おっさんにミューズはないだろ!~中年塗師は英国青年に純恋を捧ぐ~

天岸 あおい

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四章 試練と不調と裸の付き合い

独りの危うさ

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「な、何を言い出すんだ、急に……っ」

「気のせいかなーと思ったんだが、近くで見ると顔がツヤッツヤだもんなあ。何か良いもん食べたか?」

 自分のことは鈍いくせに、なぜ人のことは細かい所まで気づくんだ……。
 俺は口端を引きつらせながらため息をつく。ライナスと寝るようになってから、確かに肌ツヤは良くなった。明らかにハリが違う。ずっと色恋に無縁な干物でいたのに、一気に水を与えられてプルッと生魚に戻ったような感覚だ。

 俺に自分の想いを浸透させるように、アイツは丁寧にじっくりと俺を抱く。恥ずかしいからさっさと進めてくれと訴えても、体に負担をかけたくないからと却下される。黙ってやれと言っても、言いたくなるのでムリです、と愛の言葉を散々聞かされ続ける。

 普段は俺の言うことを聞くのに、俺を抱く時はまったくだ。しかしそれが辛いかといえば……まあ、うん。嫌ではない。恥ずかしくて死にそうなだけだ。

 一瞬昨夜の情事を思い出し、俺の顔が熱くなる。慌てて顔を背けると、辻口は押し殺した笑いを漏らした。

「ククッ、そんな照れることはないだろ」

「べ、別に照れてなんか……っ」

「もしかして好きな人できたとか? 恋は人をキレイにするって言うし――はっ、まさか俺の良さに今ごろ気づいて惚れたとか?」

「馬鹿を言うな。お前は趣味じゃない」

「だよなあ。だって克己、人体より漆がいいもんなあ。自分の世界に深く付き合える子がいい――」

 笑いながら話していたが、途中で辻口がハッとなる。
 真顔になり、口元を手で押さえて考え込むように首を捻った後。辻口は真顔になって俺の肩に手を乗せた。

「押しかけ弟子が女房になったんだな。おめでとう」

「ち、違う、な、何を言い出すんだ!」

「女房じゃなくて旦那か。良かったなー」

 気づかれると面倒なヤツに気づかれてしまった。素直に認めるのが面白くなくて、俺は「勝手に想像していろ」と突き放す。

 にっこり、と。視界の脇で辻口がそりゃあもう嬉しそうな顔で笑った。

「これで雪の日に何かあって孤独死、なんてことは避けられそうだな」

「別に前のままでも問題は――」

「独りだと、色んなものが鈍くなるんだよ。その分、自分の興味のあるものに深くのめり込む……で、気づかぬ内にパッタリご臨終。前の克己なら、そんな未来になってたって想像しやすいだろ?」

 癪だが思わず俺の頭が勝手に想像してしまう。生活は最低限のことしかせず、不要な外出はせず、ただひたすら漆黒を求める――。

 以前なら漠然とした想像しかできず、薄い危機感しか覚えなかった。だが今は鮮明にその姿が脳裏に浮かび、ゾゾッと悪寒が走る。

「あ、ああ。そうだな。いつかやらかしてたかもしれない」

「今はどうだ? ライナスが悲しむ真似はしたくないだろ? 平和な大往生が見えてこないか?」

 言いたいことは分かるが、俺らが往生のことを話すのはまだ早いだろうが。
 まあ、辻口がどれだけ俺を心配していたのかは、よく分かった。込み上げるまま俺は口角を上げ、フッと笑う。

「ずっと不安がらせて悪かったな、辻口」

「分かればよろしい。じゃあそろそろ開館だから、俺はこれで。また後でな」

 手をヒラヒラと振りながら辻口が控室を出ていく。

 パタン、とドアが閉じた後、俺は細長く息を吐き出していく。あそこで独りでやっていくことが、どれだけ厳しいことか。独りをやめてようやく痛感した。

 おもむろに立ち上がり、俺は塗りの様子を見せる部屋への移動を始める。

 もうあの日々には戻りたくない。ずっと独りで寒さを堪え続けるあの頃には――。

 胸の奥が凍てつきそうになって、思わずライナスの顔を思い浮かべる。
 ……今はライナスの望みに集中しよう。後のことはまだ考える時期じゃない。俺は小首を振ってから控室を後にした。
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