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夜
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ラフナディールの夜は冷える。寒さが苦手な人間は身を震わせるだろう。
穏やかな気候の中で生まれ育ったアストリッドも得意ではないが、この冷たさは嫌いではなかった。
「あったかい」
上質な素材で出来ているというのも納得なほど暖かく、吐き出す息が白い空気の中でも震えるほど体温は下がっていない。
「ありがたい……」
命を救ってもらったことも、ラフナディールに連れてきてもらったことも、こうして気にかけてくれたことも全て。
自分が交流していたわけではなく、絆を紡いでいたのは夫なのに──義理堅い人だと、彼の言動一つ一つに感謝が込み上げる。
「溶けていくみたい……」
吐き出す白い息は流れるというよりは消えていく。
年中涼しいエルヴァングや風の谷では起こることがない現象だ。
満天の星空を見上げながら指を伸ばし、一番大きな星を指す。
『寒いところに行けば、ここよりもっとキレイな星空が見えるんだよ』
『寒いってどのぐらい?』
『凍えるほど』
『凍えるほど寒い所に行って星を見るの? 凍えながら星を見る意味ってあるのかしら?』
『ロマンだよ』
『凍えるのに?』
『抱き合って、互いに熱を分け合いながら星を見るのもまた一興だよ』
『ふふっ、あなたってばそればかりね』
『ダメかい?』
『いいえ』
少年のような笑顔で話すフィルングとの時間が好きだった。
男のロマンと女のロマンは全然違うという話を何度しただろう。どれもくだらない内容だった。どうでもいいような、他愛のない話。
「どれがどの星かなんて……わからないわ……」
星を語るのはフィルングの役目だった。アストリッドは話を聞くよりも語るフィルングを見つめてばかりいたから詳細には覚えていない。
「あの星は確か──」
「エフェルナ」
聞こえた声に振り返るとザファルが立っていた。
「ザファル皇帝陛下」
仰々しく頭を下げるアストリッドを見つめながら隣に立つと視線はストールに落ちる。
「寒くはないか?」
「おかげさまで」
「それはよかった」
誰かと会話をしていても思い出すのは最愛の人との何気ない会話。
夜、庭を散歩しているときに必ず交わす会話があった。
『寒くはないかい?』
『ええ』
『よかった。君が風邪をひくと一緒に寝られないからね。枕が濡れて大変なことになってしまう』
『身体中の水分がなくなって痩せるんじゃない?』
『おや、私のこの身体を気に入ってくれていると思っていたのに』
『ええ、気に入ってるわ。それ目当てで結婚したんだもの』
『奇遇だね。私もだよ』
最低だと怒って見せるもすぐに笑ってしまい、フィルングの腕の中で額を合わせるのがいつものやり取り。
もう二度と交わせないのだと思うと苦しくて仕方ない。
「星を見ていたのか?」
「……とてもキレイだったので」
「……フィルングは星が好きだったな」
驚いた顔でザファルを見ると空を見上げていた。
「ご存知でしたか」
「妻が感動して涙するほど美しい星空を見せてやりたいと手紙に書いていたときがあった」
「そんなことばかり書いていたのでしょうね……すみません」
「その涙はきっと、どの星よりも美しいものだろうとも書いてあった」
「フィルングったら……」
どんな顔で書いていたのかまで想像できてしまう。
自分よりも年下の相手に惚気話をするなんて、と呆れてしまうが、目元が緩む。
「あの星はエフェルナという夫婦星だ」
「夫婦星……」
「その昔、霧の国ルーメルにレフ=エフェルという若き宮廷騎士と癒しの歌声を持つナリアという歌姫がいた。二人は王城の夜会で出逢い、バルコニーでルメリアを指しながら星について語り合い、その夜、恋に落ちた」
白く輝く星を見上げながら静かな声で語るザファルの話に耳を傾ける。
だが、語りはそこで止まった。
「そこで夫婦になったのですか?」
「いや……そうではない。この話は……人によって結末が違う。愛として語る者もいれば、悲劇として語る者もいる……が、今のあなたに聞かせる話ではなかった」
相変わらず目元しか見えないが、彼は優しい人だとわかる。
フィルングが親交を持っていたのもそうだが、彼が向けてくれる気遣いがそう確信を持たせる。
「お気遣いありがとうございます。ですが、物語を聞いて涙するほど悲しみに暮れているわけではありません」
「そうか……」
「どのようなお話なのか、聞かせていただけますか?」
アストリッドから夜空へと顔を戻したザファルが布の下で息を吐く。うっすらと漏れる白い息がやはり溶けるように消えていく。
「王政を嫌う反乱軍がナリアを攫い、七日後の満月までに降伏しろと通告した。降伏すればナリアの命は助ける。ただし、ナリアはそのまま反乱軍のものとする、と」
「レフはどうしたのですか?」
「降伏すると決めた国王の命に背き、一人、ナリア奪還に向かった」
愛し合っていたレフにとって、ナリアへの愛は国王への忠誠よりも重いものだったのだろう。見てもいないのに馬で飛び出して行った様子が想像できた。
「レフが向かった反乱軍のアジトは、不幸にも嵐に見舞われて壊滅状態だった。二人は再会したが、抱き合った瞬間、足場が決壊した」
「足場の下は?」
「谷だ。谷にかかった橋の上で二人は抱き合っていた」
ザファルの視線はエフェルナから外れることはなく、そこに続く道でもあるかのように真っ直ぐ見つめている。
「レフはナリアを抱き抱え、二人は谷底へと落ちていった」
「ああ……」
悲劇だと目を伏せたアストリッドを一瞥したザファルが言葉を続ける。
「レフは言った。このまま死ぬ運命だとしても、その瞬間まであなたを離しはしない。来世ではあなたの騎士として生きると約束しよう、と」
ナリアの返事は聞かずともわかる。橋がかかるほど深い谷底に落ちていくのに助かると希望を持つのは不可能だ。精霊の力でもない限りは助からない。レフのその叫びが全てだ。
「その瞬間、ルメリアが異様に瞬き、二筋の光が天空へと走った。ルーメルの民は、その晩、夜空に淡紅と蒼銀の光が寄り添い、大きく膨らんでいくのを目撃した。翌夜、二つはひとつの柔らかな白光に融合し、人々はその星にエフェルナと名付けた」
「レフは裏切り者にはならなかったのですか?」
「王の命を破ったからか?」
「はい」
「それはない。ルーメルの民にとって大切なのは手の届かない存在である王よりも自分たちに癒しを与えてくれる歌姫だったのだから」
王妃であったアストリッドにとって王位というものがどれほど強力なものか、その身で感じてわかっているが、王よりも歌姫の人気が高かったという言葉には思わず納得してしまった。
「民は、その光がレフとナリアであると信じて疑わなかったのですね」
「実際のところはどうかわからんが、そのほうがロマンがあるだろう」
静かに口を閉じたザファルの顔が夜空からアストリッドへと下り、視線を向ける。
「あなたはこれをどう捉える?」
「愛だと思います」
迷いなき答えにほんの少し、目を見開いたが、すぐにいつもの目に戻り、「何故そう思う?」と問いかけた。
「物語は、どの視点で見るかによって結末が違うように思うんです。未来ある二つの尊い命が失われたことは悲劇ですが、二人が最期の瞬間まで抱き合っていられたことは愛であり、その愛はこうして語られ、いつまでも人々が見上げる。紡がれた愛は簡単に解けることはないという証明ではないかと思うのです。だから、二人が愛し合い、抱き合って迎えた最期ならそれは悲劇ではなく、愛だと思います」
「あなたがフィルングを想い続けるようにか?」
「はい」
その答えにも迷いはなかった。
何年、何十年経っても彼への愛は消えないだろう。いつまでも恋しく、いつまでも愛おしく、いつまでも忘れられない最愛の人──……
「あなたは──」
「そういえば、二人が話していたメルリアとはなんですか?」
ザファルの呟きのような声をアストリッドは疑問で遮り、夜に浮かぶ金色の瞳を見上げる。
「ルメリアとは、一番星のことだ」
「一番星は確か……夕暮れ時の空に最初に見える星のこと、ですか?」
「フィルングがそう言ったのか?」
「本を読みながら一生懸命説明してくれました」
「想像がつくな」
フッと小さく笑ったザファルを見てアストリッドも小さく笑う。
想像がつくほど彼らはよく手紙のやり取りをしていたのだろう。幾度か顔を合わせるだけでもフィルングという男がどういう人間か伝わったのかもしれない。
「今日は、リアーナが失礼をしたと報告を受けた。すまない」
「いいえ、失礼など何もありませんでした。私のご挨拶が遅れてしまったせいです」
「夫人候補なのではないかと気になって仕方がないらしい。何度説明しても理解せぬ者ばかりだ」
「愛されているのですね」
ザファルから返事はなかった。踏み込んだつもりはないが、こういう独特な国では色々事情もあるのだろうと、それ以上は言わなかった。
「王妃」
「皇帝陛下、私はもう、王妃ではありません。どうか、その呼び方はおやめください」
「……アストリッド……」
「はい」
少し、ほんの少し、ザファルの声が上擦った。袖の下で拳を握り、一瞬、視線を逸らしたがすぐに戻した。
「いつまでもここに居てくれて構わない。自立を急ぐ必要はない」
今度はアストリッドの返事がなかった。
「……あなたのことを知っていると言えるほど話をしたわけではないが、フィルングからの手紙でいくつか知っていることもある。一方的で……気持ち悪いと思うかもしれないが……あなたは強い人だ。だから、いつか自立できるだろう。それを止めるつもりはない。だが、急ぐ必要もない、と思う」
緊張しているのが伝わってくる不思議さに、アストリッドはストールの端を軽く摘んで微笑んだ。
「優しい人ですね」
「……誰が……」
「陛下のことです」
「私が……優しい……?」
言われている意味がわからないとでも言いたげに戸惑いを目に出す様子を見てアストリッドはクスッと笑った。
「美しい星の物語を聞かせてくださり、ありがとうございました」
部屋に戻るのだろうと察し、ザファルは表情を引き締める。
「必要な物があればアミーラに言いつけてくれ」
「ありがとうございます」
三段の階段を上がってドアに手をかけようとして振り向いたアストリッドをザファルが見上げる。
「おやすみなさい」
「ああ、おやすみ」
ドアの鍵が閉まった音を聞いてからその場を離れたザファルの耳には、アストリッドの優しい声がいつまでも残っていた。
穏やかな気候の中で生まれ育ったアストリッドも得意ではないが、この冷たさは嫌いではなかった。
「あったかい」
上質な素材で出来ているというのも納得なほど暖かく、吐き出す息が白い空気の中でも震えるほど体温は下がっていない。
「ありがたい……」
命を救ってもらったことも、ラフナディールに連れてきてもらったことも、こうして気にかけてくれたことも全て。
自分が交流していたわけではなく、絆を紡いでいたのは夫なのに──義理堅い人だと、彼の言動一つ一つに感謝が込み上げる。
「溶けていくみたい……」
吐き出す白い息は流れるというよりは消えていく。
年中涼しいエルヴァングや風の谷では起こることがない現象だ。
満天の星空を見上げながら指を伸ばし、一番大きな星を指す。
『寒いところに行けば、ここよりもっとキレイな星空が見えるんだよ』
『寒いってどのぐらい?』
『凍えるほど』
『凍えるほど寒い所に行って星を見るの? 凍えながら星を見る意味ってあるのかしら?』
『ロマンだよ』
『凍えるのに?』
『抱き合って、互いに熱を分け合いながら星を見るのもまた一興だよ』
『ふふっ、あなたってばそればかりね』
『ダメかい?』
『いいえ』
少年のような笑顔で話すフィルングとの時間が好きだった。
男のロマンと女のロマンは全然違うという話を何度しただろう。どれもくだらない内容だった。どうでもいいような、他愛のない話。
「どれがどの星かなんて……わからないわ……」
星を語るのはフィルングの役目だった。アストリッドは話を聞くよりも語るフィルングを見つめてばかりいたから詳細には覚えていない。
「あの星は確か──」
「エフェルナ」
聞こえた声に振り返るとザファルが立っていた。
「ザファル皇帝陛下」
仰々しく頭を下げるアストリッドを見つめながら隣に立つと視線はストールに落ちる。
「寒くはないか?」
「おかげさまで」
「それはよかった」
誰かと会話をしていても思い出すのは最愛の人との何気ない会話。
夜、庭を散歩しているときに必ず交わす会話があった。
『寒くはないかい?』
『ええ』
『よかった。君が風邪をひくと一緒に寝られないからね。枕が濡れて大変なことになってしまう』
『身体中の水分がなくなって痩せるんじゃない?』
『おや、私のこの身体を気に入ってくれていると思っていたのに』
『ええ、気に入ってるわ。それ目当てで結婚したんだもの』
『奇遇だね。私もだよ』
最低だと怒って見せるもすぐに笑ってしまい、フィルングの腕の中で額を合わせるのがいつものやり取り。
もう二度と交わせないのだと思うと苦しくて仕方ない。
「星を見ていたのか?」
「……とてもキレイだったので」
「……フィルングは星が好きだったな」
驚いた顔でザファルを見ると空を見上げていた。
「ご存知でしたか」
「妻が感動して涙するほど美しい星空を見せてやりたいと手紙に書いていたときがあった」
「そんなことばかり書いていたのでしょうね……すみません」
「その涙はきっと、どの星よりも美しいものだろうとも書いてあった」
「フィルングったら……」
どんな顔で書いていたのかまで想像できてしまう。
自分よりも年下の相手に惚気話をするなんて、と呆れてしまうが、目元が緩む。
「あの星はエフェルナという夫婦星だ」
「夫婦星……」
「その昔、霧の国ルーメルにレフ=エフェルという若き宮廷騎士と癒しの歌声を持つナリアという歌姫がいた。二人は王城の夜会で出逢い、バルコニーでルメリアを指しながら星について語り合い、その夜、恋に落ちた」
白く輝く星を見上げながら静かな声で語るザファルの話に耳を傾ける。
だが、語りはそこで止まった。
「そこで夫婦になったのですか?」
「いや……そうではない。この話は……人によって結末が違う。愛として語る者もいれば、悲劇として語る者もいる……が、今のあなたに聞かせる話ではなかった」
相変わらず目元しか見えないが、彼は優しい人だとわかる。
フィルングが親交を持っていたのもそうだが、彼が向けてくれる気遣いがそう確信を持たせる。
「お気遣いありがとうございます。ですが、物語を聞いて涙するほど悲しみに暮れているわけではありません」
「そうか……」
「どのようなお話なのか、聞かせていただけますか?」
アストリッドから夜空へと顔を戻したザファルが布の下で息を吐く。うっすらと漏れる白い息がやはり溶けるように消えていく。
「王政を嫌う反乱軍がナリアを攫い、七日後の満月までに降伏しろと通告した。降伏すればナリアの命は助ける。ただし、ナリアはそのまま反乱軍のものとする、と」
「レフはどうしたのですか?」
「降伏すると決めた国王の命に背き、一人、ナリア奪還に向かった」
愛し合っていたレフにとって、ナリアへの愛は国王への忠誠よりも重いものだったのだろう。見てもいないのに馬で飛び出して行った様子が想像できた。
「レフが向かった反乱軍のアジトは、不幸にも嵐に見舞われて壊滅状態だった。二人は再会したが、抱き合った瞬間、足場が決壊した」
「足場の下は?」
「谷だ。谷にかかった橋の上で二人は抱き合っていた」
ザファルの視線はエフェルナから外れることはなく、そこに続く道でもあるかのように真っ直ぐ見つめている。
「レフはナリアを抱き抱え、二人は谷底へと落ちていった」
「ああ……」
悲劇だと目を伏せたアストリッドを一瞥したザファルが言葉を続ける。
「レフは言った。このまま死ぬ運命だとしても、その瞬間まであなたを離しはしない。来世ではあなたの騎士として生きると約束しよう、と」
ナリアの返事は聞かずともわかる。橋がかかるほど深い谷底に落ちていくのに助かると希望を持つのは不可能だ。精霊の力でもない限りは助からない。レフのその叫びが全てだ。
「その瞬間、ルメリアが異様に瞬き、二筋の光が天空へと走った。ルーメルの民は、その晩、夜空に淡紅と蒼銀の光が寄り添い、大きく膨らんでいくのを目撃した。翌夜、二つはひとつの柔らかな白光に融合し、人々はその星にエフェルナと名付けた」
「レフは裏切り者にはならなかったのですか?」
「王の命を破ったからか?」
「はい」
「それはない。ルーメルの民にとって大切なのは手の届かない存在である王よりも自分たちに癒しを与えてくれる歌姫だったのだから」
王妃であったアストリッドにとって王位というものがどれほど強力なものか、その身で感じてわかっているが、王よりも歌姫の人気が高かったという言葉には思わず納得してしまった。
「民は、その光がレフとナリアであると信じて疑わなかったのですね」
「実際のところはどうかわからんが、そのほうがロマンがあるだろう」
静かに口を閉じたザファルの顔が夜空からアストリッドへと下り、視線を向ける。
「あなたはこれをどう捉える?」
「愛だと思います」
迷いなき答えにほんの少し、目を見開いたが、すぐにいつもの目に戻り、「何故そう思う?」と問いかけた。
「物語は、どの視点で見るかによって結末が違うように思うんです。未来ある二つの尊い命が失われたことは悲劇ですが、二人が最期の瞬間まで抱き合っていられたことは愛であり、その愛はこうして語られ、いつまでも人々が見上げる。紡がれた愛は簡単に解けることはないという証明ではないかと思うのです。だから、二人が愛し合い、抱き合って迎えた最期ならそれは悲劇ではなく、愛だと思います」
「あなたがフィルングを想い続けるようにか?」
「はい」
その答えにも迷いはなかった。
何年、何十年経っても彼への愛は消えないだろう。いつまでも恋しく、いつまでも愛おしく、いつまでも忘れられない最愛の人──……
「あなたは──」
「そういえば、二人が話していたメルリアとはなんですか?」
ザファルの呟きのような声をアストリッドは疑問で遮り、夜に浮かぶ金色の瞳を見上げる。
「ルメリアとは、一番星のことだ」
「一番星は確か……夕暮れ時の空に最初に見える星のこと、ですか?」
「フィルングがそう言ったのか?」
「本を読みながら一生懸命説明してくれました」
「想像がつくな」
フッと小さく笑ったザファルを見てアストリッドも小さく笑う。
想像がつくほど彼らはよく手紙のやり取りをしていたのだろう。幾度か顔を合わせるだけでもフィルングという男がどういう人間か伝わったのかもしれない。
「今日は、リアーナが失礼をしたと報告を受けた。すまない」
「いいえ、失礼など何もありませんでした。私のご挨拶が遅れてしまったせいです」
「夫人候補なのではないかと気になって仕方がないらしい。何度説明しても理解せぬ者ばかりだ」
「愛されているのですね」
ザファルから返事はなかった。踏み込んだつもりはないが、こういう独特な国では色々事情もあるのだろうと、それ以上は言わなかった。
「王妃」
「皇帝陛下、私はもう、王妃ではありません。どうか、その呼び方はおやめください」
「……アストリッド……」
「はい」
少し、ほんの少し、ザファルの声が上擦った。袖の下で拳を握り、一瞬、視線を逸らしたがすぐに戻した。
「いつまでもここに居てくれて構わない。自立を急ぐ必要はない」
今度はアストリッドの返事がなかった。
「……あなたのことを知っていると言えるほど話をしたわけではないが、フィルングからの手紙でいくつか知っていることもある。一方的で……気持ち悪いと思うかもしれないが……あなたは強い人だ。だから、いつか自立できるだろう。それを止めるつもりはない。だが、急ぐ必要もない、と思う」
緊張しているのが伝わってくる不思議さに、アストリッドはストールの端を軽く摘んで微笑んだ。
「優しい人ですね」
「……誰が……」
「陛下のことです」
「私が……優しい……?」
言われている意味がわからないとでも言いたげに戸惑いを目に出す様子を見てアストリッドはクスッと笑った。
「美しい星の物語を聞かせてくださり、ありがとうございました」
部屋に戻るのだろうと察し、ザファルは表情を引き締める。
「必要な物があればアミーラに言いつけてくれ」
「ありがとうございます」
三段の階段を上がってドアに手をかけようとして振り向いたアストリッドをザファルが見上げる。
「おやすみなさい」
「ああ、おやすみ」
ドアの鍵が閉まった音を聞いてからその場を離れたザファルの耳には、アストリッドの優しい声がいつまでも残っていた。
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