扉の前に立った時、心臓は早鐘のように鳴っていたが、彼の瞳には強い意志の光が宿っていた。
書庫の中は、古い紙とインクの匂いで満たされていた。天井まで届く本棚が迷宮のように立ち並び、その全てが知識で埋め尽くされている。ユリアンは夢中になって読み漁った。
獣王国の成り立ち、代々の王の記録、そしてこの地に自生する薬草に関する書物。故郷では学ぶ機会のなかった全てが新鮮で、彼の知的好奇心を強く刺激した。
どれくらいの時間が経っただろうか。一冊の歴史書に没頭していたユリアンは、不意に背後で重い扉が開く音を聞き、心臓が凍りついた。
――しまった、誰か来た!
慌てて本を棚に戻し、物陰に隠れようとした、その時。
「――そこにいるのは誰だ」
地を這うような低い声に、全身が縫い付けられたように動けなくなった。聞き間違えるはずもない。この城でただ一人、絶対的な支配者の声。獣王ライオネルだった。
ゆっくりと振り返ると、入口に立つ巨大な影と目が合った。ライオネルは夜着の上に分厚いガウンを羽織っただけのラフな格好だったが、その威圧感は揺るがない。むしろ、謁見の間で見た、王の威光を示す豪奢な鎧姿でさえ感じられた圧倒的な覇気より、より生々しい獣の気配を放っていた。
「……ユリアンか。なぜ、お前がここにいる」
琥珀の瞳が、驚きと苛立ちと、そしてほんの僅かな探るような色を浮かべてユリアンを射抜く。ユリアンは恐怖で震えそうになる体を必死で堪え、その場に深く膝を折った。
「も、申し訳ありません、陛下。許可なく……。
ただ、この国のことを少しでも知りたくて……。すぐに出てまいります」
声が震える。顔を上げることもできず、ただ床の一点を見つめる。処分されるかもしれない。あの冷たい声で、「失せろ」と命じられるかもしれない。だが、ライオネルの言葉はすぐには降ってこなかった。代わりに、重い足音が近づいてくる。
ユリアンの目の前に、ライオネルの足が止まった。見上げることのできないまま、息を詰める。
「……何を読んでいた」
「え……?」
予想外の問いに、思わず顔を上げてしまう。ライオネルは、ユリアンが先程まで読んでいた棚を顎で示した。その視線は相変わらず冷たいが、謁見の時のような絶対的な拒絶とは、どこか違う色を帯びているように感じられた。
「……建国の歴史について、です。初代の王が、いかにして獣人の氏族をまとめ上げられたのか……大変、興味深く……」
消え入りそうな声で答えると、ライオもネルはふん、と鼻を鳴らした。
「小国のΩが、学ぶだけ無駄な知識だ」
相変わらずの辛辣な言葉。だが、それだけだった。ライオネルはユリアンを一瞥すると、興味を失ったように奥の棚へと向かっていく。そして目的の書物を抜き取ると、一度も振り返ることなく書庫を出て行った。
残されたのは、圧倒的なαの残り香と、呆然とするユリアンだけだった。
(……なぜ、見逃されたのだろう)
もっと罵倒されても、追い出されてもおかしくなかった。それなのに、王はただ、そこにいることを許した。
自室に戻り、冷たいベッドに横たわる。ライオネルの予期せぬ行動が、心をかき乱して眠れそうにない。あの琥珀の瞳に宿っていた、ほんの僅かな感情の変化。それはきっと、自分の思い過ごしだ。そう言い聞かせても、一度生まれた小さな波紋は、静かな心に広がり続けていた。
その夜、ユリアンは久しぶりに声を殺して泣いた。
見逃されたことへの安堵ではない。王の気まぐれに一喜一憂してしまう自分が、不甲斐なくて、情けなかったからだ。拒絶され、価値がないと断じられた相手の、ほんの些細な行動に縋りそうになる。そんな弱い自分が、たまらなく嫌だった。
枕に顔を埋め、静かに零れる涙だけが、彼の気高い孤独を濡らしていた。
ユリアンの生活は静かで冷たく、そして孤独だった。まるで止まってしまった時計のように変化のない毎日がただ繰り返されていく。
朝、目が覚め、無言の侍女が運んでくる食事をとり、陽の当たらない部屋で一日を過ごす。夜になれば、再び冷え切った食事を口にし、広いベッドで一人、長い夜を耐える。
それでも、ユリアンは無為に時間を過ごすことだけはしなかった。このまま思考まで止めてしまえば、本当にただの置物になってしまう。
彼は侍女に、数冊の本を持ってきてほしいと頼み込んだ。最初は怪訝な顔をされたが、無害なΩのささやかな願いは聞き届けられ、埃をかぶった数冊の本が部屋に運び込まれた。
その中の一冊、獣王国の古い法律に関する分厚い本のページをめくっていた時、指先に硬い感触が当たった。そっと取り出してみると、それは象牙で作られた小さな札だった。
細かな彫刻が施されたその札こそ、城の書庫を自由に利用できる許可証であることに気づいたのは、全くの偶然だった。
おそらく、以前この本を読んでいた誰かが、栞代わりに挟んだまま忘れてしまったのだろう。ユリアンは数日迷った末、一つの決意を固める。人々の活動が少なくなる深夜、誰にも見つからないように書庫を訪れることにしたのだ。
それは、危険な賭けだった。もし王や兵士に見つかれば、「目障りな真似」をしたとして、何をされるか分からない。だが、知識は力になる。この国の歴史や文化、地理を知ることは、いつか自分を守る盾になるかもしれない。何より、分厚い壁に囲まれた部屋で心をすり減らすより、ずっと有意義に思えた。
その夜、ユリアンは息を殺して自室を抜け出した。月明かりだけが頼りの薄暗い廊下を、影のように進む。幸い、深夜の北塔は静まり返っており、誰の気配もなかった。巨大な書庫の扉の前に立った時、心臓は早鐘のように鳴っていたが、彼の瞳には強い意志の光が宿っていた。
書庫の中は、古い紙とインクの匂いで満たされていた。天井まで届く本棚が迷宮のように立ち並び、その全てが知識で埋め尽くされている。ユリアンは夢中になって読み漁った。
獣王国の成り立ち、代々の王の記録、そしてこの地に自生する薬草に関する書物。故郷では学ぶ機会のなかった全てが新鮮で、彼の知的好奇心を強く刺激した。
どれくらいの時間が経っただろうか。一冊の歴史書に没頭していたユリアンは、不意に背後で重い扉が開く音を聞き、心臓が凍りついた。
――しまった、誰か来た!
慌てて本を棚に戻し、物陰に隠れようとした、その時。
「――そこにいるのは誰だ」
地を這うような低い声に、全身が縫い付けられたように動けなくなった。聞き間違えるはずもない。この城でただ一人、絶対的な支配者の声。獣王ライオネルだった。
ゆっくりと振り返ると、入口に立つ巨大な影と目が合った。ライオネルは夜着の上に分厚いガウンを羽織っただけのラフな格好だったが、その威圧感は揺るがない。むしろ、謁見の間で見た、王の威光を示す豪奢な鎧姿でさえ感じられた圧倒的な覇気より、より生々しい獣の気配を放っていた。
「……ユリアンか。なぜ、お前がここにいる」
琥珀の瞳が、驚きと苛立ちと、そしてほんの僅かな探るような色を浮かべてユリアンを射抜く。ユリアンは恐怖で震えそうになる体を必死で堪え、その場に深く膝を折った。
「も、申し訳ありません、陛下。許可なく……。
ただ、この国のことを少しでも知りたくて……。すぐに出てまいります」
声が震える。顔を上げることもできず、ただ床の一点を見つめる。処分されるかもしれない。あの冷たい声で、「失せろ」と命じられるかもしれない。だが、ライオネルの言葉はすぐには降ってこなかった。代わりに、重い足音が近づいてくる。
ユリアンの目の前に、ライオネルの足が止まった。見上げることのできないまま、息を詰める。
「……何を読んでいた」
「え……?」
予想外の問いに、思わず顔を上げてしまう。ライオネルは、ユリアンが先程まで読んでいた棚を顎で示した。その視線は相変わらず冷たいが、謁見の時のような絶対的な拒絶とは、どこか違う色を帯びているように感じられた。
「……建国の歴史について、です。初代の王が、いかにして獣人の氏族をまとめ上げられたのか……大変、興味深く……」
消え入りそうな声で答えると、ライオもネルはふん、と鼻を鳴らした。
「小国のΩが、学ぶだけ無駄な知識だ」
相変わらずの辛辣な言葉。だが、それだけだった。ライオネルはユリアンを一瞥すると、興味を失ったように奥の棚へと向かっていく。そして目的の書物を抜き取ると、一度も振り返ることなく書庫を出て行った。
残されたのは、圧倒的なαの残り香と、呆然とするユリアンだけだった。
(……なぜ、見逃されたのだろう)
もっと罵倒されても、追い出されてもおかしくなかった。それなのに、王はただ、そこにいることを許した。
自室に戻り、冷たいベッドに横たわる。ライオネルの予期せぬ行動が、心をかき乱して眠れそうにない。あの琥珀の瞳に宿っていた、ほんの僅かな感情の変化。それはきっと、自分の思い過ごしだ。そう言い聞かせても、一度生まれた小さな波紋は、静かな心に広がり続けていた。
その夜、ユリアンは久しぶりに声を殺して泣いた。
見逃されたことへの安堵ではない。王の気まぐれに一喜一憂してしまう自分が、不甲斐なくて、情けなかったからだ。拒絶され、価値がないと断じられた相手の、ほんの些細な行動に縋りそうになる。そんな弱い自分が、たまらなく嫌だった。
枕に顔を埋め、静かに零れる涙だけが、彼の気高い孤独を濡らしていた。
529
あなたにおすすめの小説
追放オメガ聖帝の幸せな結婚〜クールなスパダリ騎士に拾われて溺愛されるまで〜
あきたいぬ大好き(深凪雪花)
BL
ノルディーナ王国の聖帝サーナは、教皇のありもしない嘘のせいで聖宮から追放されてしまう。
行く当てがないサーナが国境に向かうと、そこで隣国ルミルカ王国の騎士であるムーシュと出会う。ムーシュから諸事情により偽装結婚を提案されて、サーナは期限付きの偽装結婚ならばよいと承諾し、一時的に保護してもらうことに。
異国暮らしに慣れていく中で、やがてムーシュから溺愛されるようになり……?
【蒼き月の輪舞】 モブにいきなりモテ期がきました。そもそもコレ、BLゲームじゃなかったよな?!
黒木 鳴
BL
「これが人生に三回訪れるモテ期とかいうものなのか……?そもそもコレ、BLゲームじゃなかったよな?!そして俺はモブっ!!」アクションゲームの世界に転生した主人公ラファエル。ゲームのキャラでもない彼は清く正しいモブ人生を謳歌していた。なのにうっかりゲームキャラのイケメン様方とお近づきになってしまい……。実は有能な無自覚系お色気包容主人公が年下イケメンに懐かれ、最強隊長には迫られ、しかも王子や戦闘部隊の面々にスカウトされます。受け、攻め、人材としても色んな意味で突然のモテ期を迎えたラファエル。生態系トップのイケメン様たちに狙われたモブの運命は……?!固定CPは主人公×年下侯爵子息。くっついてからは甘めの溺愛。
転生DKは、オーガさんのお気に入り~姉の婚約者に嫁ぐことになったんだが、こんなに溺愛されるとは聞いてない!~
トモモト ヨシユキ
BL
魔物の国との和議の証に結ばれた公爵家同士の婚約。だが、婚約することになった姉が拒んだため6男のシャル(俺)が代わりに婚約することになった。
突然、オーガ(鬼)の嫁になることがきまった俺は、ショックで前世を思い出す。
有名進学校に通うDKだった俺は、前世の知識と根性で自分の身を守るための剣と魔法の鍛練を始める。
約束の10年後。
俺は、人類最強の魔法剣士になっていた。
どこからでもかかってこいや!
と思っていたら、婚約者のオーガ公爵は、全くの塩対応で。
そんなある日、魔王国のバーティーで絡んできた魔物を俺は、こてんぱんにのしてやったんだが、それ以来、旦那様の様子が変?
急に花とか贈ってきたり、デートに誘われたり。
慣れない溺愛にこっちまで調子が狂うし!
このまま、俺は、絆されてしまうのか!?
カイタ、エブリスタにも掲載しています。
【新版】転生悪役モブは溺愛されんでいいので死にたくない!
煮卵
BL
ゲーム会社に勤めていた俺はゲームの世界の『婚約破棄』イベントの混乱で殺されてしまうモブに転生した。
処刑の原因となる婚約破棄を避けるべく王子に友人として接近。
なんか数ヶ月おきに繰り返される「恋人や出会いのためのお祭り」をできる限り第二皇子と過ごし、
婚約破棄の原因となる主人公と出会うきっかけを徹底的に排除する。
最近では監視をつけるまでもなくいつも一緒にいたいと言い出すようになった・・・
やんごとなき血筋のハンサムな王子様を淑女たちから遠ざけ男の俺とばかり過ごすように
仕向けるのはちょっと申し訳ない気もしたが、俺の運命のためだ。仕方あるまい。
クレバーな立ち振る舞いにより、俺の死亡フラグは完全に回避された・・・
と思ったら、婚約の儀の当日、「私には思い人がいるのです」
と言いやがる!一体誰だ!?
その日の夜、俺はゲームの告白イベントがある薔薇園に呼び出されて・・・
ーーーーーーーー
この作品は以前投稿した「転生悪役モブは溺愛されんで良いので死にたくない!」に
加筆修正を加えたものです。
リュシアンの転生前の設定や主人公二人の出会いのシーンを追加し、
あまり描けていなかったキャラクターのシーンを追加しています。
展開が少し変わっていますので新しい小説として投稿しています。
続編出ました
転生悪役令嬢は溺愛されんでいいので推しカプを見守りたい! https://www.alphapolis.co.jp/novel/687110240/826989668
ーーーー
校正・文体の調整に生成AIを利用しています。
この俺が正ヒロインとして殿方に求愛されるわけがない!
ゆずまめ鯉
BL
五歳の頃の授業中、頭に衝撃を受けたことから、自分が、前世の妹が遊んでいた乙女ゲームの世界にいることに気づいてしまったニエル・ガルフィオン。
ニエルの外見はどこからどう見ても金髪碧眼の美少年。しかもヒロインとはくっつかないモブキャラだったので、伯爵家次男として悠々自適に暮らそうとしていた。
これなら異性にもモテると信じて疑わなかった。
ところが、正ヒロインであるイリーナと結ばれるはずのチート級メインキャラであるユージン・アイアンズが熱心に構うのは、モブで攻略対象外のニエルで……!?
ユージン・アイアンズ(19)×ニエル・ガルフィオン(19)
公爵家嫡男と伯爵家次男の同い年の乙女ゲー転生BLです。
転生したようだけど?流れに身を任せていたら悪役令息?として断罪されていた――分からないまま生きる。
星乃シキ
BL
発作の後に目覚めたら、公爵家嫡男の身体だった。
前世の記憶だけを抱えたまま生きるレイは、ある夜、男の聖女への嫌がらせの罪で断罪される。
だが図書室の記録が冤罪を覆す。
そしてレイは知る。
聖女ディーンの本当の名はアキラ。
同じ日本から来た存在だった。
帰りたい聖女と、この身体で生きるレイ。
秘密を共有した二人は、友達になる。
人との関わりを避けてきたレイの人間関係が、少しずつ動き始める。
異世界から戻ったら再会した幼馴染から溺愛される話〜君の想いが届くまで〜
一優璃 /Ninomae Yuuri
BL
異世界での記憶を胸に、元の世界へ戻った真白。
けれど、彼を待っていたのは
あの日とはまるで違う姿の幼馴染・朔(さく)だった。
「よかった。真白……ずっと待ってた」
――なんで僕をいじめていた奴が、こんなに泣いているんだ?
失われた時間。
言葉にできなかった想い。
不器用にすれ違ってきたふたりの心が、再び重なり始める。
「真白が生きてるなら、それだけでいい」
異世界で強くなった真白と、不器用に愛を抱えた朔の物語。
※第二章…異世界での成長編
※第三章…真白と朔、再会と恋の物語
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる