一度でいいから、抱いてください!

瑞月

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憂鬱な転生【カノンの場合】

18.雨上がりの空 4

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 ――その時、風が吹いた。

 地上の重く湿った空気をざっと一掃するような、強い風。

「きゃっ……」

 咄嗟に、手元の楽譜を飛ばされないように抱きしめた。
 風がカノンの頬をすべり、眦に残っていた涙の最後の一粒をさらって消えていく。

「――すごい風だ、大丈夫かい?」城野院の声を、どこか遠くに響く音のように聞いた。そうして数瞬経って、目を開けたその時。

「……あ……!」

 ――世界、が……。

 そうしてまず目にはいったのは、空の蒼の鮮やかさ。
 キラキラと降り注ぐ光、それを歓ぶ昨日までの雨で葉を湿らせた木々の緑。
 吸い込んだ空気は芳しく、まつ毛にかかる涙の粒ですらそれらを彩るように輝いていた。

 カノンにとってそれは、それまで見ていた世界とは、まるで違うように感じて思わずその目を瞠った。
 長くいた光の届かない深い水の底から、ようやく水面に浮かび上がってきたかのように、見慣れた景色が色を変えて、キラキラと眩しかった。
 したいことをしていい、望みを持ってもいいと、そう言ってもらえただけで。
 それまでに感じたことのない、鮮やかさをもって、世界に迎え入れられたかのようだった。

 本来、誰に許可を必要とするものではないということは、十分わかっている。それでも、カノン自身が、それを自分に許したことがなかった。
 胸の奥底から、なにか温かい思いがこみ上げてくる。

「ふふ、そっかぁ……」

 自然と、笑みがこぼれた。

「……私、恥ずかしい話なんですけど、これまで全然何かを望むってしたことなかったんです。望む前に諦めてばっかりで……。こんな風にやり直しの機会が得られたのに、自分で自分を雁字搦めにして、やらなきゃを探してばかりいました。 したいことをしていいって、自分に許せずにいたんです」

「……ふぅん?」

「でもさっき先輩が言ってくれたこと、すごく、嬉しかったです。誰かに、そんな風に言ってもらえたこと、なかったんで」

 笑い方を思い出したかのように、カノンはまた微笑んだ。いつもと変わらないはずの空気が、甘く感じる。久方ぶりに呼吸の仕方を思い出したような気分だった。

 ――あぁ、城野院先輩は本当に綺麗なひとだなぁ……。

 城野院はカノンの鮮やかな世界の1人目の住人だった。そうして改めて見る城野院の姿は、あの日見た演奏をしている姿のように輝いて見える。
 眩しく感じて、城野院を見る目を細めた。

「……うーん」
「せんぱい?」
「君のそれは、性質が悪いね……。もしかして、これからそんな顔をどこででも振りまく気かな……?」
「え? そんなにひどい顔してます?」

 泣いてばかりだったから、それはひどい顔をしているということだろうか。そう思ったカノンは両手で顔を覆った。

「そういう意味じゃないんだけどね……。うーん……ねぇ、僕にも、君のしたいこと探しを手伝わせてくれないかい?」
「えぇ? そんなっ、申し訳ないです! 私なんかに――ッ」

 城野院の言葉に、覆っていた手を離すと、すぐ鼻先に城野院の顔があった。
 思わずカノンは真っ赤になって、身をのけぞった。すると、すぐ後ろにあったコンクリートの壁に頭を打ち付けそうになる。それを城野院の手が優しく受け止めた。

 ――顔が……!近い……ッ!!

 攻略対象と親密度を上げるというのはゲームのなかの行為だったので、ヒロインの仮面を被り、それ相応にふるまうことでなんとかできていた。
 城野院とのいまの状態は絶対ゲームのなかにはない展開な気がする。だってゲームは全年齢対象だったから。恋人エンドじゃなければ、キスもしない。
 城野院から立ち上る、触れたことのない類のオーラを感じて、後ずさった。
 背中に大輪の薔薇を背負っているかのような、ものすごい色気を感じた。

「おや? どうしたの? 僕のこと、ようやく意識してくれるようになった?」
「えぇ……?」
「ふふっ、それが君の素なのかい?可愛いね」
「か・かわ……っ!?」
「とって食いやしないよ?」

 つめられていた城野院との隙間が開けられて、慌ててもう少し後ずさった。ドキドキとする胸を押さえた。

 ――ん?あれ?なんでだろ?こんなこと言われるようなことしたっけ???
 そういって混乱するカノンには、城野院が「まだね」と呟いていたのは、耳には入らない。

「ねぇ、僕に教えてくれないかい? 君はどんなものが好き? 色は? 曲は? 食べ物は?」
「好きな、もの……?」
「君って子は……。人の好きなものには興味があったのに、自分のはわからないのかい?」

 呆れたようにそう言われて、カノンはしばし黙り込んだ。

 ――何かあったっけ……。好きなもの……、乙女ゲーム? でもこれは初めてプレイしたばかりだし、好きなものって言っていいのかな…、まして私いまヒロインだし。それで乙女ゲームが好き! って図々しくない?
 好きな色……、いつも無難な色しか着てなかったからな……、グレーとかベージュ? いや、好きな訳じゃないか。持っている服の色のなかで多いだけで。色、いろ……。
 食べ物は………、太るから控えてたけど、たまーに参加した部署の飲み会の後のラーメンは美味しかったなぁ…。帰ったら、お母さんが仁王立ちしてたっけ……。

 これといったものがまるで思いつかず、うんうんと口元に手を当てて考え込んでいると、城野院がカノンの左の胸元を指さして言った。

「それは? そのブローチ。いつも付けているよね? そういうのが好き?」
「――あぁ、これは特別なんです。父からのプレゼントで……。父は私が10歳の時に病気で亡くなったんですけど、16歳になったら渡してって母に言ってあったんですって。このブローチのおかげで、私は今音楽をすることができているんです」

 そういうとカノンは、ブローチをそっと撫でた。

「それの、おかげ?」
「そうなんです。……元々私のヴァイオリンは父に少し教えてもらっただけの独学ですし、とても人様に聞かせたものじゃないんですけど……。でも、このブローチをつけてヴァイオリンを弾くと、魔法にかかったように不思議と、上手に弾けるんです」

 ――実はこれ、魔法のブローチなんです。

 ついうっかりと秘密を話してしまいそうになった。城野院相手だと、話すぎてしまう気がする。

「そうなんだね……。ありがとう、教えてくれて」
「い、え……、なんだかすみません……」
「なんで謝るの?」
「え!? ……気を遣ってもらって、すみません?」
「ははっ」

 城野院はまたカノンの頭をふわりと撫でた。いつもそうしてくれるから、もうなんだかそういうものだというように、自然とその手に身を委ねる。

「えっと……、今度会う時までに、好きなもの考えておきます、ね。それでもいいですか……?」
「うん、楽しみにしているよ」

 その時、授業終了を告げる鐘の音が鳴った。「そろそろ行こうか?」立ち上がった城野院が、カノンを促すように、手を差し出した。
 その手を取りながら、カノンはこれまでにない胸の高鳴りを感じたような気がした。
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