たとえば、この恋に終わりがないと言われても──

永江寧々

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自立

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 ザファルは執務室で書類に目を通していたが、集中できずにいた。
 机の上には、アストリッドの解毒薬研究に関する報告書が置かれている。

『デザートスコーピオン用解毒薬、教会にて治療中だった患者への投与で劇的な効果を確認』
『薬草商での販売初日で完売。追加注文が殺到』
『アスプバイパー用解毒薬も開発中。近日中に完成予定』

 一つ一つの報告が、ザファルの胸に複雑な感情を呼び起こす。

(成功している……)

 誇らしい気持ちと、どこか寂しい気持ちが入り混じる。
 アミーラから報告を受けたとき、焦りはあったが見守るつもりだった。アストリッドが自分の道を歩みたいと言うなら、それを尊重しようと思っていたからだ。
 だが、報告を読むたびに、胸の奥で何かが疼く。
 彼女が自分から遠ざかっていくような気がして落ち着かない。

(心のどこかでは、成功するはずがないと思っていたのかもしれない……)

「彼女はこのまま成功の一途を辿ると思われます」
「それが問題なんだ」

 アミーラの前で思わず本音が漏れてしまった。
 驚いた顔をするアミーラによっては想像どおりだが、問いかける。

「問題、ですか?」
「いや……問題、ではない……」

 言葉を撤回するザファルは珍しい。
 彼は頭の回転が速く、常に自分の発言に自信を持っている。実際、間違えることはほとんどない。人よりも短い睡眠時間だ。起きている時間が長いだけによく考えて発言するため失言は一度もない。
 そんな男が言葉を撤回した。

「彼女は成功者だな」

 もしかすると彼は別人なのではないかと思うほど変化があった。
 アミーラには今、彼が抱えている感情が手に取るようにわかる。あれほど何を考えているのかわからない人間だったのに、嘘のようにわかりやすくなっている。

「アストリッド様が自立されることに不安を感じておられるのですか?」

 図星を突かれたことに目を見開いたザファルがアミーラを見る。その顔は目を逸らしたくなるほど恐ろしいもので、失言だったと表情は変えないまま焦っていた。
 だが、ザファルの表情はすぐに変わった。

「……私は……彼女を失うのが怖いのだろう……」

 皇帝としての威厳もかなぐり捨てて本心を吐露し始めた。

「彼女が成功すれば、俺の存在は彼女には必要なくなってしまう。彼女は男がいなければ生きていけないような弱い人間ではないだろうからな」

 その言葉に込められた不安と寂しさにアミーラも胸を痛めていた。
 アストリッドが来てから物事は大きく変わり始めた。
 良い点ではザファルの変化。
 悪い点では夫人たちとの関係の悪化。
 変化はいいことだが、心配もある。
 ザファルがアストリッドに執着しすぎてしまうことだ。今すでにその予兆があるだけに、アストリッドが自立してしまったらどうなってしまうのかという心配をしている。

「少なくとも、感謝はしていると思います」

 アストリッドがザファルを見つめる瞳に愛はない。あるとすれば慈愛だろう。それはザファルが望んでいるものではない。しかし、強要はできない。
 誰よりもわかっているからこそ、ザファルは苦しくてたまらないのだ。

「彼女は私に優しくしてくれる。気遣ってもくれる。だが、それは愛ではない。愛を抱えているのは私だけだ。彼女の愛は常にフィルングに向けられている。当然だがな」

 アミーラは何も言わなかった。何を言っても慰めと嘘になってしまう。
 夫を失った悲しみを少し癒す手伝いはできても、心を向けてもらうことはできなかった切なさにかける正しい言葉も見つからなかった。

 その日の夕方、ザファルは一人で宮殿の屋上に立っていた。
 街の向こうに見える小さな家――アストリッドが暮らしている宮を見つめる。
 横に並ぶカトラが目の前に精霊文字を書く。

『会いに行けばいいのに。根性なし』

 いつもどおりの言葉を書くカトラに今は嫌味を言う気力もない。

「……そうもいかない」

 そうしたい気持ちはあれど、足は動かない。根性なしという言葉が響くほど自覚しているこの瞬間、ザファルは自分の無力さを実感していた。

「彼女は自分の道を歩もうとしている。私が邪魔をするわけにはいかない」
『閉じ込めちゃえば? それか鎖で繋ぐとか』
「俺をなんだと思っている。俺はアストリッドという女性が欲しいのではない。彼女に愛してほしいのだ」
『彼女が自立しちゃったら愛してもらうこともできないのにね』
「だから根性なしと言うんだろう」

 ザファルの声には覇気がない。アストリッドに会えば余計なことを言ってしまうとわかっている。自覚できるほどの独占欲が芽生えている今、会えば吐き出してしまう。心にある全ての感情と言葉を。

「フィルングなら、どうしただろうな」

 親友の名前を呟きながらザファルは星空を見上げた。

「彼が私の立場ならきっと、迷わず彼女のもとに駆けつけただろう。解毒薬の調合に成功したことを褒め、これから待っているだろう明るい未来を讃え、その上で自分の気持ちをちゃんと伝える。愛していると、臆することなく言うはずだ。相手がまだ亡き夫を愛していると知っていても」
『やればいいじゃない』
「根性なしにそこまでの勇気があるとでも?」

 やれやれと呆れたカトラが肩を竦めた感傷的になっているザファルに水でもぶっかけようかと手を動かしたとき、下から声が聞こえた。

「ザファル陛下」

 聞こえた声に振り返ると、アミーラが立っていた。

「お話があります」

 アミーラの真剣な表情にザファルの表情が険しくなる。

「アストリッド様のことです」

 その言葉に、ザファルの心臓が早く鳴り始めた。
 風の精霊はいないのに躊躇なく屋根から飛び降りて着地するまでの速さにカトラはますます呆れる。

「何かあったのか?」
「いえ、彼女は元気です。解毒薬の研究も順調ですし」

 では何の話をしに来たんだと眉を寄せるこの表情が怖い。

「少し疲れているように見えます」
「……根を詰めているだろうからな」

 アミーラは基本的に人の恋路に興味がない。自分の恋愛についても興味がないし、他人の恋愛は尚更。
 だから言わせないでくれと思うが、いかんせん、相手はザファル。言わなければ思いつきもしないだろうと予想してお節介を焼きに来たのだ。

「息抜きが必要だと思うのですが、意外にも頑固な一面がありまして」
「それは知っている」
「陛下から少し休息するよう忠告していただけませんか?」
「俺は彼女の上司ではない。俺が言ったところで──」
「私の上司ですよね?」

 アミーラはストレスの限界が来るとザファルに対してでも言ってしまうことがある。強気な態度をいつもイフラーシュにからかわれるが、今日は幸いにもその影がない。
 驚いた顔をするザファルに失礼しましたと軽く頭を下げてから咳払いをして言い放った。

「熱心なのはいいですが、サポートする側にも疲労はあるのです」

 アミーラはただの護衛ではない。セラフィスとしての活動も行なっている。訓練もあり、儀式もある。皇帝の命令で動いているだけで、自ら志願したことではない。だからこそアストリッドが休まなければアミーラも休めない。そのことに今ようやく気がついた。

「夜空の散歩に連れて行ってあげてください」

 目の前に浮かんだカトラが「行け」とでも言いたげに顎で指図する。普段なら「指図するな」と言うところだが、今は口よりも身体が動いた。
 ザファルはそのまま駆け出し、アストリッドの家のドアをノックした。

「はい、どなた……あ」

 扉を開けたイヴァがザファルの姿を見て驚き、そして嬉しそうに笑ってアストリッドを呼びに行った。

「ザファル陛下?」
「……散歩に行こう」

 いつもは「行かないか?」と尋ねるザファルが相手の予定も聞かずに手を差し出す様子にイヴァはキュンッとしていた。
 二階の窓からルィムと一緒に絨毯が飛び出し、早く早くと揺れて急かす。
 イヴァのほうを見ると頷いており、戸惑いながらも手を取った。

「アミーラさん、あの──」
「ごゆっくり」

 嫌味に聞こえるその言葉に苦笑したのはザファルであり、アストリッドはただの見送りだと感じ、困惑したまま小さく手を振り返した。
 二人が乗るとそのまま絨毯は空高く飛び上がり、星々の間を滑るように進んでいく。

「迷惑だったか?」
「あ、いえ、そういうわけでは……」
「アミーラに叱られてしまった。あなたを休憩させろと」
「つい熱中してしまって……」
「わかっている。俺が……会いたがっているのを見越してそう言いに来てくれたんだ」

 こういう言葉はアストリッドを困らせるだけだとわかっていても、口にするのはカトラが言った言葉が強く残っているから。

『自立しちゃったら愛してもらうこともできないのにね』

 確かにそうだ。
 ずっと我慢し続けた想いは一生隠し続けるつもりだった。それなのに、状況が変わっただけで、傍にいるのに伝えられないのが辛いと意見を変えるなと何度自分を叱ったことか。
 欲張りになっていく自分に戸惑いがあった。欲望に忠実になれば全てが変わってしまうだろうそれが怖かった。

「あそこで過ごした一週間はとても幸せだった。穏やかで、賑やかで、何かを強要されることはなく、時に静かで、素晴らしい時間だった」
「楽しかったですね」

 アストリッドもそうだった。イヴァとアミーラとの生活も楽しい。しかし、ザファルが入ったことにより、イヴァが張り切って生活していたことでいつもと違う日常に変わったのが楽しかった。
 ザファルが戻れば自分たちの生活も元通りになってしまっただけに、あの日々が特別だったと気付いた。

「あなたは今、幸せなのだろうか?」
「え?」
「ラフナディールに来たばかりの頃、あなたは自立を考えていた。当時は見つからなかったその方法を見つけた今、あなたはいつでも出ていけるのだろう。成功を掴んだ今、あなたは幸せなのか?」

 その問いに、アストリッドは少し考えた。

「……充実しています」
「それは答えではない」

 ザファルの指摘にアストリッドが困ったような表情を見せる。

「私は……」
「俺は不幸だ」

 ザファルが静かに言いきった。

「え?」
「自由時間が終わってからずっと空虚だ。皇帝とは名ばかりの存在で、実際は思春期のように恋に溺れている情けない男に成り下がってしまった」
「陛下……」
「皇帝の務めは果たしている。国政も順調だ。だが……」

 ザファルの手がアストリッドの手をそっと触れ、そして強く握った。

「一人で食事をすること。息抜きにおやつを食べること。くだらない豆知識を披露し合うこと。コインが左右どちらに入っているかに真剣になること。たった一週間の出来事がこんなにも心を占めるとは思わなかった」

 ザファルの大きな手はコインがすっぽりと隠れてしまうため左右どちらに入っているか、見ただけでは難しい。当てればコインがもらえるとなるとイヴァは夢中になり、二十回以上挑戦したが、一度も当てられなかった。
 その際、ザファルは笑顔だった。心の底から楽しんでいたのだと驚いた。
 
「何より、日常の中にあなたを感じられないということが苦しいんだ」

 ストレートすぎる言葉に、アストリッドは思わず息を止めた。
 
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