「君を愛している」
そう言って、公爵様は私に微笑んだ。
男爵家の庶子だった私には、その言葉だけで十分だった。
王都に用意された小さな家も、初めて身に纏う美しいドレスも、優しく私の名を呼んでくれる公爵様も。
そして、彼との間に授かったお腹の子どもさえ。
全部、夢のような幸せだった。
だから私は、何も知らなかった。
どうして公爵様は、一度も私を夜会へ連れて行ってくれなかったのか。
どうして使用人達が、時折、言葉を飲み込むような顔をしていたのか。
知ろうともしなかった。
幸せな夢から目を逸らさないために。
これは、夢から目覚めた一人の少女が、自らの無知と向き合う物語。
そして、祈ることしかできなかった、私の物語。
文字数 112,791
最終更新日 2026.10.14
登録日 2026.10.10
王都の冒険者ギルド《金鹿の角》で管理官として働くイルゼは、王国の最低報酬額改定を受け、翌月から三名の職員が基準を下回ることに気づいた。
必要な増額は、一人につき銀貨三枚。
すぐに報酬表を修正すれば済む話だと思っていたイルゼだったが、上司から返ってきたのは思いもよらない言葉だった。
「銀貨三枚のことでしょう」
「そんなにすぐお金が欲しいのか」
「他にも直さなければならないところはいくらでもある」
けれど、その「他にもある問題」を一つずつ直してきたのもイルゼだった。
契約の不備、共済の加入漏れ、期限の切れた協定、誤った報酬計算。
過去の間違いを直すだけならまだいい。
これから起きる違反まで、なぜわざわざ増やそうとするのだろう。
最低報酬の是正そのものは、どうにか認めさせることができた。
それでもイルゼは、《金鹿の角》を辞めることにした。
その後、彼女は小さな管理事務所を開き、ギルドや商会の契約や帳簿を整える仕事を始める。
一方その頃、王都では別の大手ギルドを巡る問題をきっかけに、王立会計院が認可ギルドへの監査を強めていた。
そしてある日、《金鹿の角》にも監査官が訪れる。
「うちは、そこまで酷くない」
そう考えていた経営陣だったが、数年分の帳簿を調べ始めた監査官は、ある不自然な数字に目を留め――。
文字数 4,245
最終更新日 2026.10.14
登録日 2026.10.13
ミレーヌは、夫ダリウスとの約束をいつも楽しみにしていた。
一緒に出かける日も、食事をする日も、その時間のために予定を空けて待っていた。
けれどダリウスは、仕事や他人との約束はきちんと覚えているのに、なぜかミレーヌとの約束だけは忘れてしまう。
そのたびに謝られ、「今度こそ」と思ってきたミレーヌだったが、ある日ふと気づく。
――待たなければ、傷つくこともないのではないか。
それから彼女は、夫のために予定を空けることをやめた。
ただそれだけのことだったはずなのに、二人の日常は少しずつ変わり始める。
文字数 10,431
最終更新日 2026.10.10
登録日 2026.10.09
王宮勤めの夫は、帰宅が遅い。
私はいつも居間で本を読みながら夫を待ち、帰ってきた彼と少しだけ話をしてから眠る。それが、いつの間にか毎日の習慣になっていた。
けれど、ある晩、
「君まで付き合う必要はない。先に寝ていていい」
夫にそう言われた。
確かに、私が起きて待っている必要などない。食事も湯も、使用人たちがきちんと用意してくれる。
だから、その日から私は夫の言葉どおり、先に休むことにした。
ただそれだけのことだったはずなのに、夫の様子が少しずつおかしくなっていく。
文字数 9,867
最終更新日 2026.10.05
登録日 2026.10.05
王太子妃候補として、長年王宮を支えてきた侯爵令嬢エレノア。
外交会談の調整。
文官との連携。
派閥間の根回し。
本来は候補教育の一環だったはずの仕事は、いつしか彼女なしでは回らなくなっていた。
けれど王太子レオルドが公開求婚で選んだのは、愛嬌があり華やかな別の令嬢。
その瞬間、候補制度から外れたエレノアへ、隣国セレストリア王国の王子ルーファスが公の場で求婚する。
「王国が彼女を必要としないのであれば、我が国が望んでも問題ありませんね」
「君なら、これからも王宮を支えてくれるだろう」
当然のように引き留める王太子へ、エレノアは静かに答えた。
「候補制度から外れた以上、王宮へ残る理由はございません」
彼女が去ったあと、王宮は少しずつ綻び始める。
これは、失ってから価値に気づく王国と、
初めて一人の人間として正当に評価された令嬢の物語。
文字数 153,700
最終更新日 2026.10.04
登録日 2026.07.20
商人の家に生まれ育ったマルタは、結婚後、夫が父から継いだ小さな雑貨店を共に切り盛りしてきた。
仕入れを見直し、新しい商品を探し、客の声を拾う。
思うように売れない日は二人で頭を抱え、初めて大きな利益が出た日は、閉店後の店でささやかに祝った。
苦しい時期もあった。
それでも夫と一緒だから頑張れたし、二人で店を育てていくことが、マルタにとっては何より幸せだった。
夫婦で力を合わせて、ここまで来た。
ずっと、そう思っていた。
けれどある日、商売について意見を口にしたマルタに、夫は苛立ったように言う。
「勘違いするなよ。この店は俺のものだ。お前は手伝っているだけだろう」
その瞬間、マルタの中で何かが静かに切れた。
これまで一緒に積み上げてきたと思っていた時間も、苦労も、喜びも。
夫にとっては、同じものではなかったらしい。
そして不思議なほど、夫への気持ちまで冷えていった。
「……そうね。あなたのお店だもの」
ならば、もう口を出す必要はない。
マルタは夫の望みどおり、彼の店のことに口を出すのをやめることにした。
文字数 23,077
最終更新日 2026.09.27
登録日 2026.09.26
結婚して四年。
政略結婚ではあったものの、夫エドガーとは穏やかな夫婦関係を築いてきたつもりだったアデリーヌ。
ある日、夫の書斎へ書類を届けた彼女は、見覚えのない一枚の肖像画を見つける。
描かれていたのは、美しい一人の女性。
しかも古くから飾られていたものではなく、額縁も絵も最近手入れされたように見えた。
「この女性は、どなたですか?」
問いかけたアデリーヌに、夫が返したのは
「昔の知人だ」
ただ、それだけだった。
けれどアデリーヌはまだ知らなかった。
その肖像画が、四年間信じてきた夫婦の関係を見つめ直すきっかけになることを。
文字数 11,782
最終更新日 2026.09.22
登録日 2026.09.22
結婚三周年を迎えた朝、イレーネは夫のユベールと、これからも穏やかな結婚生活を続けていくのだと思っていた。
ところが、二人で朝食を囲んでいたユベールは、突然「今日から別々に暮らそう」と告げる。
離縁したいわけではない。ただ、これからは同じ屋敷で暮らさず、少し距離を置きたいのだという。
思いがけない言葉に傷つきながらも、夫がそれを望んでいるのなら無理に引き留めることはできない。離縁すれば教会への手続きだけでなく、両家や社交界への説明も必要になるため、イレーネは婚姻関係を続けたまま自分が別邸へ移ることを決める。
そうして始まったユベールのいない生活は、当然寂しいものになるはずだった。
けれど、別邸で過ごす日々が重なるにつれて、イレーネの中には思いもしなかった変化が生まれていく。
そして妻を送り出したユベールもまた、自分が想像していたものとはまるで違う別居生活を送ることになった。
文字数 12,355
最終更新日 2026.09.19
登録日 2026.09.19
アルテンベルク公爵ローザリンデの夫ジェラールが、ある日突然、一人の少女を連れて帰ってきた。
名前はネリー。姓はない。
母親を亡くし、身寄りもなくした六歳の孤児だという。
「この子を、ここで育ててやれないだろうか」
公爵家が孤児を一人庇護することなど、難しい話ではない。
ローザリンデはネリーを気に入り、その願いを受け入れた。
だから問題は、少女ではなかった。
問題なのは、夫ジェラールの方だった。
なぜこの子を選んだのか。
なぜ自分に何も相談せず連れてきたのか。
そして、どうしてネリーの瞳は夫とあれほどよく似ているのか。
ローザリンデは、少しだけ調べてみることにした。
文字数 76,484
最終更新日 2026.09.18
登録日 2026.09.05
五百年も前に使われなくなった後宮制度を持ち出し、異世界から現れた聖女を側妃として迎えたい。
夫である国王フリードリヒからそう告げられた王妃ジュリエットは、怒るより先に呆れてしまった。
ジュリエットは、国境紛争を避けるための和平の証として隣国モンレーヴから嫁いできた王女だった。
王妃として国を支え、ただ一人の王子リュシアンにも恵まれた。
けれど、王族とは国民に恥じることのない振る舞いを求められる存在だと考えるジュリエットにとって、フリードリヒの判断は到底受け入れられるものではなかった。
「分かりました。それでは私は、祖国へ帰らせていただきます」
まだ幼い息子と、母国から連れてきた者たちとともに。
フリードリヒは、それが里帰りになる程度にしか考えていなかった。
――和平のために結ばれた婚姻が、何によって成り立っていたのかを知るまでは。
文字数 182,224
最終更新日 2026.09.13
登録日 2026.08.15
大商会の娘レティシアは、経営難に陥っていた子爵家のアルベルトと政略結婚した。
愛から始まった結婚ではない。
それでも数年間を夫婦として過ごし、領地のために実家の商会との橋渡しも続けてきたレティシアは、二人の間には穏やかな信頼くらいはあると思っていた。
そんなある日、アルベルトが一人の若い女性を屋敷へ連れてくる。
「昔馴染みのクラリッサだ。しばらくうちで面倒を見ることにした」
事前の相談は、何もなかった。
そしてその日の夕食。
レティシアが食堂へ入ると、クラリッサはなぜか、この家の女主人である自分の席に座っていた。
慌てて立ち上がろうとするクラリッサ。
それを止めたのは、夫だった。
「僕が座らせたんだ。君ならこれくらい気にしないだろう?」
問題は、一脚の椅子ではなかった。
夫が当然のように決めていたこと。
妻なら受け入れると思われていたこと。
そして、今まで見ないふりをしていたもの。
ひとつの席から始まった違和感は、やがてレティシアに、自分の結婚そのものを見つめ直させていく。
文字数 26,338
最終更新日 2026.09.12
登録日 2026.09.12
伯爵家の前妻の娘であるクラリスは、継母と異母妹に遠慮しながら暮らしていた。
「クラリスは聞き分けが良いもの」
そう言われるたびに、欲しいものも、行きたい場所も、少しずつ諦めてきた。
ある日、体調を崩した妹の代わりとして、急遽王城の舞踏会へ出席することになる。
灰色の古いドレスを纏い、誰にも期待されないまま訪れた舞踏会。
けれど王太子アルベルトは、彼女を見るなり目を見開いた。
「――やっと見つけた」
それは幼い頃、一度だけ出会い、ずっと探し続けていた少女への言葉だった。
誰にも愛されていないと思っていた灰かぶり令嬢は、その夜から王太子に溺愛され始める。
文字数 68,513
最終更新日 2026.08.26
登録日 2026.07.31
先輩勇者が、人間側を裏切った。
その理由も、真意も、後輩である私たちには知らされなかった。
残された後輩冒険者たちは疑われる。
次に裏切るのは、お前たちではないのか――と。
そして下された判断は、
「使い捨てても惜しくない勇者」として
魔王戦線へ送り出すことだった。
人間側に絶対の正義はなく、
魔王側も単なる悪とは限らない。
裏切りと猜疑が渦巻く戦場で、
後輩勇者たちは生き延びるために剣を取る。
――これは、
世界の在り方が変わる、その前夜の物語。
文字数 229,029
最終更新日 2026.08.08
登録日 2026.01.20
王都からの救援要請を前にして、フレイヤ・ノルドヘイムは静かに息を吐いた。
一度目の人生で、彼女はその声に応えた。父を失ったばかりの身で雪深い辺境から軍を率い、凍てつく山道を越え、敵軍を退け、王国を救った。
けれど、人々が英雄として讃えたのは王太子ヤロミールだった。
王太子の婚約者となった後も、彼女の献身が報われることはなかった。差し出したものは当然のものとして扱われ、最後には処刑された。
その最期に、彼女のそばにいたのは、翼がなく空を飛べない白い竜だけだった。
目を覚ましたフレイヤは、父の戦死を告げられた日に戻っていた。
ならば、もう同じ道は選ばない。
王太子の栄光のために戦うことも、王都の涙に命を差し出すことも、二度としない。
彼女が守るべきものは、雪深い辺境にある。
飛べない白い竜がいる。父が遺した寡黙な竜騎士がいる。そして、彼女の帰りを待つ人々がいる。
祖国を救った令嬢は、二度目の人生で祖国を救わない。
これは、すべてを奪われた辺境伯令嬢が、雪の国で愛と居場所を取り戻す物語。
文字数 187,312
最終更新日 2026.08.07
登録日 2026.06.27
「君は着いてきてくれるだろう?」
幼なじみで婚約者でもある勇者ルーカスにそう言われ、
エレノアは正式任命も報酬もないまま魔王討伐の旅へ同行していた。
結界維持、野営準備、補給管理。
旅に必要なことのほとんどを担いながらも、
ルーカスと聖女リリアは当然のように距離を縮めていく。
そしてある夜、
ルーカスは再び言った。
「君は理解してくれるだろう?」
その瞬間、
エレノアの中で何かが静かに壊れる。
これは、
“理解してくれる婚約者”でいることをやめた令嬢の、
静かな見限りと再生の物語。
※タグ設定については作者判断により整理し、現在は設定しておりません。ご了承ください。
文字数 303,463
最終更新日 2026.07.31
登録日 2026.05.30
伯爵令嬢リシェルは、侯爵令息エドワードの婚約者として、長年彼を支え続けてきた。
社交の調整、侯爵家との付き合い、夜会での立ち回り。
婚約者として必要な役目を果たしてきたつもりだった。
けれど、エドワードが最優先するのは、いつだって乳兄妹のフィオナだった。
体調を崩したと聞けば予定を変えて駆けつけ、夜会でも当然のように隣へ立つ。
「昔から家族同然なんだ」
そう言って、エドワードは何度もリシェルへ理解を求めてきた。
侯爵夫人だけは、そんな息子を何度も諫めていたけれど――本人は、自分がどれほどリシェルへ甘えているのか、まるで分かっていなかったのだ。
そして、ある日。
「フィオナは俺にとって特別なんだ。君とは違う」
その言葉を聞いた瞬間、リシェルはようやく気づく。
ああ、この人は最初から、私を一番に選ぶつもりなどなかったのだと。
ですから、もう結構です。
そこまで乳兄妹の方が大事なのでしたら、私は婚約者を降ります。
リシェルが去ったあと、エドワードは少しずつ思い知っていく。
自分がどれほど彼女に支えられていたのかを。
文字数 235,032
最終更新日 2026.07.20
登録日 2026.05.06
王宮人事局の女性官吏、フローレンス・オルフェン子爵令嬢。
彼女は今、ひとりの男爵令嬢に頭を悩ませていた。
「フローレンス様でなければ嫌です」
「わたくしの事情を分かってくださるでしょう?」
王宮の臨時雇いとして働くメイベル・カーター男爵令嬢は、配属先での不調を理由に、人事局へ何度も相談を持ち込んでいた。
以前は、できるだけ事情を汲もうとした。
けれど一度応じた善意は、次の要求に変わった。
だからフローレンスは決めている。
泣かれても、縋られても、職務の線は越えないと。
そんな彼女の対応を、偶然目にした男がいた。
国境軍を預かる高位貴族、アルバート・ヴァルクレスト辺境伯。
美貌と軍権を持ちながら、紹介もない令嬢には視線すら向けない冷徹な男。
その彼が、淡々と職務を果たすフローレンスには、なぜか興味を示してきて――。
王宮人事局から始まる、線引き上手な子爵令嬢と冷徹辺境伯の恋のお話。
文字数 40,098
最終更新日 2026.07.18
登録日 2026.07.17
戦場で死んだ辺境伯令嬢アリシエル。
――その最期に、彼女が選んだのは婚約者ではなかった。
その死を境に、残された四人の関係は静かに歪んでいく。
婚約者だった男。
彼女に選ばれた騎士。
親友だったはずの令嬢。
そして、妹。
それぞれが“正しい選択”を重ねたはずなのに、
気づけば誰一人として、同じ場所には立っていなかった。
これは、一人の死をきっかけに、
人の関係が少しずつ崩れていく群像劇。
静かで、重く、そしてどこにも救いきれない物語。
※バッドエンドから始まる物語。ハピエン厨が書くビターエンドです。
※ドロドロの人間関係を描いています。苦手な方はご注意ください。
※人が亡くなる表現があります。苦手な方は自衛ください。
文字数 177,699
最終更新日 2026.06.07
登録日 2026.04.29
婚約者は、私ではなく妹を選びました。
理由は単純で、社交に向いているのは妹で、私は裏方に過ぎないからだそうです。
婚約はその場で解消され、私は公爵家へ行儀見習いとして出ることになりましたが、与えられた仕事をそのままこなしていただけのはずなのに、なぜか評価は変わっていきます。
そして気がつけば、縁談の話まで持ち込まれるようになりました。
——一度は不要と判断したはずですよね。
私ではなく妹を選んだのですから、今さら戻られても困ります。
文字数 8,694
最終更新日 2026.05.06
登録日 2026.05.05