白雪様とふたりぐらし

南條 綾

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第一章 雪の中で出会った温もり

1話 最後にした優しさ

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 高校受験の夏期講習が始まる前の、ほんの少しの隙間時間。夏休み中、家に帰るのも億劫で、なんとなく名古屋駅から高速バスに乗ってしまった。新穂高温泉方面行き。

 山が好きだったわけじゃない。ただ、家にいると家族の声がうるさくて、静かなところが欲しかっただけかもしれない。ここから見える絶景はすごいと聞いていたので気分転換にはいいかなって思った。

 ロープウェイを乗り継いで、西穂高口駅にしほたかぐちから少し下ったあたりの登山道を歩いていた。まだ緑が濃い季節で、木漏れ日が道にまだらな影を落としている。鳥の声が遠くで響いて、風が葉を揺らす音が心地よかった。

 そんなとき、やぶの奥から小さなうめき声が聞こえた。最初は風の音かと思った。でも、もう一度、弱々しく、でも確かに「クゥン……」という声。足を止めて耳を澄ます。間違いない。生き物の声だった。

 私は道を外れて、藪をかき分けた。枝が頰を引っ掻き、虫が顔の周りを飛ぶのも構わず奥へ進む。

 そこに、白い狐がいた。小さくて、まだ幼いような体。純白の毛が血で赤く染まっていて、右の後ろ足が金属の罠にがっちり挟まれていた。トラバサミだ。猟師が仕掛けたものだろう。

 狐は痛みで体を震わせながら、それでも必死に私を見上げてきた。赤い瞳が、濡れて光っている。

「かわいそう……」

 声が自然と漏れた。私は慌ててしゃがみ込み、罠に手を伸ばした。金属は冷たくて、錆びていて、血の匂いがした。狐は最初、私の手を怖がって歯をむき出したけど、すぐに力尽きたように動きを止めた。

「大丈夫だよ……動かないで」

 罠の仕組みを必死で探る。指が切れそうになりながら、レバーを探して、ようやく外れた。

 狐は解放されると同時に、ぐったりと雪のような白い体を横にした。出血がひどい。私は持っていたハンカチを丸めて傷口に押し当て、そっと抱き上げた。軽かった。温かくて、震えていた。

「病院、連れてくから……」

 誰に言ったのか、自分でもわからない。そのまま背負って下山した。道行くハイカーが不思議そうに見ていたけど、誰も声をかけてこなかった。

 近くの町まで下りて、動物病院を探した。幸い、獣医さんがすぐに診てくれた。

「珍しい白い狐だね。アルビノかな? 傷は深いけど、命に別状はないよ」

 治療費は数万円かかった。でも、私は迷わず貯めていたお小遣いを全部出した。親に内緒でバイトしていた分も含めて。

 狐は数日入院した。私は毎日、学校が終わるとバスに乗って見舞いに行った。最初は怯えていた狐も、だんだん私に慣れてくれた。

 最後に退院する日、獣医さんが「もう山に帰してあげなさい」と言った。

 私は狐を抱いて、再び山へ戻った。あの場所の近くで、そっと地面に下ろす。狐は少し足を引きずりながらも、私を振り返った。赤い瞳が、じっと私を見つめる。

「元気でね」

 私は手を振った。狐は一度だけ、小さく鼻を鳴らして、それから藪の中へ消えていった。

 あの瞳が、今でも時々夢に出てくる。痛みと、感謝と、何か言葉にできない感情が混じった瞳。それが、私が最後にできた、本当に「いいこと」だったのかもしれない。

 高校1年の夏の終わり、家族は帰省先から戻るドライブに出かけた。父が運転して、母が助手席。兄と妹が後部座席で騒いでいたらしい。私は夏期講習の補習があって、残った。

「綾、ちゃんと勉強しとけよー」

兄が窓から手を振っていた。

「アイス買って帰るからね!」

妹が笑っていた。

 私は手を振り返した。それが、最後に見た家族の笑顔だった。

 高速道路で、対向車線のトラックが居眠りして中央線をはみ出した。飲酒運転だったらしい。正面衝突。全員、即死。

 私は教室でそれを知った。夏期講習の数学の授業中、突然職員室に呼ばれた。担任の顔が真っ青だった。

「紫微さん……ちょっと来てくれるかな」

 廊下に出ると、警察と、見知らぬ親戚が立っていた。その後のことは、よく覚えていない。ただ、泣き叫んだことだけは覚えている。母の顔が見たい。父の声が聞きたい。兄のからかう声が、妹の甘えた声が。もう二度と、聞けない。

 葬儀が終わって、家に戻ると、静かすぎて怖かった。いつも誰かの声がしていた家が、棺おけみたいに静かだった。

 少し経って、保険金が下りた。生命保険と自動車保険、合わせてかなりの額になった。私はまだ十五歳だったから、弁護士が管理することになった。

 それから、私の地獄が始まった。遠い親戚が、次から次へとやってきた。

「綾ちゃんもこれから大変だろうから、ちょっと援助してあげたいんだけど……」

最初は優しい言葉だった。でも、すぐに本音が出てきた。

「お金、ちょっと貸してくれない?」

「大学進学の費用、大変でしょ? 私が預かっておいてあげる」

断ると、態度が変わった。

「恩知らずね」

「血のつながりなのに」

陰口が聞こえてきた。学校でも、噂が広がった。最初は同情だった。

「紫微さん、家族みんな亡くなったんだって……可哀想」

でも、保険金の話が出回ると、風向きが変わった。

「邪魔な家族が死んで、金持ちになったんだってさ。幸せだろ?」

 休み時間、仲が良かったはずの女子に、笑いながら言われた。私は何も言えなかった。ただ、胸が締め付けられるように痛かった。男子の一人が、廊下でニヤニヤしながら近づいてきた。

「お金目当てで付き合ってやるよ。どう?」

 冗談のつもりだったのかもしれない。でも、私はその場で吐きそうになった。誰も、私の本当の気持ちをわかってくれなかった。誰も、私がどれだけ泣いたか、どれだけ寂しかったか、知らない。ただ「お金持ちになった可哀想な子」というレッテルが貼られて、私はそれに縛られた。

 夜、布団の中で声を殺して泣いた。母さんに抱きしめてほしい。父さんに頭を撫でてほしい。兄にからかわれて、妹に甘えられて。そんな普通のことが、もう二度とできない。

 食事が喉を通らなくなった。夜も眠れなくなった。

 ある朝、起きて鏡を見た。髪が、一晩で真っ白になっていた。根元から、先まで、雪のように白く。ショックと悲しみが、体を内側から焼き尽くしたんだと思う。

 学校に行くと、みんながざわついた。

「不良になったの?」

「髪、染めたの?」

 担任に呼び出されて、職員室で怒鳴られた。

「親がいなくなって、そんな風になったのか?」

 地毛だと説明すると、先生は一瞬黙った。でも、すぐにまた怒鳴った。

「だったらなぜ黒く染めないんだ! 学校の風紀を乱す気か!」

 私はもう、何も言えなかった。ただ、涙がこぼれた。頑張った。本当に、必死で頑張った。生きてるから、生きなきゃいけないから。でも、心は少しずつ、確実に、壊れていった。

 そして高校一年生の一月一日——あの時のことを思い出した。あの狐の、小さくて温かかった体を。あの赤い瞳に宿っていた、かすかな信頼を。今の私との落差が、あまりにも大きすぎて、私の心は、完全に折れた。


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