顔も知らない婚約者 海を越えて夫婦になる

永江寧々

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運命の赤い糸

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「お前様……」
「うん?」
「何が起こったのか説明してもらってもよいか?」

 家に帰ったユズリハは出迎えに行くときと比べると嘘のようにぐったりしている。
 座布団を枕に横になったまま何が起こったのかわからないとずっと同じ言葉を呟き続けていた。
 帰りの馬車の中でずっと説明し続けたが、それでもまだ理解できないらしく、壊れたレコードのように同じ言葉を繰り返す。

「お前の兄上に聞いたほうが早いだろ」

 それもそうかと納得したユズリハはいつもは解放している家中の窓や障子や雨戸を閉め切ってから足音大きくリンタロウに近付いて思いきり突き飛ばすように胸を押した。それぐらいでリンタロウがよろめくことはなく、ユズリハを見下ろす。

「何を考えておるのじゃ!!」

 いつもは外に響く怒声も今日は家の中でだけ響く。

「自分が何をしたかわかっておるのか!?」
「わかってるさ」

 あっけらかんと答えるリンタロウに異形でも見るような目を向けるユズリハはひどい顔をしている。

「大衆の前で堂々と人の妻とキスをしたことに罪の意識はないのか!?」
「悪いことをしたって自覚はあるさ。でも衝動的だったんだ」
「大人であるそなたが子供のような言い訳をして通用すると思うておるのか! 誰がそのような言葉で納得するのか! 衝動的だった? 悪かったと自覚はある? 馬鹿も休み休み言え! いや、言うな!」
「どっちだよ」
「馬鹿げたことは口にしてくれるな!! 行動もするな!!」

 ハロルドから聞くにクリフォードは世渡りこそ上手いものの大した人間性は持ち合わせていない。成績も周りにあれこれ言われない程度にやってきただけで中身のない男だと。ルーシィも夫にベタ惚れというわけではないことから考えると夫婦仲が良いと言うわけではないのだろうが、だからといってヨソの男とキスが許されるわけではない。
 帰宅して早々に夫から呼び出しを受けたルーシィはこっちには来ず、ヘインズ邸に入っていった。
 何を考えているのかわからないのはルーシィも同じ。なぜ夫がいながらキスをしたのか。

「悪かったって」

 激昂している妹に苦笑しながら頬を掻く兄の姿に目を閉じて溜息をつく。両手で額を押さえたことで浮き上がる前髪が揺れる。
 ユズリハの怒声がなくなると静かになる部屋の中でハロルドが口を開いた。

「人妻だってわかっててキスしたのはなぜですか? キスしたのは義姉さんからですが……」
「しょうど──」
「それ以外で」

 断れば恥をかかせると思ったからだろうかと考えれば納得できないわけではないが、そんな理由で納得したくない。二人は未成年ではなく大人。理性を持った人間で、ルーシィに至っては人の妻だ。
 知り合いが見ているかもしれない状況の中で夫以外にキスをした。それも触れるだけのキスではなく、言い訳できないほど長いキスだった。
 ハロルドはあの瞬間に聞こえた鐘の音も気になっていた。あの二人が見つめ合った瞬間、聞こえるはずのない鐘の音が聞こえたのだ。まるで二人の出会いが運命だったかのように。祝されているかのように。
 兄とルーシィは顔合わせ時に意気投合したといえど政略結婚。結婚してからクリフォードの本性がわかってルーシィが愛想を尽かした事実があってもハロルドは驚きもしない。クリフォード・ヘインズはどうしようもない男だと知っているから。
 だからこの二人が運命の赤い糸で結ばれていてもおかしくはないと思うが、今の問題点はそこではない。
 重々しい空気が自分のせいであることはわかっているため沈黙はせず、乱暴に頭を掻いて口を開いた。

「運命って言葉は馬鹿馬鹿しいと思っていたが、それを感じちまったんだよ」

 ユズリハが目を見開く。

「兄上が……運命などと口にする日が来ようとは……」

 大袈裟すぎる妹の驚き方に苦笑する。

「明日は雨の代わりに槍が降るぞ」

 茶化しているわけではなく心の底からそう思っていた。
 運命という言葉を誰かが口にするたびに、小説の言葉でさえ嘲笑していた兄が自ら『運命を感じた』と口にしたのだ。驚かないはずがない。
 だが、それと同時に少し怖くもあった。兄とルーシィが本当に運命だったのなら、ルーシィの結婚はどうなるのか、兄のこの想いはどうなるのかと。
 自分とハロルドは惹かれ合った。ハロルドには想い人はいたが、それだけ。だから惹かれ合う過程に問題はなかった。しかし、二人は違う。ルーシィは既婚者だ。

「ルーシィを呼んできてくれるか?」
「わかりました」

 ウォルターの言葉で立ち上がったハロルドがまだやって来ないルーシィを呼びに駆け足で向かった。
 兄の部屋の前に立つと怒声が聞こえるも怒り心頭のせいか早口で何を言っているのか聞こえない。中から聞こえるのは兄の声だけでルーシィの声はなかった。一人で叫んでいるのだろうかと可能性としてはありえることを考えながらノックをして中に入れば兄の怒声が飛んでくるも「お祖父様が義姉さんを呼んでる」と言うと「クソッ!!」と声を張るも行かせない選択肢は取らなかった。
 ルーシィもさすがにまずいことをしてしまった自覚はあるのか“ユズリハ邸”に向かう道中、いつもの軽口をたたくことはしなかった。

「お待たせしました」

 部屋に入ると空気が重々しく雰囲気は暗い。

「座れ」

 ウォルターの指示に頷いて座布団の上に腰掛けるとウォルターではなくユズリハが口を開いた。

「どういうつもりじゃ?」

 聞かれると思っていたからか、ルーシィはすぐに答えを口にする。

「運命を感じたの」

 互いに運命を感じたのであればそれはきっと間違いないのだろう。だが、ユズリハはそれをすぐには受け入れなかった。

「そう思った理由は?」

 胸に手を当てて微笑むルーシィが「心がそう感じたの」と答える。その表情はあまりにも穏やかで優しいものだった。
 ルーシィが独身であればユズリハも歓喜の声をあげて喜んだだろう。しかし、状況が状況だけに喜び一つ浮かび上がってはこない。

「義姉さんには兄さんがいるだろ」
「んー……やっぱり海に沈めるしかないみたい」

 いつもの軽口にハロルドが眉を寄せる。

「ごめんなさい。こんなときに言うことじゃなかった」

 冗談ではなかったとは言わないルーシィの中にクリフォードを沈める計画は存在しているのではないかと勘繰ってしまう。殺意を抱くほど嫌っているのではないかと。

「離婚、かな」

 そうできればいい。それが一番正しいことだが──

「簡単なことではないぞ」

 ウォルターの言葉にハロルドも頷く。
 それはルーシィもわかっている。

「でも、このままじゃいられないから……」

 ルーシィがリンタロウを見るとリンタロウもずっとルーシィを見ていたのか、目が合うと二人は揃って頷いた。
 運命を感じた相手が海を超えた場所にいた。来なければ一生会えなかった相手だ。許せばきっと二人は今すぐにでも手を取り合ってどこかへ消えてしまうのではないかと思うほど熱く視線を絡めている。

「見つめ合っとるとこ悪いが、誰もまだ認めるとは言うておらぬぞ。……父上はどう思うておるのじゃ?」

 いつも大声で何かしらの発言をする男が一言も発さず黙って胡座を掻いているのは少し不気味だった。
 妹である自分が言うより父親の言葉が必要だと意見を求めると腕を組んだまま一点を見つめていた顔を上げてユズリハを見る。

「俺か? 俺は……」

 ダイゴロウの顔がユズリハからリンタロウへと向けられ、それに合わせてリンタロウも父親へと顔を向けた。バチっと目が合った瞬間、リンタロウの身体が吹き飛んだ。
 閉めていた障子を倒して縁側に滑り、雨戸にぶつかる。雨戸がガラスでできているため大きな身体が勢いでぶつかると嫌な音がした。
 驚いたのはヘインズ家の人間だけで、殴られたリンタロウもそれを見ていたユズリハもダイゴロウならそうするとわかっていたのか驚きはしなかった。
 倒れた身体をゆっくりと起こし、殴られたことで切れた唇から流れる血を袖で押さえて止血する。運悪く、父親の指に存在している大きな宝石のついた指輪が当たったせいで深く切れてしまい、吸えど吸えど止まらない。
 ユズリハがシキに目配せをすると懐かしい光景だと呆れながら救急箱を取りに行った。

「恋愛さえ面倒だと言い、結婚する気は微塵もないと言い続けていたお前が運命の相手を見つけたのは親としてこの上なく嬉しい出来事だが、順番が違うだろう」

 父親の静かな声にリンタロウは視線を下に向けて頷く。
 わかっている。衝動的なんて言葉で済ませてはならないこと。運命の相手だから、で済ませてはならないこと。

「ユズリハの言うとおり、子供じゃないんだ。運命の相手だからと許されることは何ひとつないんだ」
「悪い……」
「お嬢さんもだ」

 ダイゴロウの言葉はルーシィにも向けられ、ルーシィは素直に頭を下げ「ごめんなさい」と謝った。

「お前たちが理性を忘れて感情のままに動いたことが彼女の夫にバレたらどうする。離婚すればいい、では済まんのだぞ。ユズリハの兄がハロルドの兄嫁に手を出したとなれば、火の粉はユズリハとハロルドに降りかかる」

 衝動的すぎてそこまで考え至らなかった二人はハッとして顔を上げる。
 リンタロウは和の国に帰る。ルーシィも離婚すればヘインズ家との関わりはなくなる。だが、ユズリハとハロルドは違う。まだ学生であるハロルドが家を出ることはできないし、妻であるユズリハもそう。ウォルターが建ててくれたこの家から出ていくつもりがない二人が標的になるのは考えずともわかることだ。
 和の国の大きな船がまたやってきたことで近くにいた者たちが集まっていた。その中にルーシィの知り合いがいたかもしれない。クリフォードの知り合いがいたかもしれない。そんなことも考えず、二人は心惹かれるままに抱き合ってキスをした。

「今はウォルターが守ってくれているが、それは未来永劫続くわけじゃあない」
「そうだな」

 ウォルターが答えることで今の平穏がこれからもずっと続く保証がないことにハロルドは少し怖くなった。

「運命の相手だと感じたのなら、尚更、理性的に行動すべきだった」

 怒りと呆れを混ぜた声色と表情にもう一度頭を下げるリンタロウを見てルーシィも一緒に頭を下げた。

「ユズリハ、ハロルド、本当にごめんなさい。もし、あの人にバレても私が絶対になんとかするから。信じて」

 頭を下げたままギュッと目を閉じたルーシィの耳に届いたのはウォルターの声。

「信じてもらえるのはその言葉をお前が現実にしてからだ」

 ユズリハもハロルドも同情はするが、今回のことで甘く接しようとは思えなかった。
 何か声をかけるべきなのだろうが、かける言葉が何も見つからない。ウォルターの言葉に頷きもせず、二人はただ黙っていた。

「帰国のときまで二人は接触するな」

 二人は顔を上げて驚いた顔をするも「運命なんだろ?」と問うウォルターの優しい声に数秒固まってから頷いた。
 立ち上がったルーシィはリンタロウに笑顔を向けて手を振り「またね」と言い、全員に深く頭を下げてからヘインズ邸へと帰っていく。
 再び静かになる家。
 どうすることが正しかったのだろうとユズリハを見たハロルドは静かに首を振られたことで余計な口は開かないことに決めた。
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