たとえば、この恋に終わりがないと言われても──

永江寧々

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風の谷

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「遅かったな」

 到着したのはエルヴァングを出発した翌日のこと。
 残ったはずのヴァルグは既に谷に帰っており、出迎えてくれた。

「お前たち、どうやって着いた?」
「俺が連れてきた。ボロボロの女を抱えてお前たちを追いかけようとしてたからな」
「見つかってよかった」
「娘は預かる」

 道中、気絶するように眠ったアストリッドの身体がふわりと浮いてどこかへ運ばれていくのを見て、ザファルは馬を降りた。

「ヴァルグ=フェイリス族長ですね」
「俺を知ってるとは驚きだ、東の皇帝陛下」
「ザファル=アレイファーンです」
「娘を救ってくれて感謝する。お前さんが間に合わなきゃ魔女として娘は燃えちまってただろうな」
「あなたがそうさせなかったはずだ」

 見透かしたような目にヴァルグの片眉が上がる。

「あなたは遠くから見ていた」
「言いきるねぇ」
「良くも悪くも監視者なのでしょう。私がここに辿り着いたとき、暴風とは違う風を感じた。そして、広場に着いたときも同じ風を感じた」
「それが俺だと?」
「あなたが現れたとき、同じ風を感じたので」

 ガシガシと短髪を乱暴に掻くヴァルグはバツが悪そうに表情を歪めた。
 あー、と声を漏らし、そのまま溜め息へと変える。

「族長失格の行為なんだがな」

 ザファルにはその意味が理解できた。それが彼が見せた先ほどの表情の真相なのだろう。

「風の谷を出た娘を救ってはならなかった、ですか?」
「……フィルングから聞いたか?」
「彼は、酔うと同じ話を繰り返す男でした。内容はいつも風の谷の娘を強引に妻に迎えたこと。そしてそれがどんなに酷であるか──」
「酷、ねぇ……」

 ヴァルグが歩き出すのに合わせてザファルも足を動かし、風の谷の中へとゆっくりと入っていく。
 谷底に近い場所──上を見上げると青々とした空が遠くに見える。地上ではあんなにも強かった日差しが、ここではとても穏やかに感じた。
 そして、とても穏やかな風が吹いている。到着したときとは比べ物にならないほどに。
 馬ごと吹き飛んでしまいそうな、常に突風が吹き続けているかのような暴風に橋の前で二日も足を止めた。
 今はそれが幻覚であったかのように凪風が泳いでいる。

「風の谷に生まれた者は、生涯、谷の外に出ることは禁じられている。それは二千年前から続く掟だ」
「二千年……」
「長い歴史の中で一度だって破られちゃいなかった」
「親が子を守ろうとする心さえも掟に縛りつけるものなのですか?」
「それが掟だからな。お前の国にも掟はいくつもあるだろう」
「それはそうですが……」

 フィルングは毎回言っていた。

『私は、アストリッドが帰る家を奪ってしまったんだ』

 風の谷ここに生まれた者は外の世界を知ることなく死んでいく。そして風の谷から出た者は二度と戻ってはならない。
 絶縁──そういうことなのだろう。
 愛する者から帰る家を奪うとわかっていながらも求婚して妻に迎えたフィルングを何度『強欲』と笑ったことか。

「族長、準備ができました」
「ああ」

 ついてこいと言われ、一番大きな家屋へと入った。
 中には、壁に沿った木製のベッドが八台。中央に置かれた長テーブルには豪勢な御馳走が並んでいる。

「これは……」
「ここは客人をもてなす場所でな。賓客室って呼ぶには粗末だが、こん中じゃあ一番広い場所だ」
「いや、そうではなく……」
「もてなしを受ける理由がないってか?」

 目元しか出ていないが、ヴァルグにはザファルの感情がよく読めた。
 あの場に間に合ったのは風を止ませてくれたヴァルグのおかげだが、自分が間に合わずともヴァルグは娘を助けただろうことはザファルもわかっている。
 客人と呼ばれるほどのことは何もしていない。風の谷にもヴァルグが運べば一瞬で、自分が運ぶよりもずっと負担は少なかったとさえ思っているだけに驚きを隠せないでいる。

「お前さんがいなきゃ、俺は表には出なかった」
「どういう──」
「さ、飯が冷めちまう前に食ってくれ。風呂は向こうだ。ゆっくりしていってくれ」

 もてなすと言っても酒を注いだり踊りがあったりするわけではない。四人の部下と共にゆっくり過ごせというだけのこと。
 緊張なく過ごせることで心身ともに休められるのはいい。この二週間、ちゃんとした食事をしたのはラフナディールからの船の中が最後。とにかく急ぎ続けた馬で駆ける日々の中、食事は最低限ばかり。
 ラフナディールの食事とは全く違うものだが、彼らの目には輝いて見えたらしく、部下たちの喉が鳴るのが後ろから聞こえた。

「食べよう」

 ベールを外して顔を出したザファルに合わせ、それぞれが手を合わせた。
 酒も用意されている。五人いるとしても多すぎる量にヴァルグの飲酒量が伺える。
 後ろ手を振って出ていったのを視線で見送ってから部下たちに座るよう促し、食事を始めた。

「イヴァとやらはどうだった?」
「鞭打ちによる裂傷がひどく、気を失っていました」
「そうか……。王妃は悲しむだろうな」
「風の精霊は水の精霊よりも治癒能力が高いので問題はないかと。ここには優秀なセラフィスがいるようなので、目覚めた頃には痛みだけでなく身体の傷まで消えているでしょう」

 部下の言葉に頷き、床に座ってグラスを取る。
 注がれた薄緑の酒を眺めるザフィルの心は晴れやかではない。
 もともとあまり感情の起伏が激しいほうではないが、部下たちには彼の心情を感じ取ることができた。

「辛い思いをさせてしまいますね」
「ああ、だが、渡さなければならない。彼の最後の願いであり、想いだ。俺にはそれを届ける義務がある」

 無事に救出することができたら必ず渡してほしいと頼まれた物がある。
 それがどんなに酷であるか、フィルングもわかっていた。ナイフで胸を抉るよりもずっと大きな痛みを与えることになるかもわかっていたが、死にゆくものとは無敵であり、誰もその願いを無碍にはできないことを知っている。

「ですが、本当に請け負ってしまってよろしいのですか?」
「ああ。友の最期の頼みだ」
「陛下は何故、そこまでして……」

 グラスの中で輝く酒をグイッと飲み干すと広がる爽やかさにゆっくりと息を吐き出し、風が抜ける窓に目をやり、外を見た。

「俺のようなつまらない男を、彼はいつも『面白い』と笑ってくれた」

 それだけで、とは誰も言えなかった。
 皇帝の玉座に腰掛けているザファルの人生は貴族の子供のように順風満帆とは言えない過酷なもので、彼の身体も心も傷だらけであることを知っている彼らにとって、その言葉の大きさが痛いほど理解できてしまう。

「アリア様たちは納得されるでしょうか?」
「話はした。不満げではあったが、仕方ない。これは俺の独断なのだから」
「リアーナ様はアザラーグ神も腰抜かすぐらい怒っていたぞ」
「彼女は嫉妬深いから仕方ないわよ」

 テーブルの端から端まで隙間なく皿が置かれた食べ物を四人が片っ端から食べていく。
 どんな状況でも腹は空く。船を降りてから今日まで我慢できていただけ。

「アストリッド様は承諾されるでしょうか?」
「……どうだろうな。風の谷も今は緊急事態で受け入れているだけかもしれん。ヴァルグ殿の対処もどうなることか……」
「そうですね」
「もし、アストリッド様が拒否された場合はどうなさるのですか?」
「帰るだけだ」
「よろしいので……?」

 頷けないが、頷くしかない。
 亡き友人の願いといえど、優先されるのは生者でなければならない。アストリッドが自らの意思で決めたことならザファルはそれに従うつもりだった。
 風の谷を囲う岩肌と同じぐらい、ザファルの周りには問題が山積みで、どこから崩していけばいいのかわからなくなっている。
 アストリッドのこともその一つ。
 それでもザファルは彼女のことを最優先事項として考えていた。
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