婚約破棄された令嬢、気づけば宰相副官の最愛でした

藤原遊

文字の大きさ
38 / 50
第四章 仮面の裏側

38

しおりを挟む
朝の光が差し込む執務室に足を踏み入れた瞬間、私は思わず息を呑んだ。

机に向かい、書類を整えるセラフィーナ嬢の栗色の髪を、昨日渡したバレッタが留めていた。
陽光を受けてやわらかに光を含んだ髪は、金の糸を織り込んだかのようにきらめき、銀の細工はそこにひっそりと輝きを添えている。
華美ではない。だが繊細な曲線と小さな宝玉が、彼女の端正な横顔をより際立たせていた。

胸の奥がじんわりと熱を帯びる。
昨日の贈り物を、もうこうして使ってくれている――その事実が信じられぬほど嬉しかった。

(……美しい)

栗色の髪に映える銀の輝き。
凛とした姿勢と、流れるように整った所作。
筆を取る手の動きすら洗練されていて、目が離せなくなる。
彼女は確かに高位の貴族として育てられた。
礼儀も言葉遣いも完璧で、立ち居振る舞いは宮廷の舞台にこそふさわしい。
けれどそれだけではない。
恐怖の場に立ちながらも怯まず、務めを果たしたあの夜の強さが、彼女をいっそう美しく見せていた。

気づけば視線で追ってしまう。
何度も目を逸らそうとしても、また吸い寄せられる。
胸の奥に温かさと同時に焦りが広がり、私は机上の書類に意識を押し戻した。

(いけない。彼女は高位の貴族……私が手を伸ばせる相手ではない)

心に芽生える感情を冷徹に押し殺す。
私は商家の三男として生まれ、家を失い、流れ着いた身。
宰相副官という地位を得はしたが、決して彼女と釣り合うものではない。
だから――これ以上は望んではならない。

そう自らに言い聞かせても、バレッタを挿した栗色の髪が朝日に揺れる光景は、瞼に焼き付いて離れなかった。

その日の執務を終え、私は食堂へ足を運んだ。
石造りの広間には人々のざわめきが満ち、長卓には次々と料理が並べられていく。
香ばしいパンの匂いと煮込みの湯気が立ちこめる中、久方ぶりにマティアスと席を並べた。

「よお、クリス」

気安い声とともに彼が腰を下ろす。
スープを掬いながら、にやりと口角を上げた。

「なあ、お前……セラフィーナ嬢を、ずいぶん目で追ってるじゃないか」

スプーンを握る手が止まる。
私は苦笑を浮かべ、軽く首を振った。

「馬鹿なことを言うな」

「いやいや、図星だろ」

パンをちぎりながら、彼は肩をすくめる。

「それにさ、あの方は新興貴族だ。
商家が成り上がって爵位を得た家柄。
宰相副官であるお前なら、むしろ悪い話じゃないと思うけどな」

気安い調子。
だがその言葉が胸の奥に突き刺さる。
私は視線を落とし、押し殺した声で返した。

「……いや。俺には、できない」

マティアスが眉を寄せ、真剣な眼差しを向けてくる。

「どうしてだ? お前がそう言うとはな」

私は言葉を探し、そして吐き出した。

「大切なものを作るのは……恐いんだ」

かつての夜の記憶が脳裏に蘇る。
一瞬で奪われた家族。
守りたくても守れなかった無力さ。
喪失の痛みは今なお消えず、胸の奥を冷たく締め付ける。

二度と同じ思いをするわけにはいかない――そう決めたはずだった。
それなのに。
昨日、涙を拭った彼女の姿。
そして今朝、バレッタを栗色の髪に挿した横顔。
その二つの光景が、どうしても心から離れない。

触れてはならぬものに、手を伸ばしてしまいそうになる。
その危うさを、自分自身が誰よりもよく分かっていた。
しおりを挟む
感想 0

あなたにおすすめの小説

イリス、今度はあなたの味方

さくたろう
恋愛
 20歳で死んでしまったとある彼女は、前世でどハマりした小説、「ローザリアの聖女」の登場人物に生まれ変わってしまっていた。それもなんと、偽の聖女として処刑される予定の不遇令嬢イリスとして。  今度こそ長生きしたいイリスは、ラスボス予定の血の繋がらない兄ディミトリオスと死ぬ運命の両親を守るため、偽の聖女となって処刑される未来を防ぐべく奮闘する。 ※小説家になろう様にも掲載しています。

婚約破棄? 国外追放?…ええ、全部知ってました。地球の記憶で。でも、元婚約者(あなた)との恋の結末だけは、私の知らない物語でした。

aozora
恋愛
クライフォルト公爵家の令嬢エリアーナは、なぜか「地球」と呼ばれる星の記憶を持っていた。そこでは「婚約破棄モノ」の物語が流行しており、自らの婚約者である第一王子アリステアに大勢の前で婚約破棄を告げられた時も、エリアーナは「ああ、これか」と奇妙な冷静さで受け止めていた。しかし、彼女に下された罰は予想を遥かに超え、この世界での記憶、そして心の支えであった「地球」の恋人の思い出までも根こそぎ奪う「忘却の罰」だった……

婚約破棄を突き付けてきた貴方なんか助けたくないのですが

夢呼
恋愛
エリーゼ・ミレー侯爵令嬢はこの国の第三王子レオナルドと婚約関係にあったが、当の二人は犬猿の仲。 ある日、とうとうエリーゼはレオナルドから婚約破棄を突き付けられる。 「婚約破棄上等!」 エリーゼは喜んで受け入れるが、その翌日、レオナルドは行方をくらました! 殿下は一体どこに?! ・・・どういうわけか、レオナルドはエリーゼのもとにいた。なぜか二歳児の姿で。 王宮の権力争いに巻き込まれ、謎の薬を飲まされてしまい、幼児になってしまったレオナルドを、既に他人になったはずのエリーゼが保護する羽目になってしまった。 殿下、どうして私があなたなんか助けなきゃいけないんですか? 本当に迷惑なんですけど。 拗らせ王子と毒舌令嬢のお話です。 ※世界観は非常×2にゆるいです。     文字数が多くなりましたので、短編から長編へ変更しました。申し訳ありません。  カクヨム様にも投稿しております。 レオナルド目線の回は*を付けました。

王子の転落 ~僕が婚約破棄した公爵令嬢は優秀で人望もあった~

今川幸乃
恋愛
ベルガルド王国の王子カールにはアシュリーという婚約者がいた。 しかしカールは自分より有能で周囲の評判もよく、常に自分の先回りをして世話をしてくるアシュリーのことを嫉妬していた。 そんな時、カールはカミラという伯爵令嬢と出会う。 彼女と過ごす時間はアシュリーと一緒の時間と違って楽しく、気楽だった。 こんな日々が続けばいいのに、と思ったカールはアシュリーとの婚約破棄を宣言する。 しかしアシュリーはカールが思っていた以上に優秀で、家臣や貴族たちの人望も高かった。 そのため、婚約破棄後にカールは思った以上の非難にさらされることになる。 ※王子視点多めの予定

婚約破棄された枯葉令嬢は、車椅子王子に溺愛される

夏生 羽都
恋愛
地味な伯爵令嬢のフィリアには美しい婚約者がいる。 第三王子のランドルフがフィリアの婚約者なのだが、ランドルフは髪と瞳が茶色のフィリアに不満を持っている。 婚約者同士の交流のために設けられたお茶会で、いつもランドルフはフィリアへの不満を罵詈雑言として浴びせている。 伯爵家が裕福だったので、王家から願われた婚約だっだのだが、フィリアの容姿が気に入らないランドルフは、隣に美しい公爵令嬢を侍らせながら言い放つのだった。 「フィリア・ポナー、貴様との汚らわしい婚約は真実の愛に敗れたのだ!今日ここで婚約を破棄する!」 ランドルフとの婚約期間中にすっかり自信を無くしてしまったフィリア。 しかし、すぐにランドルフの異母兄である第二王子と新たな婚約が結ばれる。 初めての顔合せに行くと、彼は車椅子に座っていた。 ※完結まで予約投稿済みです

婚約破棄された伯爵令嬢ですが、辺境で有能すぎて若き領主に求婚されました

おりあ
恋愛
 アーデルベルト伯爵家の令嬢セリナは、王太子レオニスの婚約者として静かに、慎ましく、その務めを果たそうとしていた。 だが、感情を上手に伝えられない性格は誤解を生み、社交界で人気の令嬢リーナに心を奪われた王太子は、ある日一方的に婚約を破棄する。  失意のなかでも感情をあらわにすることなく、セリナは婚約を受け入れ、王都を離れ故郷へ戻る。そこで彼女は、自身の分析力や実務能力を買われ、辺境の行政視察に加わる機会を得る。  赴任先の北方の地で、若き領主アレイスターと出会ったセリナ。言葉で丁寧に思いを伝え、誠実に接する彼に少しずつ心を開いていく。 そして静かに、しかし確かに才能を発揮するセリナの姿は、やがて辺境を支える柱となっていく。  一方、王太子レオニスとリーナの婚約生活には次第に綻びが生じ、セリナの名は再び王都でも囁かれるようになる。  静かで無表情だと思われた令嬢は、実は誰よりも他者に寄り添う力を持っていた。 これは、「声なき優しさ」が、真に理解され、尊ばれていく物語。

(完結)お荷物聖女と言われ追放されましたが、真のお荷物は追放した王太子達だったようです

しまうま弁当
恋愛
伯爵令嬢のアニア・パルシスは婚約者であるバイル王太子に突然婚約破棄を宣言されてしまうのでした。 さらにはアニアの心の拠り所である、聖女の地位まで奪われてしまうのでした。 訳が分からないアニアはバイルに婚約破棄の理由を尋ねましたが、ひどい言葉を浴びせつけられるのでした。 「アニア!お前が聖女だから仕方なく婚約してただけだ。そうでなけりゃ誰がお前みたいな年増女と婚約なんかするか!!」と。 アニアの弁明を一切聞かずに、バイル王太子はアニアをお荷物聖女と決めつけて婚約破棄と追放をさっさと決めてしまうのでした。 挙句の果てにリゼラとのイチャイチャぶりをアニアに見せつけるのでした。 アニアは妹のリゼラに助けを求めましたが、リゼラからはとんでもない言葉が返ってきたのでした。 リゼラこそがアニアの追放を企てた首謀者だったのでした。 アニアはリゼラの自分への悪意を目の当たりにして愕然しますが、リゼラは大喜びでアニアの追放を見送るのでした。 信じていた人達に裏切られたアニアは、絶望して当てもなく宿屋生活を始めるのでした。 そんな時運命を変える人物に再会するのでした。 それはかつて同じクラスで一緒に学んでいた学友のクライン・ユーゲントでした。 一方のバイル王太子達はアニアの追放を喜んでいましたが、すぐにアニアがどれほどの貢献をしていたかを目の当たりにして自分達こそがお荷物であることを思い知らされるのでした。 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~ 全25話執筆済み 完結しました

実家を追い出され、薬草売りをして糊口をしのいでいた私は、薬草摘みが趣味の公爵様に見初められ、毎日二人でハーブティーを楽しんでいます

さら
恋愛
実家を追い出され、わずかな薬草を売って糊口をしのいでいた私。 生きるだけで精一杯だったはずが――ある日、薬草摘みが趣味という変わり者の公爵様に出会ってしまいました。 「君の草は、人を救う力を持っている」 そう言って見初められた私は、公爵様の屋敷で毎日一緒に薬草を摘み、ハーブティーを淹れる日々を送ることに。 不思議と気持ちが通じ合い、いつしか心も温められていく……。 華やかな社交界も、危険な戦いもないけれど、 薬草の香りに包まれて、ゆるやかに育まれるふたりの時間。 町の人々や子どもたちとの出会いを重ね、気づけば「薬草師リオナ」の名は、遠い土地へと広がっていき――。

処理中です...