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第四章 仮面の裏側
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宰相府の執務室には、紙をめくる音とペン先の走る音だけが響いていた。
外交はすでに終盤。翌日の会議が決着の場となる。
積み上げられた書簡に目を走らせながら、私は仮面の笑みを崩さぬよう自らを律していた。
重圧は常にのしかかる。
一つの誤りが国の利益を損ない、多くの人々を苦しめる。
それを知っているからこそ、私は冷徹でなければならなかった。
しかし――ときおり、ふと指が止まる。
無意識に漏れる迷いを、彼女に見透かされはしないか。そんな不安が胸をかすめる。
「どうぞ」
柔らかな声とともに、机に茶器が置かれた。
顔を上げると、セラフィーナが盆を支えて立っていた。
白い指先、背筋の通った立ち姿。
一挙手一投足に漂う洗練。
それは高位貴族としての育ちを如実に示していた。
「ありがとうございます」
私は微笑んで礼を述べた。
いつもの通り、乱れのない仮面を整えて。
彼女は控えめに頷き、静かに席へ戻る。
やはり、美しい。
美しいのは顔立ちや姿形だけではない。
茶を差し出す仕草、書簡をめくる所作、言葉の選び方――そのすべてが洗練されている。
ラファエル王子の隣に立つために育てられた令嬢。そう考えれば、何もかも合点がいく。
教養も言語も即戦力。
異国の使節相手に引けを取らぬのは当然だ。
普通の下級貴族や商家の娘では、到底及ばぬ素地を備えている。
……だが同時に、危うさもある。
彼女は育ちが良すぎる。
人を妬んだり、足を引っ張り合うような経験が乏しいのだろう。
それは高潔さでもあるが、貴族社会では弱点になり得る。
伝統貴族の家々では、敵意に晒されること、妬みを買うことを当然のように教育の一部として受け継いできた。
子どもの頃から「どう立ち振る舞えば潰されないか」を学び、時に残酷な手段も心得る。
だが彼女はそうではない。
新興貴族の出で、家の誇りと努力だけで駆け上がってきた家系。
純粋であることは強みであると同時に、もっとも狙われやすい隙でもある。
外交の場で彼女を潰すことは、即ち国の痛手。
だからこそ私は彼女を見守らざるを得ない。
彼女が倒れれば、補うべき穴は余りに大きい。
「……クリストファー様」
呼びかけられ、私は顔を向けた。
微笑みは崩さない。
「はい?」
「あなたは、いつも笑っておられます。
どんなに忙しくても、誰に対しても。
けれど……」
彼女の声音はわずかに揺れていた。
だがすぐに、真っ直ぐな強さを帯びる。
「笑顔以外を、見せてもいいのではありませんか?」
静寂が落ちた。
胸の奥を突かれ、息が詰まる。
笑みが揺らぎ、指先が机の上で止まった。
ほんの一瞬、仮面の奥が露わになった気がする。
危うい――。
すぐに私は微笑を整えた。
「……優しいお言葉をありがとうございます。ですが、私にはこれが似合っているのですよ」
声は穏やかに。
何も欠けていないように。
だが胸の内には冷たい思いが渦を巻いていた。
――俺の本性を知れば、君も離れる。
家族を喪い、全てを失ったあの日から、私は仮面を被ることでしか立てなくなった。
冷徹に振る舞うのは、弱さを覆い隠し、二度と失わぬための術。
彼女がその奥に踏み込めば踏み込むほど、私は恐れる。
「知られてはならない」という声が心の奥で鳴り響いている。
視線を落とし、再び筆を取った。
横目に映る彼女の姿は、やはり整っている。
洗練された動きと、美しい横顔。
本来は王子の隣に立つべき存在が、今こうして私の補佐として事務を進めている。
二人の筆の音が重なり、執務室に規則正しいリズムを刻んだ。
それが唯一の均衡。
互いに背負うものを隠したまま、ただ並んで仕事を続けること――それ以上は許されぬ距離だった。
外交はすでに終盤。翌日の会議が決着の場となる。
積み上げられた書簡に目を走らせながら、私は仮面の笑みを崩さぬよう自らを律していた。
重圧は常にのしかかる。
一つの誤りが国の利益を損ない、多くの人々を苦しめる。
それを知っているからこそ、私は冷徹でなければならなかった。
しかし――ときおり、ふと指が止まる。
無意識に漏れる迷いを、彼女に見透かされはしないか。そんな不安が胸をかすめる。
「どうぞ」
柔らかな声とともに、机に茶器が置かれた。
顔を上げると、セラフィーナが盆を支えて立っていた。
白い指先、背筋の通った立ち姿。
一挙手一投足に漂う洗練。
それは高位貴族としての育ちを如実に示していた。
「ありがとうございます」
私は微笑んで礼を述べた。
いつもの通り、乱れのない仮面を整えて。
彼女は控えめに頷き、静かに席へ戻る。
やはり、美しい。
美しいのは顔立ちや姿形だけではない。
茶を差し出す仕草、書簡をめくる所作、言葉の選び方――そのすべてが洗練されている。
ラファエル王子の隣に立つために育てられた令嬢。そう考えれば、何もかも合点がいく。
教養も言語も即戦力。
異国の使節相手に引けを取らぬのは当然だ。
普通の下級貴族や商家の娘では、到底及ばぬ素地を備えている。
……だが同時に、危うさもある。
彼女は育ちが良すぎる。
人を妬んだり、足を引っ張り合うような経験が乏しいのだろう。
それは高潔さでもあるが、貴族社会では弱点になり得る。
伝統貴族の家々では、敵意に晒されること、妬みを買うことを当然のように教育の一部として受け継いできた。
子どもの頃から「どう立ち振る舞えば潰されないか」を学び、時に残酷な手段も心得る。
だが彼女はそうではない。
新興貴族の出で、家の誇りと努力だけで駆け上がってきた家系。
純粋であることは強みであると同時に、もっとも狙われやすい隙でもある。
外交の場で彼女を潰すことは、即ち国の痛手。
だからこそ私は彼女を見守らざるを得ない。
彼女が倒れれば、補うべき穴は余りに大きい。
「……クリストファー様」
呼びかけられ、私は顔を向けた。
微笑みは崩さない。
「はい?」
「あなたは、いつも笑っておられます。
どんなに忙しくても、誰に対しても。
けれど……」
彼女の声音はわずかに揺れていた。
だがすぐに、真っ直ぐな強さを帯びる。
「笑顔以外を、見せてもいいのではありませんか?」
静寂が落ちた。
胸の奥を突かれ、息が詰まる。
笑みが揺らぎ、指先が机の上で止まった。
ほんの一瞬、仮面の奥が露わになった気がする。
危うい――。
すぐに私は微笑を整えた。
「……優しいお言葉をありがとうございます。ですが、私にはこれが似合っているのですよ」
声は穏やかに。
何も欠けていないように。
だが胸の内には冷たい思いが渦を巻いていた。
――俺の本性を知れば、君も離れる。
家族を喪い、全てを失ったあの日から、私は仮面を被ることでしか立てなくなった。
冷徹に振る舞うのは、弱さを覆い隠し、二度と失わぬための術。
彼女がその奥に踏み込めば踏み込むほど、私は恐れる。
「知られてはならない」という声が心の奥で鳴り響いている。
視線を落とし、再び筆を取った。
横目に映る彼女の姿は、やはり整っている。
洗練された動きと、美しい横顔。
本来は王子の隣に立つべき存在が、今こうして私の補佐として事務を進めている。
二人の筆の音が重なり、執務室に規則正しいリズムを刻んだ。
それが唯一の均衡。
互いに背負うものを隠したまま、ただ並んで仕事を続けること――それ以上は許されぬ距離だった。
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