顔も知らない婚約者 海を越えて夫婦になる

永江寧々

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気持ち

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 ユズリハたちの想像どおり、家に帰ったハロルドは祖父と対面していた。

「ッ!!」

 怒られるのではなく殴られた。初めて受ける他者からの暴力。殴られた衝撃、痛み、熱、そして強くなる痛みを順番に感じながら頬を押さえていると祖父はただ静かに「謝ってこい」と言うだけだった。
 睨まれたわけではない。ハロルドは祖父を見なかったし、祖父も孫を見ようとはせず背中を向けていた。
 すぐには行かず、落ちた鞄を拾い上げたハロルドはそのまま部屋に戻っていく。足音が向かう方向が玄関ではないと気付いたが、ウォルターは追いかけて引きずってまで向かわせようとはしなかった。
 自分たちが勝手に決めてしまった婚約を嫌がらないほうがおかしい。
 ハロルドは物分かりの良い子供だが、一番大事な部分を勝手に決められて争わない子供でもない。いつも内心で舌を出していることには気付いている。それに気付かないふりをすることでウォルターも自分の望みをハロルドに押し付けたのだ。

「なんで僕が謝らないといけないんだよ!!」

 部屋に帰ってもう一度床に鞄を叩きつけると金具がズレて中から教科書が飛び出した。
 今日は授業内容が全く頭に入ってこなかった。教師に当てられたことさえ気付かないほど混乱していた。
 何度かアーリーンと目が合ったが、何も言ってはこなかった。
 嫌われてしまっただろうかとその場にしゃがみ込むハロルドが大きな溜息を吐き出す。
 自分が認めていないとしても婚約者がいる立場に変わりはない。ましてや祖父が決めたことであればそれはもはや決定事項も同然。それをわかっていながら自分に近付いてきたのかと軽蔑でもされたら、と思うと絶望に落ちた気分だった。

「痛い……」

 兄から叩かれることはあっても殴られることはなかった。頭ではなく頬。本気で怒っているのだとわかった。威圧的ではなく、怒鳴り散らすでも引きずっていくわけでもない祖父の静かな怒り。それを見るのも初めてだった。
 失望されただろう。今まで良い顔を崩すことはなかったのに、あれが聞こえていたのだとしたら今まで演技していたことも全てバレたということ。
 学校中に和女が婚約者であることがバレ、祖父にも本性と本音がバレた。

「あはは! やっぱり詰んでるじゃないか!」

 人生設計がめちゃくちゃになったことに笑いさえ込み上げる。
 婚約破棄を申し出てくれさえすれば全てから解放されるのにそうしようとしないユズリハにやはり腹が立つ。
 ユズリハが婚約破棄と言い出せば自分は教室の真ん中で「婚約はなかったことになった! 彼女は和の国に帰るし、僕は自分で婚約者を探す!」と胸を張れるのに、ユズリハのせいでそれもできず明日も笑い者になる。
 
「帰ってくれないかな……」

 心からの願いを呟くと同時にシキの言葉を思い出して悔しくなる。言われていることが事実なだけに自分が返した言葉が言い訳でしかなかったことはわかっている。
 立ち上がって制服もそのままにベッドに寝転ぶ。
 生まれて初めて感じた屈辱と恥。今まで自分にとっての恥は兄だけだと思っていたが、実際は子供である自分自身。
 クラスの連中もしどろもどろな状態で話していた自分の言葉など信じてはいないだろう。アーリーンさえも。

「夜の帷……」

 人をからかってのんきに笑うユズリハの顔を思い出してはこれから暗くなっていく窓の外を見て呟いた。
 ハロルドはその日、祖父が何も言いに来ないのを理由に謝りに行かなかった。



 翌日、ハロルドは“ユズリハ邸”を訪問したが、玄関ではなく庭にいた。
 昨日、勢いで入っていった玄関ではなく庭から入ることで中の様子を伺うことにしたのだ。
 池の側にしゃがんで魚に餌をやっているユズリハがいた。
 声をかけるべきか。いや、どんな顔して話せばいいのか。
 昨日は一睡もできないまま学校へ行き、結局今日も笑い者になって帰ってきた。擁護してくれる者もいたが、やはり残るのはからかわれたこと。それでも覚悟していたからか、ユズリハのせいだとは思わなかった。
 一晩寝ずに考えたおかげか、謝ろうと決めて学校帰りにそのまま来たのだが、姿を見ているだけで声をかける勇気が出ない。
 今すぐでなくとも、と帰ろうとしたハロルドの頭上から声がした。

「覗き見とは崇高な趣味をお持ちで」

 慌てて上を見ると屋根の上に座っているシキがいた。

「の、覗きなんてしてない!」
「さっきからそこで声もかけずにお嬢を見てるのは覗きって言うんだがね」
「ち、違う! 魚に餌をやってるから邪魔したくなかっただけだ!」
「そりゃお優しいことで。お嬢、お客さんだぜ」
「あ、おいっ、勝手に……!」

 相変わらず人を馬鹿にしたような言い方をするシキにムッとするもユズリハを呼ばれると慌てて姿勢を正す。
 振り返ったユズリハが客の姿を確認すると餌が入っている缶の蓋を閉めて寄ってくる。思わず息を吐いてしまうほど緊張しているハロルドが片手を上げようとするより先にユズリハが片手を上げた。

「おお、客とはそなたか。どうした?」

 いつもどおりの笑顔といつもどおりの声色。
 昨日のことなどまるでなかったかのようにユズリハの調子はいつも通りだった。

「あ、えっと、その……き、昨日のことを……謝りに来た。……悪かった」
「うむ、許す」
「え?」

 あまりにもあっけらかんとしているユズリハに目を瞬かせるハロルドは「上がるか?」との問いかけに頷いて中へと入る。
 もはや自分専用と化している位置に座るといつもの向かいの位置にユズリハも腰掛けた。
 これもいつもどおりの光景。

「シキ、コンペイトウ出してくりゃれ。食べさせたい」
「こないだ全部食ったろー」
「あれで全部か!?」
「毎日あれだけ貪り食ってりゃなくなるっての」
「父上に送ってくれと頼んでおかねば」

 なぜ普通にできるんだとユズリハの考えがわからず呆然としているハロルドに首を傾げる。

「どうした?」
「お前はさっき、許すって言ったけど……」

 自分だったら絶対に許せない。頭を下げて謝らせて、それから誠心誠意態度で示してもらうだろう。なのにユズリハは言葉だけでの謝罪で許した。
 許されたことを安堵して喜ぶところなのにハロルドは戸惑っている。

「なぜ簡単に許すのか、か?」

 読まれていた。

「怒る理由がないからじゃ」
「いや、あるだろ。僕が一方的に怒ったんだぞ」
「シキがそなたに言い返した」
「お前が言ったわけじゃないだろ」
「わらわの代わりに怒ってくれたのじゃ。わらわが追加で怒る必要はない。それにわらわは感情を引きずることも持ち越すことも苦手でな。三歩歩けば忘れてしまう。だからそなたも気にするな。そなたの気持ちはわかっておるよ」

 明るい笑顔を見せてくれるユズリハにハロルドは急に自分が情けなくなった。ユズリハに会ってから幼稚な自分を恥だと思うことが増えた。いつも冷静で声を荒げることはせず、声を大にするのは笑うときだけ。
 控えめとは言い難い性格でも自分の感情よりも相手の感情を優先的に考えられる性格。
 シキにクソガキと呼ばれても仕方ない。ユズリハと比べれば自分は幼稚でプライドだけが高い人間だと思い知らされる。
 だからハロルドはその場でテーブルに額がつきそうなほど深く頭を下げた。

「やめぬか。男が簡単に頭を下げるでない」
「これは頭を下げなければならないことだ」

 そう言うとユズリハは無理矢理頭を上げさせようとはしなかった。

「お前に怒ったけど、本当は俺が怒らなきゃいけない相手は祖父なんだ。勝手に婚約を取り付けて、それをずっと黙ってた祖父が悪いんだ。お前にしたのはただの八つ当たりだった。ごめん」
「もうよい。それほど気にしておらぬ」
「あんな言い方するべきじゃなかった。お前が悪いわけじゃないのに、お前だって親のために嫁いできただけなのに、婚約者の僕にまであんなこと言われたら……」

 立場を考えなければならないのは自分のほうだった。相手の立場を考えて気遣ってやらなければならなかったのに、それどころか責めてしまった。強い言葉と強い口調で。
 ハロルドからすればウォルターはユズリハの味方だが、結婚を勝手に決めてしまったことを考えれば本当の味方はシキだけなのだろう。婚約者である自分もきっと敵で、だから気にしていないと言うのだ。

「わらわのほうこそ、恥をかかせてすまぬな」

 恥だなんて思ってないと言える男ならどんなによかっただろう。外面だけは良い自信があった。学校でも猫をかぶっている。
 だから「恥なんて思ってない」と笑顔を見せることもできるはずなのに、今更取り繕うこともできないほど酷い言葉をかけてしまった。
 
「そなたが強く望むのであればウォルターに話をしよう。やはりこちらの生活が性に合わぬと言えばウォルターも無理強いはせぬじゃろう」

 昨日までそう強く望んでいた。帰ればいい。帰ってくれと。だが、本人の口から言われるとイエスと答えられなかった。
 祖父に怒られるのではないかと恐れているのではない。本当に帰らせていいのかと自分の中で葛藤があった。かと言ってあれだけのことを言っておきながら婚約者のままでいてくれと言うのもおかしな話だと頭の中でまとまらない考えにハロルド自身困惑している。

「帰りたいか?」

 ズルい問いかけ。

「わらわは此処が好きじゃ。ウォルターが年月を費やして再現してくれた実家の庭。和の国とは違う風の匂い。実家よりも静かで、此処にいると落ち着く」

 外の木を見つめながら微笑むユズリハにハロルドは帰れなどと口が裂けても言えなかった。
 凹凸のない顔はお世辞にも美人だとは言えないが、クラスの連中が馬鹿にするようなブスだと思ったこともない。

「キレイだ……」

 気がついたら口からこぼれていた。なぜ今、そんなことを思ったのかもわからない。
 ただ、庭を愛でるその微笑みがとても美しいと思った。

「いつかアーリーンとやらにも見せてやれ」
「え? あ、そ、そうだな! ああ、うん、そうだな! そうしよう!」
「そなたが気に入ってくれて嬉しい」
「あ、うん。気に入った。キレイな庭だからな」
 
 気付かれていなかったことに安堵して何度も頷きを繰り返すハロルドは誰が見ても不審ではあるが、ユズリハはその様子に笑うだけ。

「じゃあ、また」
「うむ、いつでも参れ。夜の帷が下りる頃でもよいぞ」

 ニヒヒと笑う顔はまだ幼くてハロルドは初めてその笑顔を直視したような気がしていた。
 今までも笑っていたはずなのに、怒ってばかりでちゃんと見ていなかったのだと。

「夜這いじゃないからな」
「はて、わらわは何も言うておらぬぞ」
「性悪め」

 笑顔で見送ってくれるユズリハに軽く手を振って帰るハロルドの前にまたどこから現れたのか、シキが姿を見せた。

「それやめてくれ、心臓に悪い」
「そりゃ悪かった。言っておきたいことがあったのを思い出してな」

 良いことではないとわかるハロルドが緊張と共に姿勢を正す。

「ユズリハに優しくしなくていい」

 ハッキリと告げられた言葉に一瞬、動きが止まった。

「好意も持たなくていい。その代わり、ガキの癇癪で傷つけてくれるな」
「それは悪いと思って──……」
「悪いと思わなくてもいい。お前さんのその幼稚な感情をユズリハにぶつけるのはやめろ。アイツはお前に傷つけられるために此処に来たわけじゃねぇ。此処にお前を追いかけて来たわけでもねぇ。この国で一番恥をかいてんのは自分だと思うな」

 わかっている。だから恥ずかしくなった。言い返すことができないほどの正論をぶつけられたハロルドは逃げ出すようにシキの前から走り去った。
 和女が婚約者だと知られて、からかわれて、勝手に恥ずかしくなって、苛立って──……
 でも自分には言い訳できる要素が山のようにある。この国で一番恥をかいているのは和女であるというだけで差別を受けるユズリハだ。
 何もしていないのに和女というだけで嫌がられ、見下され、笑われる。きっと外に出れば歩いているだけで指をさされて笑われるのだろう。嫌悪感を滲ませた顔を向けられるかもしれない。差別的な店主の店に行けば品物を売ってもらえないかもしれない。

『この国で一番恥をかいてんのは自分だと思うな』

 少し強めの口調でそう言ったシキの声色には怒りが込められていた。
 自分はまだ許していない。その意思が明確に伝わってくるものだった。
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