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第四章 仮面の裏側
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朝の光が差し込む執務室に足を踏み入れた瞬間、私は思わず息を呑んだ。
机に向かい、書類を整えるセラフィーナ嬢の栗色の髪を、昨日渡したバレッタが留めていた。
陽光を受けてやわらかに光を含んだ髪は、金の糸を織り込んだかのようにきらめき、銀の細工はそこにひっそりと輝きを添えている。
華美ではない。だが繊細な曲線と小さな宝玉が、彼女の端正な横顔をより際立たせていた。
胸の奥がじんわりと熱を帯びる。
昨日の贈り物を、もうこうして使ってくれている――その事実が信じられぬほど嬉しかった。
(……美しい)
栗色の髪に映える銀の輝き。
凛とした姿勢と、流れるように整った所作。
筆を取る手の動きすら洗練されていて、目が離せなくなる。
彼女は確かに高位の貴族として育てられた。
礼儀も言葉遣いも完璧で、立ち居振る舞いは宮廷の舞台にこそふさわしい。
けれどそれだけではない。
恐怖の場に立ちながらも怯まず、務めを果たしたあの夜の強さが、彼女をいっそう美しく見せていた。
気づけば視線で追ってしまう。
何度も目を逸らそうとしても、また吸い寄せられる。
胸の奥に温かさと同時に焦りが広がり、私は机上の書類に意識を押し戻した。
(いけない。彼女は高位の貴族……私が手を伸ばせる相手ではない)
心に芽生える感情を冷徹に押し殺す。
私は商家の三男として生まれ、家を失い、流れ着いた身。
宰相副官という地位を得はしたが、決して彼女と釣り合うものではない。
だから――これ以上は望んではならない。
そう自らに言い聞かせても、バレッタを挿した栗色の髪が朝日に揺れる光景は、瞼に焼き付いて離れなかった。
その日の執務を終え、私は食堂へ足を運んだ。
石造りの広間には人々のざわめきが満ち、長卓には次々と料理が並べられていく。
香ばしいパンの匂いと煮込みの湯気が立ちこめる中、久方ぶりにマティアスと席を並べた。
「よお、クリス」
気安い声とともに彼が腰を下ろす。
スープを掬いながら、にやりと口角を上げた。
「なあ、お前……セラフィーナ嬢を、ずいぶん目で追ってるじゃないか」
スプーンを握る手が止まる。
私は苦笑を浮かべ、軽く首を振った。
「馬鹿なことを言うな」
「いやいや、図星だろ」
パンをちぎりながら、彼は肩をすくめる。
「それにさ、あの方は新興貴族だ。
商家が成り上がって爵位を得た家柄。
宰相副官であるお前なら、むしろ悪い話じゃないと思うけどな」
気安い調子。
だがその言葉が胸の奥に突き刺さる。
私は視線を落とし、押し殺した声で返した。
「……いや。俺には、できない」
マティアスが眉を寄せ、真剣な眼差しを向けてくる。
「どうしてだ? お前がそう言うとはな」
私は言葉を探し、そして吐き出した。
「大切なものを作るのは……恐いんだ」
かつての夜の記憶が脳裏に蘇る。
一瞬で奪われた家族。
守りたくても守れなかった無力さ。
喪失の痛みは今なお消えず、胸の奥を冷たく締め付ける。
二度と同じ思いをするわけにはいかない――そう決めたはずだった。
それなのに。
昨日、涙を拭った彼女の姿。
そして今朝、バレッタを栗色の髪に挿した横顔。
その二つの光景が、どうしても心から離れない。
触れてはならぬものに、手を伸ばしてしまいそうになる。
その危うさを、自分自身が誰よりもよく分かっていた。
机に向かい、書類を整えるセラフィーナ嬢の栗色の髪を、昨日渡したバレッタが留めていた。
陽光を受けてやわらかに光を含んだ髪は、金の糸を織り込んだかのようにきらめき、銀の細工はそこにひっそりと輝きを添えている。
華美ではない。だが繊細な曲線と小さな宝玉が、彼女の端正な横顔をより際立たせていた。
胸の奥がじんわりと熱を帯びる。
昨日の贈り物を、もうこうして使ってくれている――その事実が信じられぬほど嬉しかった。
(……美しい)
栗色の髪に映える銀の輝き。
凛とした姿勢と、流れるように整った所作。
筆を取る手の動きすら洗練されていて、目が離せなくなる。
彼女は確かに高位の貴族として育てられた。
礼儀も言葉遣いも完璧で、立ち居振る舞いは宮廷の舞台にこそふさわしい。
けれどそれだけではない。
恐怖の場に立ちながらも怯まず、務めを果たしたあの夜の強さが、彼女をいっそう美しく見せていた。
気づけば視線で追ってしまう。
何度も目を逸らそうとしても、また吸い寄せられる。
胸の奥に温かさと同時に焦りが広がり、私は机上の書類に意識を押し戻した。
(いけない。彼女は高位の貴族……私が手を伸ばせる相手ではない)
心に芽生える感情を冷徹に押し殺す。
私は商家の三男として生まれ、家を失い、流れ着いた身。
宰相副官という地位を得はしたが、決して彼女と釣り合うものではない。
だから――これ以上は望んではならない。
そう自らに言い聞かせても、バレッタを挿した栗色の髪が朝日に揺れる光景は、瞼に焼き付いて離れなかった。
その日の執務を終え、私は食堂へ足を運んだ。
石造りの広間には人々のざわめきが満ち、長卓には次々と料理が並べられていく。
香ばしいパンの匂いと煮込みの湯気が立ちこめる中、久方ぶりにマティアスと席を並べた。
「よお、クリス」
気安い声とともに彼が腰を下ろす。
スープを掬いながら、にやりと口角を上げた。
「なあ、お前……セラフィーナ嬢を、ずいぶん目で追ってるじゃないか」
スプーンを握る手が止まる。
私は苦笑を浮かべ、軽く首を振った。
「馬鹿なことを言うな」
「いやいや、図星だろ」
パンをちぎりながら、彼は肩をすくめる。
「それにさ、あの方は新興貴族だ。
商家が成り上がって爵位を得た家柄。
宰相副官であるお前なら、むしろ悪い話じゃないと思うけどな」
気安い調子。
だがその言葉が胸の奥に突き刺さる。
私は視線を落とし、押し殺した声で返した。
「……いや。俺には、できない」
マティアスが眉を寄せ、真剣な眼差しを向けてくる。
「どうしてだ? お前がそう言うとはな」
私は言葉を探し、そして吐き出した。
「大切なものを作るのは……恐いんだ」
かつての夜の記憶が脳裏に蘇る。
一瞬で奪われた家族。
守りたくても守れなかった無力さ。
喪失の痛みは今なお消えず、胸の奥を冷たく締め付ける。
二度と同じ思いをするわけにはいかない――そう決めたはずだった。
それなのに。
昨日、涙を拭った彼女の姿。
そして今朝、バレッタを栗色の髪に挿した横顔。
その二つの光景が、どうしても心から離れない。
触れてはならぬものに、手を伸ばしてしまいそうになる。
その危うさを、自分自身が誰よりもよく分かっていた。
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