7 / 43
7.結婚は契約
しおりを挟む
「では、お部屋に案内いたしますわ」
エマが先導する後を静かに歩く間、心に押し寄せるのは、自分が置かれた立場への嫌悪感だった。
部屋に通され、用意されたお茶を手に取る。
しかし、立ち昇るはずの芳醇な香りも、口に触れた液体の味わいも、何一つ感じられなかった。
カップを持つ指先がわずかに震える。それは、どうしようもなく押し寄せる感情の波を抑え込もうとする自分の無力さの現れだった。
「リディア様、聞いていらっしゃいますか?」
エマの高い声が耳に飛び込んできた。何か私に話しかけていたのだろうか。
セオドアの冷たい視線が肌に刺さり、私は仕方なくゆっくりと顔を上げた。
「失礼だぞ、リディア。ぼーっとしているなんて」
セオドアの声は、冷ややかで苛立ちも含んでいた。
「申し訳ありません、何でしたか?」
表面上の穏やかな微笑みを浮かべながら、問い返す。必死に感情を押し殺した。
「私、セオと仲良くさせてもらっていますけど、リディア様とも仲良くしたいのでお話をしたいのです。そうだわ。話題の小説、お読みになりました?」
エマの声は明るく、期待と嬉しさが滲んでいる。
「身分差の恋のお話ですの。心惹かれた相手との身分の差、そしてしがらみに一度は諦めようとするけれど、心に嘘をつけなくて、どうにもならない思いを伝え合うのです」
話を進めていくエマの瞳はきらきらと輝きを増していく。
自分がその物語の主人公になったかのように。
そして、それを見つめるセオドアもまた、柔らかな微笑みを浮かべていた。その表情は、ここ最近彼が私に向けたものよりも、はるかに穏やかで温かい。
「ああ、私も読んだ。2人で身分差を乗り越えるために力を尽くし、最後には周りに祝福されて望みをかなえる。感動的だ」
セオドアの声は、どこか感慨深げで優しさに満ちている。その眼差しがエマに向けられるたび、二人の間に親密さが漂っているのを感じた。
彼らは、私の存在など忘れ、見つめ合いながら語り続けた。視線が交差するたびに生まれる微笑みや、共感し合う仕草。その全てが、鋭い痛みとなって突き刺さる。
――どうして、この場に私はいるのだろう。
その問いが胸を満たしていく。心が空っぽになっていくような感覚に包まれたまま、彼らの会話をただ聞き流していた。
「リディア様は、どう思われますか?」
突然向けられた問いに、一瞬思考が空白になる。視線を上げると、二人の注目がこちらに集まっていた。
少しの間を置き、微笑みを浮かべながら静かに答える。
「心は自由ですわ」
そう、恋をするだけなら、思うだけなら自由。許されるはずだ。
エマはその答えに満足したように笑い、「そうですよね!」と同意した。
「……ですが、現実、結婚は家同士の契約です。物語のようにはいかない。もし破棄するようであれば何かしらの犠牲が伴います。わかっているとは思いますが」
声が部屋の中に響くと、場の空気がピリついた。
エマの顔に微妙な戸惑いが浮かぶ。瞳がわずかに揺らぎ、眉がかすかに寄る。だが、私の言葉は止まらなかった。
「いい機会ですから、はっきりお聞きしますわ。エマ様は、セオドアの仲の良いご友人ということでよろしいでしょうか?」
エマの瞳が再び揺れた。彼女は視線をセオドアに向け、戸惑っているように見えた。
「……ええ、そうですわ」
ためらいがちな声が返ってきた。
「それであれば、セオドアとむやみな接触は控えていただきたいですわ。下手な噂が広がれば、困るのはセオドア自身ですから」
エマの顔が青ざめる。セオドアは眉をひそめたが、黙ったままだった。
しかしエマは、意を決したように口を開く。
「もし、私が、友達以上の感情を持っていると言ったら?」
その言葉は部屋中に響き渡り、空気をさらに重くした。
セオドアがその言葉に小さな喜びの表情を浮かべた瞬間、心が大きく軋む音を立てたように感じた。
――こんなにも簡単に、彼の本心が見えてしまうなんて。
「それであれば、それこそ、関係をはっきりしていただきたいですわ」
ゆっくりと言葉を続けた。
「セオドアは、卒業を待ってヴェセリー公爵家の養子となることが決まっております。公爵家と男爵家。物語のように皆から祝福される恋など期待できません。それゆえ、セオドアは侯爵令嬢の私と結婚するしかないのです。そして、私たちはその公爵家の人間として、家を守り繁栄のため共に歩んでいくのです。私たちの結婚は決定事項です」
「リディア!」
セオドアが怒りを露わに声を上げた。その声は部屋全体に響き渡り、エマの瞳には涙が浮かんでいた。しかし、私は止まれない。
「現実的な選択肢として、エマ様は、愛人となって別に家を構えるか、それとも芽生えた感情を傷が浅いうちに消してしまうか。エマ様には、それをはっきり決めていただきませんと、私も心の準備がありますから」
「なんて冷たい言い方をするんだ!」
セオドアが声を荒げたが、心は冷たく静かだった。泣き出すエマに寄り添うセオドア。
その様子を見つめながら、静かに席を立つ。
「セオドア、あなたもよ」
その一言に、彼はぎょっとしたように顔を上げたが、動揺を悟られないように視線をそらした。
「仲の良い友達だと言い張るのであれば、それなりの距離感を守らないと。周囲にどのように見られるかをもっと考えてほしいわ」
セオドアの表情が曇る。エマは、泣いたまま不安げに彼を見上げていた。
「もし、あなたも同じ気持ちで、気持ちを消すことなどできないから愛人に迎えるつもりだとおっしゃるのであれば――」
私の言葉にエマが息を呑む。
セオドアが何か言いかけるが、彼を遮るように続けた。
「結婚式が終わるまでは、互いの親にばれないように配慮するべきだわ。エマ様が両家に責められたらどうするのです? それは、あなたの本意では無いのでしょう?」
部屋の空気が凍りついたように重たくなり、セオドアは拳を握りしめながら何か言いたげに私を見つめた。
「あなたたちの曖昧な関係が、どれほど多くの人に影響を与えるのか、もう少し現実を見ていただきたいのです。セオドア、エマ様。どうかお二人で話し合ってはっきりさせてくださいませ。私はこれで失礼いたしますわ」
静かに一礼し、部屋を後にした。冷たい足音だけが、広い廊下に乾いた音を響かせる。
早く帰りたい。そして、一刻も早く、このドレスを脱ぎ捨てたいわ。
エマが先導する後を静かに歩く間、心に押し寄せるのは、自分が置かれた立場への嫌悪感だった。
部屋に通され、用意されたお茶を手に取る。
しかし、立ち昇るはずの芳醇な香りも、口に触れた液体の味わいも、何一つ感じられなかった。
カップを持つ指先がわずかに震える。それは、どうしようもなく押し寄せる感情の波を抑え込もうとする自分の無力さの現れだった。
「リディア様、聞いていらっしゃいますか?」
エマの高い声が耳に飛び込んできた。何か私に話しかけていたのだろうか。
セオドアの冷たい視線が肌に刺さり、私は仕方なくゆっくりと顔を上げた。
「失礼だぞ、リディア。ぼーっとしているなんて」
セオドアの声は、冷ややかで苛立ちも含んでいた。
「申し訳ありません、何でしたか?」
表面上の穏やかな微笑みを浮かべながら、問い返す。必死に感情を押し殺した。
「私、セオと仲良くさせてもらっていますけど、リディア様とも仲良くしたいのでお話をしたいのです。そうだわ。話題の小説、お読みになりました?」
エマの声は明るく、期待と嬉しさが滲んでいる。
「身分差の恋のお話ですの。心惹かれた相手との身分の差、そしてしがらみに一度は諦めようとするけれど、心に嘘をつけなくて、どうにもならない思いを伝え合うのです」
話を進めていくエマの瞳はきらきらと輝きを増していく。
自分がその物語の主人公になったかのように。
そして、それを見つめるセオドアもまた、柔らかな微笑みを浮かべていた。その表情は、ここ最近彼が私に向けたものよりも、はるかに穏やかで温かい。
「ああ、私も読んだ。2人で身分差を乗り越えるために力を尽くし、最後には周りに祝福されて望みをかなえる。感動的だ」
セオドアの声は、どこか感慨深げで優しさに満ちている。その眼差しがエマに向けられるたび、二人の間に親密さが漂っているのを感じた。
彼らは、私の存在など忘れ、見つめ合いながら語り続けた。視線が交差するたびに生まれる微笑みや、共感し合う仕草。その全てが、鋭い痛みとなって突き刺さる。
――どうして、この場に私はいるのだろう。
その問いが胸を満たしていく。心が空っぽになっていくような感覚に包まれたまま、彼らの会話をただ聞き流していた。
「リディア様は、どう思われますか?」
突然向けられた問いに、一瞬思考が空白になる。視線を上げると、二人の注目がこちらに集まっていた。
少しの間を置き、微笑みを浮かべながら静かに答える。
「心は自由ですわ」
そう、恋をするだけなら、思うだけなら自由。許されるはずだ。
エマはその答えに満足したように笑い、「そうですよね!」と同意した。
「……ですが、現実、結婚は家同士の契約です。物語のようにはいかない。もし破棄するようであれば何かしらの犠牲が伴います。わかっているとは思いますが」
声が部屋の中に響くと、場の空気がピリついた。
エマの顔に微妙な戸惑いが浮かぶ。瞳がわずかに揺らぎ、眉がかすかに寄る。だが、私の言葉は止まらなかった。
「いい機会ですから、はっきりお聞きしますわ。エマ様は、セオドアの仲の良いご友人ということでよろしいでしょうか?」
エマの瞳が再び揺れた。彼女は視線をセオドアに向け、戸惑っているように見えた。
「……ええ、そうですわ」
ためらいがちな声が返ってきた。
「それであれば、セオドアとむやみな接触は控えていただきたいですわ。下手な噂が広がれば、困るのはセオドア自身ですから」
エマの顔が青ざめる。セオドアは眉をひそめたが、黙ったままだった。
しかしエマは、意を決したように口を開く。
「もし、私が、友達以上の感情を持っていると言ったら?」
その言葉は部屋中に響き渡り、空気をさらに重くした。
セオドアがその言葉に小さな喜びの表情を浮かべた瞬間、心が大きく軋む音を立てたように感じた。
――こんなにも簡単に、彼の本心が見えてしまうなんて。
「それであれば、それこそ、関係をはっきりしていただきたいですわ」
ゆっくりと言葉を続けた。
「セオドアは、卒業を待ってヴェセリー公爵家の養子となることが決まっております。公爵家と男爵家。物語のように皆から祝福される恋など期待できません。それゆえ、セオドアは侯爵令嬢の私と結婚するしかないのです。そして、私たちはその公爵家の人間として、家を守り繁栄のため共に歩んでいくのです。私たちの結婚は決定事項です」
「リディア!」
セオドアが怒りを露わに声を上げた。その声は部屋全体に響き渡り、エマの瞳には涙が浮かんでいた。しかし、私は止まれない。
「現実的な選択肢として、エマ様は、愛人となって別に家を構えるか、それとも芽生えた感情を傷が浅いうちに消してしまうか。エマ様には、それをはっきり決めていただきませんと、私も心の準備がありますから」
「なんて冷たい言い方をするんだ!」
セオドアが声を荒げたが、心は冷たく静かだった。泣き出すエマに寄り添うセオドア。
その様子を見つめながら、静かに席を立つ。
「セオドア、あなたもよ」
その一言に、彼はぎょっとしたように顔を上げたが、動揺を悟られないように視線をそらした。
「仲の良い友達だと言い張るのであれば、それなりの距離感を守らないと。周囲にどのように見られるかをもっと考えてほしいわ」
セオドアの表情が曇る。エマは、泣いたまま不安げに彼を見上げていた。
「もし、あなたも同じ気持ちで、気持ちを消すことなどできないから愛人に迎えるつもりだとおっしゃるのであれば――」
私の言葉にエマが息を呑む。
セオドアが何か言いかけるが、彼を遮るように続けた。
「結婚式が終わるまでは、互いの親にばれないように配慮するべきだわ。エマ様が両家に責められたらどうするのです? それは、あなたの本意では無いのでしょう?」
部屋の空気が凍りついたように重たくなり、セオドアは拳を握りしめながら何か言いたげに私を見つめた。
「あなたたちの曖昧な関係が、どれほど多くの人に影響を与えるのか、もう少し現実を見ていただきたいのです。セオドア、エマ様。どうかお二人で話し合ってはっきりさせてくださいませ。私はこれで失礼いたしますわ」
静かに一礼し、部屋を後にした。冷たい足音だけが、広い廊下に乾いた音を響かせる。
早く帰りたい。そして、一刻も早く、このドレスを脱ぎ捨てたいわ。
1,788
あなたにおすすめの小説
【完結】ずっと、ずっとあなたを愛していました 〜後悔も、懺悔も今更いりません〜
高瀬船
恋愛
リスティアナ・メイブルムには二歳年上の婚約者が居る。
婚約者は、国の王太子で穏やかで優しく、婚約は王命ではあったが仲睦まじく関係を築けていた。
それなのに、突然ある日婚約者である王太子からは土下座をされ、婚約を解消して欲しいと願われる。
何故、そんな事に。
優しく微笑むその笑顔を向ける先は確かに自分に向けられていたのに。
婚約者として確かに大切にされていたのに何故こうなってしまったのか。
リスティアナの思いとは裏腹に、ある時期からリスティアナに悪い噂が立ち始める。
悪い噂が立つ事など何もしていないのにも関わらず、リスティアナは次第に学園で、夜会で、孤立していく。
〈完結〉【書籍化&コミカライズ・取り下げ予定】記憶を失ったらあなたへの恋心も消えました。
ごろごろみかん。
恋愛
婚約者には、何よりも大切にしている義妹がいる、らしい。
ある日、私は階段から転がり落ち、目が覚めた時には全てを忘れていた。
対面した婚約者は、
「お前がどうしても、というからこの婚約を結んだ。そんなことも覚えていないのか」
……とても偉そう。日記を見るに、以前の私は彼を慕っていたらしいけれど。
「階段から転げ落ちた衝撃であなたへの恋心もなくなったみたいです。ですから婚約は解消していただいて構いません。今まで無理を言って申し訳ありませんでした」
今の私はあなたを愛していません。
気弱令嬢(だった)シャーロットの逆襲が始まる。
☆タイトルコロコロ変えてすみません、これで決定、のはず。
☆商業化が決定したため取り下げ予定です(完結まで更新します)
許婚と親友は両片思いだったので2人の仲を取り持つことにしました
結城芙由奈@コミカライズ3巻7/30発売
恋愛
<2人の仲を応援するので、どうか私を嫌わないでください>
私には子供のころから決められた許嫁がいた。ある日、久しぶりに再会した親友を紹介した私は次第に2人がお互いを好きになっていく様子に気が付いた。どちらも私にとっては大切な存在。2人から邪魔者と思われ、嫌われたくはないので、私は全力で許嫁と親友の仲を取り持つ事を心に決めた。すると彼の評判が悪くなっていき、それまで冷たかった彼の態度が軟化してきて話は意外な展開に・・・?
※「カクヨム」「小説家になろう」にも投稿しています
婚約破棄の代償
nanahi
恋愛
「あの子を放って置けないんだ。ごめん。婚約はなかったことにしてほしい」
ある日突然、侯爵令嬢エバンジェリンは婚約者アダムスに一方的に婚約破棄される。破局に追い込んだのは婚約者の幼馴染メアリという平民の儚げな娘だった。
エバンジェリンを差し置いてアダムスとメアリはひと時の幸せに酔うが、婚約破棄の代償は想像以上に大きかった。
〈完結〉【書籍化&コミカライズ】伯爵令嬢の責務
ごろごろみかん。
恋愛
見てしまった。聞いてしまった。
婚約者が、王女に愛を囁くところを。
だけど、彼は私との婚約を解消するつもりは無いみたい。
貴族の責務だから政略結婚に甘んじるのですって。
それなら、私は私で貴族令嬢としての責務を果たすまで。
三年の想いは小瓶の中に
月山 歩
恋愛
結婚三周年の記念日だと、邸の者達がお膳立てしてくれた二人だけのお祝いなのに、その中心で一人夫が帰らない現実を受け入れる。もう彼を諦める潮時かもしれない。だったらこれからは自分の人生を大切にしよう。アレシアは離縁も覚悟し、邸を出る。
※こちらの作品は契約上、内容の変更は不可であることを、ご理解ください。
【完結】愛したあなたは本当に愛する人と幸せになって下さい
高瀬船
恋愛
伯爵家のティアーリア・クランディアは公爵家嫡男、クライヴ・ディー・アウサンドラと婚約秒読みの段階であった。
だが、ティアーリアはある日クライヴと彼の従者二人が話している所に出くわし、聞いてしまう。
クライヴが本当に婚約したかったのはティアーリアの妹のラティリナであったと。
ショックを受けるティアーリアだったが、愛する彼の為自分は身を引く事を決意した。
【誤字脱字のご報告ありがとうございます!小っ恥ずかしい誤字のご報告ありがとうございます!個別にご返信出来ておらず申し訳ございません( •́ •̀ )】
〈完結〉だってあなたは彼女が好きでしょう?
ごろごろみかん。
恋愛
「だってあなたは彼女が好きでしょう?」
その言葉に、私の婚約者は頷いて答えた。
「うん。僕は彼女を愛している。もちろん、きみのことも」
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる