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37.領地に残した、やさしい時間
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ライクスバート辺境伯夫人は、ブラシを受け取ると、言葉通り通り昼前には颯爽と馬に乗って邸を後にした。
その行動力と切り替えの早さは、気持ちがいいくらいだ。
「ラファエル君と、うちの娘が王都の学院で同級生になるのよ。よろしくね」
そう言いながら、馬上から意味ありげに微笑む。
ふふ、なんて気の早い人。
ライクスバート辺境伯夫人を見送りながらそう思う。
「ティアナ、ライクスバート辺境伯夫人ったら、もう学院の話をしていたわ。まだ先のことなのにね」
「あら? ラルは、学院に来年入れないの?」
来年?
「学院は、十六歳からでしょう?」
「ああ、そうだったわ。アイラ、記憶がなかったのね。六年前、確か王太子殿下のお子さまの王子生まれたときに、初等教育の学院が設立されたの」
ティアナは続ける。
「七歳から十歳までの間に、貴族の子どもは必ず入学することになったのよ」
「初等教育……? 知らなかったわ」
貴族の子どもは、幼い頃は家庭教師に学ぶもの。それが常識だったはずだ。
ということは。 王子も、ラルと同級生になるというわけね。
「なんでも、小さいうちから貴族の常識を身につけさせるべきだ、という王太子妃殿下の強いご意向だと聞いたわ」
その言葉に、小さく何かが引っかかる。
“ララ”のせいで作られた制度、というわけではない、そうであってほしい……。
「ティアナは、エルドリックを来年入学させるつもりなの?」
「ええ、そうよ」
ティアナは迷いなく頷いた。
「おそらく、王都に住む貴族の子どもは、大体七歳になったら入学することになるわね。ただ……」
一瞬だけ言葉を選ぶように間を置き、続ける。
「辺境伯夫人の言いぶりだと、ご令嬢も来年のようね」
その言葉に、思わず視線を落とす。
「……ティアナ。今さらなんだけれど、アーガントン侯爵夫人のお子さまって……」
声が少しだけ低くなったのは、自覚があった。
「エルドリックと同じ年のご令嬢が一人と、年の離れたご令息が一人よ。ご令息はリズと同じ歳ね」
っ! ああ、何やら関連があるような気がしていた。頭の中に人物関係が次々と浮かび上がる。
エルドリックは、ともかく。ラル、王太子殿下、侯爵家と、辺境伯家のご令嬢。
どうしてかしら。言葉にできない違和感が残る。嫌な予感、という不確かなものが頭の中を駆け巡る。
「……ラルの意思を尊重するわ」
自分に言い聞かせるように、静かにそう告げる。
レオナール様とも相談して……そうね。少なくとも、領地にいる間は、今はまだ、考えないようにしましょう。
そう心に決めて、私はそっとため息をついた。
*****
「わあ、お母様、早い!」
弾んだ声と一緒に、リズがこちらを振り返る。私はその小さな体をしっかりと腕で支えながら、ゆっくりと馬を走らせていた。
何度か試みて、ようやく、こうしてリズと一緒に馬に乗ることができた。とはいえ、無理はしない。手綱は短く、速度も控えめだ。
それでも、リズはすっかり満足そうで、風を受けて頬を紅く染めている。
ふと、視線を横にやる。そこには、ラルとエルドリックの姿があった。二人は並んで馬を走らせ、楽しげに声を交わしながら併走している。
――五日前には、まだ手綱の扱いもおぼつかなかったというのに。
今では、しっかりと速度を出し、競争している。成長の早さに、思わず目を細めてしまう。
「リズ、もう少しスピードを出してみる?」
そう声をかけると、リズは一瞬目を丸くし、それから勢いよく頷いた。
「はい!」
馬が軽やかに歩調を上げ、風が頬を撫でていった。
楽しい日々が、静かに過ぎていく。
ピクニックに出かけ、草原で昼食を広げた日もあった。
布を敷くと、リズとエレナは率先して籠を開け、焼き菓子の包みを並べていく。ラルは風に揺れる草の中を駆け回り、エルドリックはそれを追いかけて、いつの間にか二人とも靴を汚して戻ってきた。
叱るより先に笑いがこぼれ、侍女たちも困ったように視線を逸らす。
領地の街へ足を運び、店先であれこれと買い物をした日もあった。
リズは色とりどりのリボンに目を奪われ、真剣な顔で一本を選び抜いた。「お父様へのお土産」といって微笑んでいた。
レオナール様にリボン? と思ったけれど、まあ、髪も長いし、せっかくなので付けてもらいましょう、と思い止めなかった。
ラルは鍛冶屋の前から離れず、エルドリックは菓子屋の硝子越しに、並んだ砂糖菓子をじっと見つめている。
結局、誰が何を欲しがって買ったのか分からないほど、袋の中身は増えていた。
どれも穏やかで、笑顔に満ちた時間。
そして気づけば、あっという間に、二週間が過ぎていた。
出立の朝は、驚くほど静かだった。
邸の前庭にはすでに馬車が整えられ、あとは人が乗り込むだけ。
「もう行ってしまうのね」
お母様はそう言いながら、リズの襟元を整え、乱れた髪を指先で撫でた。
「次はラルの誕生日。王都で、またすぐに会いましょう。お父様、お母様」
お父様は一歩下がった位置に立ち、それから、短く頷いた。
「ラル、エル。妹たちをきちんと守るのだぞ」
多くは語らない。でも、その台詞、昔、お兄様に言っていた言葉と同じね、と思わずにやけそうになる。
ラルは少し緊張した面持ちで頷き、エルドリックは背筋を伸ばして「はい」と答える。
リズだけが状況を飲み込めないまま、お母様の袖をきゅっと握っていた。
「お祖母さま……また、すぐ会える?」
「ええ。来月のラルの誕生日に、またね」
そう言ってお母様はリズを抱き寄せた。馬車に乗り込む直前、私は振り返る。
そこには、変わらず穏やかな領地の空と、並んで立つ両親の姿があった。
名残惜しさを残しながら、扉が閉まり、馬車が動き出した。
その行動力と切り替えの早さは、気持ちがいいくらいだ。
「ラファエル君と、うちの娘が王都の学院で同級生になるのよ。よろしくね」
そう言いながら、馬上から意味ありげに微笑む。
ふふ、なんて気の早い人。
ライクスバート辺境伯夫人を見送りながらそう思う。
「ティアナ、ライクスバート辺境伯夫人ったら、もう学院の話をしていたわ。まだ先のことなのにね」
「あら? ラルは、学院に来年入れないの?」
来年?
「学院は、十六歳からでしょう?」
「ああ、そうだったわ。アイラ、記憶がなかったのね。六年前、確か王太子殿下のお子さまの王子生まれたときに、初等教育の学院が設立されたの」
ティアナは続ける。
「七歳から十歳までの間に、貴族の子どもは必ず入学することになったのよ」
「初等教育……? 知らなかったわ」
貴族の子どもは、幼い頃は家庭教師に学ぶもの。それが常識だったはずだ。
ということは。 王子も、ラルと同級生になるというわけね。
「なんでも、小さいうちから貴族の常識を身につけさせるべきだ、という王太子妃殿下の強いご意向だと聞いたわ」
その言葉に、小さく何かが引っかかる。
“ララ”のせいで作られた制度、というわけではない、そうであってほしい……。
「ティアナは、エルドリックを来年入学させるつもりなの?」
「ええ、そうよ」
ティアナは迷いなく頷いた。
「おそらく、王都に住む貴族の子どもは、大体七歳になったら入学することになるわね。ただ……」
一瞬だけ言葉を選ぶように間を置き、続ける。
「辺境伯夫人の言いぶりだと、ご令嬢も来年のようね」
その言葉に、思わず視線を落とす。
「……ティアナ。今さらなんだけれど、アーガントン侯爵夫人のお子さまって……」
声が少しだけ低くなったのは、自覚があった。
「エルドリックと同じ年のご令嬢が一人と、年の離れたご令息が一人よ。ご令息はリズと同じ歳ね」
っ! ああ、何やら関連があるような気がしていた。頭の中に人物関係が次々と浮かび上がる。
エルドリックは、ともかく。ラル、王太子殿下、侯爵家と、辺境伯家のご令嬢。
どうしてかしら。言葉にできない違和感が残る。嫌な予感、という不確かなものが頭の中を駆け巡る。
「……ラルの意思を尊重するわ」
自分に言い聞かせるように、静かにそう告げる。
レオナール様とも相談して……そうね。少なくとも、領地にいる間は、今はまだ、考えないようにしましょう。
そう心に決めて、私はそっとため息をついた。
*****
「わあ、お母様、早い!」
弾んだ声と一緒に、リズがこちらを振り返る。私はその小さな体をしっかりと腕で支えながら、ゆっくりと馬を走らせていた。
何度か試みて、ようやく、こうしてリズと一緒に馬に乗ることができた。とはいえ、無理はしない。手綱は短く、速度も控えめだ。
それでも、リズはすっかり満足そうで、風を受けて頬を紅く染めている。
ふと、視線を横にやる。そこには、ラルとエルドリックの姿があった。二人は並んで馬を走らせ、楽しげに声を交わしながら併走している。
――五日前には、まだ手綱の扱いもおぼつかなかったというのに。
今では、しっかりと速度を出し、競争している。成長の早さに、思わず目を細めてしまう。
「リズ、もう少しスピードを出してみる?」
そう声をかけると、リズは一瞬目を丸くし、それから勢いよく頷いた。
「はい!」
馬が軽やかに歩調を上げ、風が頬を撫でていった。
楽しい日々が、静かに過ぎていく。
ピクニックに出かけ、草原で昼食を広げた日もあった。
布を敷くと、リズとエレナは率先して籠を開け、焼き菓子の包みを並べていく。ラルは風に揺れる草の中を駆け回り、エルドリックはそれを追いかけて、いつの間にか二人とも靴を汚して戻ってきた。
叱るより先に笑いがこぼれ、侍女たちも困ったように視線を逸らす。
領地の街へ足を運び、店先であれこれと買い物をした日もあった。
リズは色とりどりのリボンに目を奪われ、真剣な顔で一本を選び抜いた。「お父様へのお土産」といって微笑んでいた。
レオナール様にリボン? と思ったけれど、まあ、髪も長いし、せっかくなので付けてもらいましょう、と思い止めなかった。
ラルは鍛冶屋の前から離れず、エルドリックは菓子屋の硝子越しに、並んだ砂糖菓子をじっと見つめている。
結局、誰が何を欲しがって買ったのか分からないほど、袋の中身は増えていた。
どれも穏やかで、笑顔に満ちた時間。
そして気づけば、あっという間に、二週間が過ぎていた。
出立の朝は、驚くほど静かだった。
邸の前庭にはすでに馬車が整えられ、あとは人が乗り込むだけ。
「もう行ってしまうのね」
お母様はそう言いながら、リズの襟元を整え、乱れた髪を指先で撫でた。
「次はラルの誕生日。王都で、またすぐに会いましょう。お父様、お母様」
お父様は一歩下がった位置に立ち、それから、短く頷いた。
「ラル、エル。妹たちをきちんと守るのだぞ」
多くは語らない。でも、その台詞、昔、お兄様に言っていた言葉と同じね、と思わずにやけそうになる。
ラルは少し緊張した面持ちで頷き、エルドリックは背筋を伸ばして「はい」と答える。
リズだけが状況を飲み込めないまま、お母様の袖をきゅっと握っていた。
「お祖母さま……また、すぐ会える?」
「ええ。来月のラルの誕生日に、またね」
そう言ってお母様はリズを抱き寄せた。馬車に乗り込む直前、私は振り返る。
そこには、変わらず穏やかな領地の空と、並んで立つ両親の姿があった。
名残惜しさを残しながら、扉が閉まり、馬車が動き出した。
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