顔も知らない婚約者 海を越えて夫婦になる

永江寧々

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「行く前に立ち寄るとは珍しいな」
「予習しておきたいからな」

 朝から“ユズリハ邸”で過ごすハロルドは朝食を口に運ぶユズリハの前で教科書とノートを開いていた。
 学校でからかわれると苛立ちのせいで前のように授業が入らないため先に勉強していくことにした。もともとそうしていたのだが、今回は念入りに。

「どうしたらお前みたいに感情を乱さずにいられるんだ?」
「他人の言葉など気にするから腹が立つのじゃ」
「面と向かってブスと言われたら原立たないか?」
「何も思わぬ」
「なんでだ? 言い返すこともしないのか?」
「せぬ」

 本当に言い返さないのだろうと今なら信じられる。
 自分だって来たくて来たわけではないと怒鳴り返すこともできたのに、ユズリハがしたのは謝ることだけ。
 ハロルドがここでブスと言ったところでユズリハは気にしないだろう。
 それがわからない。

「相手を変えようなどと思うことはおこがましく、相手に変わってもらおうと願うことは無駄なのじゃ」
「じゃあ我慢するのか?」
「我慢ではない。相手がそういう人間であると認めるだけでよい」
「わからない」

 米を食べる箸を止めて顔に向けて円を描いてくる礼儀のなさに眉を寄せながら説明しろと促すハロルドに口の中の物を飲み込み、茶を飲んでから口を開いた。

「そなたがわらわにブスと言い放ったとする。わらわはそなたは相手にブスと言い放つ失礼な人間と思うまでのこと。そなたの美的感覚ではわらわはブスなのじゃろうが、万人がそう思うわけではないじゃろう。何についても同じこと。言われた直後に腹を立てるのはわかるが、たった一人の言葉で憤怒するなど無駄な時間と精神の使い方はしとうない。己の心と向き合えるのは己だけ。感情をどう操るかは己が次第じゃ」
「僕に怒らなかったのは時間の無駄だと思ったからか?」
「いや、それについてはそなたのは気持ちがわかるから受け止めただけのこと。まあ、文句の多い男とは思うておるが」
「文句……まあ、そうか……」
「故にそなたが文句を垂れ流そうとも、また文句言うておるぐらいにしか感じぬのじゃ」

 それが達観していると言わずしてなんと言うのか。
 十五歳にして他人に苛立たない方法を取得している人間と話していると自分がいかに小さい人間かよくわかる。
 ハロルドにとってユズリハは嫌悪する相手ではなく見習わなければならない相手なのだと実感する。

「じゃあ僕はお前のことでからかわれたらどうすればいいんだ?」
「やかましいぞ! このドアホめが!と言ってやれ」

 ダイゴロウの真似をしたユズリハの迫力に目を見開くハロルドを見てまた朝から大笑いする。

「驚いたか?」
「驚くに決まってるだろ!」
「はっはっはっはっはっはっ! 父上の真似をすれば誰でも驚く。我慢できぬときはそう言ってやれ。腹を立て続けるよりずっといい」

 頭ではわかっている。うるさいと言えば周りが黙ることも言わなくなるだろうことも。ヘインズ家の人間を怒らせてタダで済むと思っている貴族はいないだろう。だが、子供はそこまで考えつかない。ハロルド・ヘインズは優等生だから怒らない、と思っている者がほとんどなのだ。だからからかう。
 ハロルド自身、どこまで怒っていいのかわからない。ユズリハといると猫をかぶる必要がないから気が楽だ。でも、ユズリハを恋愛対象として見ているとか問われればノーと答える。
 目の前で大口を開けて笑う様にも嫌悪感はなくなった。我ながら単純だと思いつつも、まだ全てを受けれられているわけではなかった。

「僕は……怖いんだ」
「誰でもそうじゃ。人に嫌われることは怖い。一人になることが怖い。受け入れられぬことも怖い」
「お前でもか?」
「ああ。じゃが、他人を変えられぬ以上は考えたとて詮無きこと。自分にとって一番良い方法を模索する他あるまい」
「自分にとって一番良い方法……」

 それが見つかれば苦労はしない。
 まだ通い始めたばかりの学校であっという間に変わってしまった自分を取り巻く状況。
 まさか自分が笑い者になる日が来るとは想像したこともなかったのに、今は毎日笑い者として生きている。

「一つ、聞いてもよいか?」
「なんだ?」

 ユズリハから質問など珍しいとペンを止めて顔を上げた。

「そなた、夫婦となる証明の書類に署名したか?」
「祖父が持ってきた書類か? あれにはサインしたけど」
「……そうか」
「書けって言われたから書いたけど、なんか問題でもあったのか?」

 ウォルターの発言からハロルドの署名だとわかってはいたが、本人の口から聞きたくて聞いてしまった。
 ウォルターや使用人が文字を真似て書いたわけではなくハロルドが書いたもの。
 ユズリハの予想どおり、祖父に言われたから書いたというハロルドに首を振る。

「いや、父上があのような書類を用意していたこと、詫びようと思うてな」
「こっちでは珍しいことじゃない」
「そうか。ならよかった」

 笑顔だが、少し引っかかるものがあった。

「お前はサインしたのか?」
「ああ、もちろんじゃ。あの書面は父上に送った」
「じゃあ……僕たちはもう夫婦ってことか?」
「そなたがそのような言い方をするとはな。どういう心変りじゃ?」

 調子の良いやつと思われても仕方がない。だが、ユズリハの寛大さに自分がちっぽけに思え、見習わなければと思った途端に嫌悪が消えた。
 どのみち結婚は避けられない。それなら夫婦であることを受け入れたほうが自分の気持ち的にも楽なのではないかと思ったのだ。

「お前に当たってばかりで悪かったなって……。僕はこれから変わっていく。幼稚だと言われないように、お前にできる限りの誠意を見せるつもりだ。だからお前も僕に──」
「無理はせんでよい」
「無理はしてない」
「わらわは何も望んではおらぬ。そなたが此処で暮らすことも、わらわの夫として生きることも、そなたが我慢をしたり気遣和なければと思うことも何も望んではおらぬのじゃ」
「僕の気持ちを無視するな!」
「わらわに期待はしてくれるな」

 突き放すように言われた言葉がハロルドの胸に突き刺さる。

「なんだよそれ……。別に何も期待なんかしてない。お前に期待することなんて何もない。僕はただ、お前をちゃんと受け入れようと……」
「アーリーンを諦めてか?」
「それは……」

 真っ直ぐ見つめられると緊張する。まるで重要な問題の解答を迫られているような気分になる。
 アーリーンはからかうことはしない。いつも気まずそうに見てくるだけで微笑みかけてくれることもある。まだ諦める必要はない。
 だが、今は少し状況が違っている。ユズリハとこの家で過ごす時間に嫌悪感がなく、むしろ自室にいるより気が楽なのだ。
 此処にいれば祖父が訪ねてきたとしても緊張することはない。
 その環境が心地良くて、悪くないと思えている今、ハロルドはユズリハを妻として受け入れようと考えていた。自分が望んでそうするということは、アーリーンにそれを事実として伝えなければならないということ。
 アーリーンに愛人として傍にいてほしいと言うか、それともアーリーンを諦めるか。
 愛人を本命として傍に置けばいいとユズリハは言った。ハロルドも先日までそうするつもりだった。しかし、今は少しその気持ちが薄れているだけにどうすべきかわからなくなっている。
 
「なんてな。冗談じゃ。そなたにそんなことを迫ろうなどと思うてはおらぬ。そなたの人生、そなたの好きにすればよい」

 パッと笑顔に変わっていつもどおりの雰囲気を纏うユズリハを数秒見つめたあと、教科書をまとめて鞄の中に入れて立ち上がる。

「学校に行く」
「気をつけてな」

 想像の中では何度も繰り返した光景。
 仕事に行くと言っては妻が笑顔で見送ってくれる。
 だがそれはユズリハではなくアーリーンで、もっと夫婦らしい見送りだった。
 ユズリハにそこまで望むことはしないが、ハロルドは妙な寂しさを覚えていた。一線引かれているような、その線の先に踏み込もうとすると先手を打たれる……そんな感覚。
 出会った日からずっと嫌悪を滲ませて邪険にしていたのは自分だ。ハッキリと言い続けてきたのも自分。今更なんだと思われても仕方のないことをしてきたのも事実。
 ユズリハの対応は何もおかしなことではない。それも受け入れなければならないことだとわかっていても、あの笑顔の裏で何を考えているのだろうと気になってしまう。
 
「なあ」

 玄関先で振り向くと箸を持ったままのユズリハが立っていた。
 その姿を見ると笑ってしまう。

「どうした?」

 なぜ笑っているんだと不思議そうな顔をするユズリハにハロルドは肩を揺らしながら首を振る。

「箸持ったまま見送りなんかするなよ。マナー違反だぞ」
「此処はわらわの敷地内。マナー違反はない」
「父親の前でも同じことが言えるのか?」
「……言うでないぞ」

 気まずそうに呟くユズリハに声を上げて笑うとそのまま手を振って馬車が待つ門へと向かった。

「あの調子の良さには呆れるねぇ」
「人は考えを改めるもの。下心があれば否定もいいが、心から変化を誓う相手のそれを否定してはならぬ」
「俺はあの坊ちゃんは認められんがね。お前さんの対応に甘えるつもり満々だぞ」
「よいではないか。ウォルター・ヘインズが君臨する家で育ったのじゃ。気を抜く場所があったっていい」
「そのうちまたお前さんを罵倒してアーリーンを連呼するぞ」
「どうなるかわからぬ先のことなど考えても仕方あるまい。わらわはそなたのように千里眼持ちではないのでな」

 手に持った箸をカチカチと鳴らしながら席へと戻って食事を再開するユズリハにとってハロルドがこの家にいる感覚は落ち着くようで落ち着かない、また逆も然りで、相手が渋々ではなく望んで来ているのであればと考えないわけではない。
 だが、多くを期待してはいけない。それがユズリハの頭を占めていた。
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