婚約破棄された令嬢、気づけば宰相副官の最愛でした

藤原遊

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第四章 仮面の裏側

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休憩室を出た私は、長い廊下を一人で歩いていた。

王城の石壁は夕陽に赤く染まり、窓の外には影の伸びた街並みが見える。
昼の喧噪が遠のき、城の中には次第に夜の静けさが広がり始めていた。
靴音が石畳に反響し、その余韻だけが廊下に残る。

やがて視線の先に、官吏寮の佇まいが見えた。
城の一角に隣接して建てられた白亜の建物は、実務に従事する官吏たちのための住まいである。
地方から呼び寄せられた文官や、家を遠く離れた者たちがここで寝起きしていた。

私はそこに部屋を与えられている。

新興貴族の娘である私にとって、本来なら実家で暮らすこともできた。
屋敷も侍女も、生活に不自由はない。
けれど――私はあえて、寮を選んだ。

実家に残るのは、どうしても耐えられなかったのだ。

家族は私を責めはしなかった。
婚約破棄されたことを、誰も声高に咎めたりはしなかった。
むしろ気遣い、慰め、守ろうとしてくれた。

……だからこそ、苦しかった。

食卓に並んで座るとき、母がそっと差し出す皿に漂う沈黙。
父の視線に滲む後ろめたさ。
弟妹が無邪気に笑いながらも、時折、私を見て言葉を飲み込む仕草。

誰も責めない。
けれど、誰も忘れてはいない。
「政略の駒として立てなかった娘」を抱えているという影が、家の空気に常に流れていた。

その沈黙こそが、私には何よりも重かった。

私は思った。
――もう、誰かの庇護の下に生きることはできない。

だから寮に入った。
一人の文官として、ここで寝起きし、学び、働く。
家を離れたことで孤独は深まったが、それでも、この選択が正しかったと思っている。

扉の前に立ち、私は深く息を吐いた。
マティアスの言葉が頭の中で蘇る。

――クリストファーは、家族を失った。

外交の失敗の余波を受け、商家は没落し、一家は散り散りになった。
彼だけが官吏学校を卒業していたため、職を得られたのだと。

私は目を閉じた。

彼の笑顔。
誰にでも同じように向けられる、完璧なまでに整った微笑。
けれど、その奥で一瞬だけ覗いた氷のような瞳。

あれは――失った痛みを抱えたまま、それでも立ち続けるための鎧。
強い者の仮面ではなく、弱さを覆い隠して強くあろうとする決意の表れだったのだろう。

けれど、不思議なことに。
彼は突き放すばかりの人ではなかった。

書類改ざんの濡れ衣を着せられそうになったときも、彼は微笑を崩さず証拠を突きつけて守ってくれた。
宮廷会議で冷徹に下された判断も、国に損害を出さないための計算だった。
その刃のような冷静さの裏には、民を、仲間を、誰も余計に傷つけさせないための願いがあった。

私は窓辺に歩み寄り、外を見やった。
城下の石畳を小さな人影が行き交い、夕暮れに灯がともり始めている。
無数の暮らし。
無数の営み。
それを守るために、彼は仮面を纏い、氷の瞳を隠し続けてきたのだ。

――なんて強いのだろう。

私には家族がいる。
けれど、その存在は時に支えになるどころか、私の傷を抉る重荷にもなった。
一方で、彼は支えを完全に失いながらも、他者を守る力に変えている。

その差が、痛いほど胸に迫った。

「……」

自室の扉を開けると、蝋燭の小さな炎が迎えてくれた。
石造りの壁に囲まれた簡素な部屋。
けれど、ここが私にとっての戦場であり、居場所でもある。

私はベッドに腰を下ろし、目を閉じた。
彼の背中を思い浮かべる。

仮面を被り続けながら、誰よりも強くあろうとする姿を。
その冷たい瞳の奥に隠された痛みを。

私は、そこから目を逸らさずにいようと思った。
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