上 下
38 / 64
憂鬱な転生【カノンの場合】

19.ドレスの色は

しおりを挟む
 帰宅する生徒たちもまばらな夕暮れ時、学園の自習室のなかに、トランペットとヴァイオリンの音色が流れていた。
 オレンジ色の陽の光に照らされて、絡み合い高めあうようにして流れる音色。曲の終わりを慎重に奏でると、カノンは一つ息を吐いた。

「――これならコンサート、大丈夫そうかな?」
「あぁ、問題ないんじゃね? でも、なんかこう、今日のお前の音って、これまでとはなんか雰囲気が変わったような……」
「え?」

 そう言われて、カノンは無意識に左胸に手を遣った。

 ――ブローチが……!

 そこに当然にあるはずのものがないことに、頭の天辺からざっと血の気が引くのを感じる。そうしてすぐに、さっき細工が髪に引っかかってしまって、一度外したのを思い出した。その際に仕舞い込んだはずの鞄に走り寄り、その所在を確認すると大きく息を吐いた。
 背中を伝う冷や汗を感じつつ、ブローチを手のうちに包み込むようにしてぎゅっと握りしめた。
「どうした?」突然のカノンの行動への時雨の気遣う声を背中越しに聞きながら、ブローチなしの演奏を時雨にしてしまったことに、心から申し訳ないと感じた。
 また一つ息を吐き、こちらを案じてくれている時雨に向き合うと、その緑色の瞳を見つめて軽く頭を下げた。

「……ごめんなさい。今、ちょっと調子が出てなくて、ひどい演奏をしちゃったみたい。――もう一回、やり直してもいい?」
「ひどい? そうか? そんな悪い感じじゃなかったけど。どっちかっていうと逆っていうか、……うーん。まぁお前がそう言うならいいけどよ」
「うん、ごめんね」

 ――この世界のヒロインではなかったとしても、ブローチの魔法の力はまだあるはず。

 ブローチなしで演奏してしまったことへの羞恥と後悔が胸を焼くのを感じながら、また改めてヴァイオリンを手に取った。


 ◇◇◇◇◇


 チャリティーコンサートの日がいよいよ来た。
 このコンサートは学園が主催で行い、そこで得た収益を地域の社会福祉法人に寄付することを目的としている。
 代々著名な音楽家を輩出している麗華音楽学園の生徒の演奏は好評で、そのOBやOGがコンサートのトリを飾ることもあって、今年のコンサートのチケットも全て売り切れたらしい。
 カノンにとっては初めての大舞台だ。

 ドキドキとした胸の鼓動を収めるように、星屑のブローチを大切にケースにしまった。
 普段は肌身離さないようにしているが、今日のドレスに、ブローチが引っかかってしまいそうで、演奏の直前につけることにしたのだ。
 忘れ物のないように、何度も持ち物のチェックを重ねる。
 そうして慌ただしくしていてなお、気が付くとあの日城野院が言ってくれた言葉をまた繰り返し脳裏に浮かべていることに気が付き、カノンは笑みをこぼした。
 あの日の城野院の言葉のひとつひとつは、以前に神崎彩音に出会ったときのように、知らず固まって冷えていた心に、温もりを灯してくれた。
 それはとても小さかったけれど、カノンがこれまでに持ったことのないあかりだった。
 自らを肯定してくれる言葉、ひとがいることがこんなにも心を温かくしてくれることだなんて、カノンはこれまで知ることはなかった。

 コンコン、と扉を叩く音が響いた。

「カノーン、準備できたの~? ――あぁ、やっぱりそのドレス素敵ねぇ! よく似合ってるわよぉ」
「……そうかな?」
「うんうん、すっごく素敵! さ、行きましょ。忘れ物しないようにね」
「はーい」

 そうして、部屋を後にしたカノンのドレスの色は、ふんわりとオーガンジーを幾重にも重ねた水色のものだった。
 今日のコンサートのドレスは、結局、瑠依が好きだと言っていた水色のものを選んだのだ。
 一緒に買いに行った母親に勧められたからということもあったけれど、これはカノンにとって一つの賭けだった。
 ゲームのなかの選択肢にはなかった色、そして本来であれば攻略対象瑠依が望む色ではない色。それをヒロインであるはずの自分が着ることで、その反応を確認することで、この世界はカノンの記憶のなかのゲームと同じように動く世界なのかどうなのか、それを知りたい。
 それを知ったその先に、城野院が言った『やりたいこと』がある、確信めいた予感を感じていた。


 会場で会った時雨は、カノンのドレスに「いーんじゃねぇの」とある意味予想通りの反応を示した。
 きっと時雨の好む色を着たところで同じ反応だっただろうな、とカノンは思う。でもそれは落胆ではなかった。

 ――そうだ、そういえばルイ先輩の彼女ってどんなひとなんだろう……?

 慌ただしい控室のなか、時雨と今日の打ち合わせを兼ねて話をしていた時に、ふと瑠依が『彼女』と言った存在が気になった。

 ――あの美しいひとが、メイン攻略対象が望むひとだなんて。

 そんなひと、この学園にいたかなと思い、控室をぐるりと見回したその時、一際目立つ一人の少女に目が留まった。
 彼女の周りだけ、生徒達も避けるようにして、空間ができ、そこに一人凛として佇んでいた。
 神崎彩音だ。
 赤い長い髪を結い上げて、赤いドレスを着ている。着る人を選ぶであろう、派手とも言えるデザインのドレスであったけれど、赤の薔薇のビーズの刺繍が彼女の纏う高貴な雰囲気によく合っていた。
 今日のコンサートのトップバッターは彼女だ。
 一瞬、彼女のもとに近寄って、以前の体育館のときの礼を言いたいと思ったけれど、コンクールのような公式なものではないといえ、演奏前の今の彼女に声をかけるのは躊躇われた。

 ーー本当に美しいひとだなぁ……。

 そうして見惚れるように、ぼんやりとその整った横顔を眺めていると、カノンの肩をポンと誰かに叩かれた。
 その手の覚えのある暖かさに、そしてふわりと香ったその香りに、振り返るまえに誰かがわかった。
 その存在を感じた瞬間、カノンはふわっと心が浮き立つのを感じた。

「――城野院先輩?」
「やぁ、こんにちは。緊張していない?」
「あ、は……ぃ」
「やぁ、田村君もこんにちは。君は緊張はしてなさそうだね?」
「うぃっす」

 ――かっこいい……!

 いつもの制服姿と違って、私服の城野院は思わず見惚れるほど格好良かった。今日は黒いスーツのジャケットに黒いスラックス、ジャケットのなかは白いシャツを着ている。長い髪は黒い艶やかなリボンで緩く束ねられ、片方の肩から胸元に垂らされていた。
 制服姿で見る時もそれはそれは美しいひとなのだけれど、今日はより一層際立っている。

 この間、あんなにも城野院の前で泣いてしまった。
 あの日、カノンに『したいことをするといい』と言ってくれて、それでもそんなことをしていいのかと問い返した時に『もちろんだよ』と背中を押してくれた。
 あの日から、カノンの中で城野院は否が応でも特別な存在になっていた。もう、城野院を忌避していたときのような気持ちはない。
 そう思うと、城野院は本当に格好良くて、誰よりも輝いて見えた。

「ん……? 顔が赤いね、やっぱり緊張してる……?」

 城野院はその手を、カノンの頬に寄せる。その手にまた頬の熱が上がるのを感じた。

「えぇえ、え、あの、大丈夫、です」
「……全然そうは見えないけれど? 大丈夫かい?」

 カノンは初めて感じたときめきに、周囲の目も気にせず舞い上がってしまっていた。
 城野院と時雨と共にいる自分がどれだけ目立っているかなんて、気が付かずに。
 その様子を、嫉妬というには陰湿すぎる視線で見ている女生徒がいることになんて、気が付かずに。
しおりを挟む

処理中です...