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想い
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目が覚めたアストリッドの目に映ったのは見慣れた美しい模様ではなく、蔓が伝う質素な材質の天井。
記憶にある、これもまた見慣れた天井でもあった。深い緑の匂いとシルクではないシーツの手触り。
「……」
ベッドに横たわったままゆっくりと意識を覚醒させる。まだ頭はボーッとしている状態で上手く働かない。
意思の弱い瞳を何度か瞬きさせるアストリッドの上にヌッと影が差した。
「おはようございます、アストリッド様」
聞き慣れた声。朝はいつもこの声で目を覚ます。目覚まし時計のように明るい声にバッと勢いよく起き上がったアストリッドが見たのは元気そうなイヴァの笑顔。
「イヴァ……?」
「はい! イヴァです! あなたの可愛い侍女、イヴァ・タリアですよ!」
「イヴァ!」
「あわわわわわわっ!」
ベッドから降りて駆け寄ってきたアストリッドからの抱擁を受けたイヴァは慌ててその身体を抱き止める。細い。あの一週間であっという間に痩せてしまった。
もともと細くはあったが、フィルングが毒に侵され寝たきりになってから食事もままならなくなり、地下牢に入れられてからはほとんど食べなくなったこともあって、今の彼女の身体はあまりにも頼りない。
キツく抱きしめ返せば壊れてしまいそうな細さに眉を下げながらも「また一緒です」と優しく声をかけた。
「なんともない? 何もされてない?」
「元気ですよ! 元気が取り柄のイヴァですからね!」
イヴァは出会った時からずっと元気が印象的な少女だった。
幼いながらに一生懸命働き、従順で笑顔の絶えない明るい子。
だからこそアストリッドは彼女を信頼していたし、なんでもしてやりたいと思っていた。
遠慮はしない。謙遜もしない。貰えるものは貰う。食べられる物は食べる。宝石もお茶会もイヴァはありのまま受け取ってアストリッドを笑顔にした。
こうしてまた会えたことでアストリッドの不安が薄れ、流れるのは喜びの涙。それがイヴァの安心にも繋がっていた。
「よかった……何かされてるんじゃないかって心配で……」
「何もされませんよ。あんな臆病者たちに何ができるっていうんですか。そんな勇気ないない!」
イヴァの明るい声に安堵してゆっくりと身体を離したアストリッドの手がイヴァの頬に添えられる。それに自ら頬を押し付けては猫のように擦り寄る。
どうすればアストリッドが笑ってくれるのか、イヴァはよく知っている。
「あ、誰か来ましたね」
アストリッドをベッドに座らせてからドアを開けに行く。
「王妃はいるか?」
「何用でしょうか?」
「フィルングから託された物を渡しに来た」
「受け取ります」
両手を出すイヴァにザファルがかぶりを振る。
「王妃に伝えたいことがある」
訝しげな顔を見せるイヴァの後ろから「入ってもらって」と声が届き、大きく開けられたドアからザファルが入ってきた。
「身体の調子はどうだ?」
「問題ありません。助けていただき、ありがとうございました。心より感謝申し上げます」
イヴァがアストリッドの前にザファルが座るための椅子を用意するが、断られた。
握っていた二つの通信機を差し出すもアストリッドは見るだけで取ろうとはしない。
「一つは広場で見せた民への言葉が入っている物だ。もう一つはあなたにとフィルングから頼まれた物だ」
「彼から……」
膝に乗せていた手がギュッと拳へと変わる。
自分に宛てたメッセージだとわかっていても心はそれを受け入れるのを怖がっている。自分はもう、エルヴァングの王妃ではない。彼亡きあと、王妃として国を支えることもできなかったことが申し訳ないと唇を噛んだ。
「彼があなたに贈った最後のメッセージだ」
「あなたは見たのですか……?」
「いや、あなた宛の物だ。だが、私にも同じ物を送ってきた。内容はたぶん、そう変わってはいないだろうが……そのまま同じではないだろう。どうか、見てやってほしい」
強制するつもりはない。このまま破壊しても構わない。死者の声に囚われてしまうと思うのなら壊すのも一つの手だとザファルは思っていた。
だから急かすようにアストリッドの手に乗せるのではなく、近くのテーブルに二つの通信機を置いた。
「私はもう少し滞在させてもらうことにした。何かあれば呼んでくれ」
ザファルが静かに部屋を去ったあと、イヴァは少しの間、アストリッドを見つめ、そのまま部屋を出て行った。
静かになった部屋の中、アストリッドの視線は二つの通信機にある。
色は二色。中央にあるボタンだろう水晶のような丸みあるそこが透明の物と白の物。
白が自分へ宛てた物だと、なんとなくわかった。
『君は白がよく似合う。純粋で、清らかで、汚れなき無垢さを持つ自慢の妻だよ』
そういって甘い香りの花を髪に挿してくれたことがあった。
衰弱していく中でも彼は必ず『君は今日も美しい』と囁き、髪を撫でてくれた。息を引き取るその日まで、彼は一日たりともその言葉を欠かすことはなかった。
そんな彼が最後に残してくれた物を見ずにいられるはずがない。
そっと手を伸ばし、通信機を取った。
思い出すのは彼との会話──
『世の中には通信機というものがあってね、遠く離れた異国の地の者とも話ができる装置だよ』
『どうやって話をするの?』
『こういう丸い装置でね、魔法石を使って動かしているらしい』
『どうやって通信機同士を繋ぐの?』
『ん?』
『他の通信機と繋がってしまったりしないの? どういう原理で特定の相手の通信機と繋がることができるの? 遠い異国の地から魔法石を使うだけで話ができるってどういうこと?』
答えられないことに苦笑した彼の顔が懐かしく、恋しい。
エルヴァングには通信機はなかった。科学者を雇って近代化するには国費が足りないと言っていた。
だが、フィルングは常々こうも言っていた。
『エルヴァングは世界的に見ても富裕国の仲間にはなれないが、自然豊かな国のカテゴリーでは上位にあるだろうな。私はこの国が好きだ。緑豊かで美しいこの国を愛しているよ』
子供のような笑顔で語る姿が好きだった。ずっとその顔を見ていたかった。きっと、シワだらけになっても同じ笑顔を見せていただろう彼と──生きたかった。
ボタンに近付く指が震える。白いボタンに指先が触れ、ほんの少し力を込めると目の前に映像が浮かび上がった。
「フィルング……!」
いつの間に撮ったのだろう弱っている彼。エルヴァングで再生されたのと同じ姿──いや、まだほんの少し、こっちのほうが元気に見える。
だが、その笑顔はアストリッドがよく知る笑顔だった。
まだ何も話していないのに涙が溢れる。
『やあ、アストリッド。驚いたかい? この装置はザファルに送ってもらったんだ。彼の国は発達しているからこうした物はたくさんあるらしい。こんな風に、動く私を再生できる録画とやらができるのは王族や皇族専用装置にのみある機能らしい。こうして喋っている私もよくわかってはいないんだけどね』
通信機について語っていたあの日を鮮明に思い出す。それぐらい、彼の声はあの頃と同じだった。
『君を愛してる。人はこんなにも人を愛せるのだと私自身とても驚いたほど、君への愛を実感する十年だった』
何度聞いたかわからない台詞だ。彼は言葉を惜しむことはない人だったから。
『本当はね、もっと長く君に話したかったよ。しつこいぐらいに、呆れられるぐらいに、君をどれほど愛してるかを毎日毎日、ね』
そうしてほしかった。そうあってほしかった。
『抱きしめて、キスをして、笑っている君を遠くからも間近でも見ていたかった。……だけど、今回ばかりはどうにも……勝てそうにない。父はもういないのだから毒の摂取などやめておけばよかったのに……私も存外、愚からしい。君を一人にしてしまう可能性を避けることが私の使命だったのに……』
懐かしい苦笑。恋しかった苦笑。でも今はその表情に、ただただ、胸が締め付けられる。
『アストリッド、どうか……ザファルと共に生きてはくれないだろうか?』
耳を疑う言葉に目を見開くも彼の言葉は続く。
『驚いただろうね。いや、君のことだから怒っているかもしれないな。だけど、人は愛がなければ生きられない生き物だと私は思っている。君の愛はとても大きい。その愛を全て亡き者に捧げ続けるなんて勿体無いことはしてほしくないんだ。かといって、誰でもいいから愛して一緒になってくれとも言えない。こんな状態でありながらも考えるだけで嫉妬でおかしくなりそうなんだよ』
彼らしい言葉なのに、今日だけはクスッと笑うこともできない。
『君が愛を注ぐ相手を私が決めるのは身勝手だとわかっている。だが、彼が相手なら、私は安心して君を見守ることができるんだ。彼は愛情表現が下手で、不器用な人間だが、善人だ。顔は怖いけどね』
アストリッドが思っていたよりもずっと、彼らは交流を持っていたのだろう。そうでなければ残された妻を託そうとは思わないだろうから。
『すぐに決断しろとは言わない。これは私の押し付けでしかないし、亡者の戯言だと思ってくれてもいい。ただ、どうか、彼の傍にいてくれ。外の世界はね、君が強がって生きていけるほど優しいものではないんだよ。風の谷に戻れるのが君にとっては一番いいだろうけど……すまない、私のせいだ。万が一にでも、君が戻れたとして、君はそこでずっと肩身が狭い思いをして生きることになる。私はそれも望んでいない』
ここにずっといられるとは思っていない。イヴァと二人、どこかの国で質素ながらに穏やかに生きられたらと考えたが、きっとそれは、とても甘い考えなのだろうと自覚する。
『できるなら、私が守り続けたかった。君の腰が曲がって一歩歩くのに五分かかるようになっても、私はそれを笑いながら一歩先で待っていたかった。だけど、自ら君の手を離してしまった私にできることは、もう残されていない』
容易に想像がつく未来だ。待ってと必死に足を進ませようとする妻を微笑ましげに見つめて手を伸ばしている夫の姿が。
その未来はもうどこを探しても存在しない。どれだけ願っても叶うことはない。
『アストリッド、もう一度言うよ。どうか、ザファル・アレイファーンに守られて生きてくれ。それだけが私の最期の願いだ』
喋りすぎたのか、浅い呼吸を繰り返しながらも儚げな笑みを浮かべる夫に手を伸ばすも、手は宙を掠めて触れられない。
あの顔に、あの温もりに触れたいのに──
『アストリッド……君はこの十年間、幸せだったかい? 私は君と結婚できて、とても幸せだった。私の妻になってくれてありがとう。私を愛してくれてありがとう。私に、愛を教えてくれてありがとう。天国からずっと、君を見守っているよ。どうか、幸せになっておくれ』
伸ばされた手に手を合わせるように映像に触れると優しい声での「愛してるよ」の囁きを最後に、映像は切れた。
「フィルングッ! いやっ! フィルング──ッ!」
通信機を抱きしめながら叫ぶように泣くアストリッドの嗚咽が風の谷に響き渡る。
ドアの向こうでその声を聞くザファルが拳を握って目を閉じ、イヴァはしゃがみこんで膝を抱えながら声を押し殺して泣いていた。
記憶にある、これもまた見慣れた天井でもあった。深い緑の匂いとシルクではないシーツの手触り。
「……」
ベッドに横たわったままゆっくりと意識を覚醒させる。まだ頭はボーッとしている状態で上手く働かない。
意思の弱い瞳を何度か瞬きさせるアストリッドの上にヌッと影が差した。
「おはようございます、アストリッド様」
聞き慣れた声。朝はいつもこの声で目を覚ます。目覚まし時計のように明るい声にバッと勢いよく起き上がったアストリッドが見たのは元気そうなイヴァの笑顔。
「イヴァ……?」
「はい! イヴァです! あなたの可愛い侍女、イヴァ・タリアですよ!」
「イヴァ!」
「あわわわわわわっ!」
ベッドから降りて駆け寄ってきたアストリッドからの抱擁を受けたイヴァは慌ててその身体を抱き止める。細い。あの一週間であっという間に痩せてしまった。
もともと細くはあったが、フィルングが毒に侵され寝たきりになってから食事もままならなくなり、地下牢に入れられてからはほとんど食べなくなったこともあって、今の彼女の身体はあまりにも頼りない。
キツく抱きしめ返せば壊れてしまいそうな細さに眉を下げながらも「また一緒です」と優しく声をかけた。
「なんともない? 何もされてない?」
「元気ですよ! 元気が取り柄のイヴァですからね!」
イヴァは出会った時からずっと元気が印象的な少女だった。
幼いながらに一生懸命働き、従順で笑顔の絶えない明るい子。
だからこそアストリッドは彼女を信頼していたし、なんでもしてやりたいと思っていた。
遠慮はしない。謙遜もしない。貰えるものは貰う。食べられる物は食べる。宝石もお茶会もイヴァはありのまま受け取ってアストリッドを笑顔にした。
こうしてまた会えたことでアストリッドの不安が薄れ、流れるのは喜びの涙。それがイヴァの安心にも繋がっていた。
「よかった……何かされてるんじゃないかって心配で……」
「何もされませんよ。あんな臆病者たちに何ができるっていうんですか。そんな勇気ないない!」
イヴァの明るい声に安堵してゆっくりと身体を離したアストリッドの手がイヴァの頬に添えられる。それに自ら頬を押し付けては猫のように擦り寄る。
どうすればアストリッドが笑ってくれるのか、イヴァはよく知っている。
「あ、誰か来ましたね」
アストリッドをベッドに座らせてからドアを開けに行く。
「王妃はいるか?」
「何用でしょうか?」
「フィルングから託された物を渡しに来た」
「受け取ります」
両手を出すイヴァにザファルがかぶりを振る。
「王妃に伝えたいことがある」
訝しげな顔を見せるイヴァの後ろから「入ってもらって」と声が届き、大きく開けられたドアからザファルが入ってきた。
「身体の調子はどうだ?」
「問題ありません。助けていただき、ありがとうございました。心より感謝申し上げます」
イヴァがアストリッドの前にザファルが座るための椅子を用意するが、断られた。
握っていた二つの通信機を差し出すもアストリッドは見るだけで取ろうとはしない。
「一つは広場で見せた民への言葉が入っている物だ。もう一つはあなたにとフィルングから頼まれた物だ」
「彼から……」
膝に乗せていた手がギュッと拳へと変わる。
自分に宛てたメッセージだとわかっていても心はそれを受け入れるのを怖がっている。自分はもう、エルヴァングの王妃ではない。彼亡きあと、王妃として国を支えることもできなかったことが申し訳ないと唇を噛んだ。
「彼があなたに贈った最後のメッセージだ」
「あなたは見たのですか……?」
「いや、あなた宛の物だ。だが、私にも同じ物を送ってきた。内容はたぶん、そう変わってはいないだろうが……そのまま同じではないだろう。どうか、見てやってほしい」
強制するつもりはない。このまま破壊しても構わない。死者の声に囚われてしまうと思うのなら壊すのも一つの手だとザファルは思っていた。
だから急かすようにアストリッドの手に乗せるのではなく、近くのテーブルに二つの通信機を置いた。
「私はもう少し滞在させてもらうことにした。何かあれば呼んでくれ」
ザファルが静かに部屋を去ったあと、イヴァは少しの間、アストリッドを見つめ、そのまま部屋を出て行った。
静かになった部屋の中、アストリッドの視線は二つの通信機にある。
色は二色。中央にあるボタンだろう水晶のような丸みあるそこが透明の物と白の物。
白が自分へ宛てた物だと、なんとなくわかった。
『君は白がよく似合う。純粋で、清らかで、汚れなき無垢さを持つ自慢の妻だよ』
そういって甘い香りの花を髪に挿してくれたことがあった。
衰弱していく中でも彼は必ず『君は今日も美しい』と囁き、髪を撫でてくれた。息を引き取るその日まで、彼は一日たりともその言葉を欠かすことはなかった。
そんな彼が最後に残してくれた物を見ずにいられるはずがない。
そっと手を伸ばし、通信機を取った。
思い出すのは彼との会話──
『世の中には通信機というものがあってね、遠く離れた異国の地の者とも話ができる装置だよ』
『どうやって話をするの?』
『こういう丸い装置でね、魔法石を使って動かしているらしい』
『どうやって通信機同士を繋ぐの?』
『ん?』
『他の通信機と繋がってしまったりしないの? どういう原理で特定の相手の通信機と繋がることができるの? 遠い異国の地から魔法石を使うだけで話ができるってどういうこと?』
答えられないことに苦笑した彼の顔が懐かしく、恋しい。
エルヴァングには通信機はなかった。科学者を雇って近代化するには国費が足りないと言っていた。
だが、フィルングは常々こうも言っていた。
『エルヴァングは世界的に見ても富裕国の仲間にはなれないが、自然豊かな国のカテゴリーでは上位にあるだろうな。私はこの国が好きだ。緑豊かで美しいこの国を愛しているよ』
子供のような笑顔で語る姿が好きだった。ずっとその顔を見ていたかった。きっと、シワだらけになっても同じ笑顔を見せていただろう彼と──生きたかった。
ボタンに近付く指が震える。白いボタンに指先が触れ、ほんの少し力を込めると目の前に映像が浮かび上がった。
「フィルング……!」
いつの間に撮ったのだろう弱っている彼。エルヴァングで再生されたのと同じ姿──いや、まだほんの少し、こっちのほうが元気に見える。
だが、その笑顔はアストリッドがよく知る笑顔だった。
まだ何も話していないのに涙が溢れる。
『やあ、アストリッド。驚いたかい? この装置はザファルに送ってもらったんだ。彼の国は発達しているからこうした物はたくさんあるらしい。こんな風に、動く私を再生できる録画とやらができるのは王族や皇族専用装置にのみある機能らしい。こうして喋っている私もよくわかってはいないんだけどね』
通信機について語っていたあの日を鮮明に思い出す。それぐらい、彼の声はあの頃と同じだった。
『君を愛してる。人はこんなにも人を愛せるのだと私自身とても驚いたほど、君への愛を実感する十年だった』
何度聞いたかわからない台詞だ。彼は言葉を惜しむことはない人だったから。
『本当はね、もっと長く君に話したかったよ。しつこいぐらいに、呆れられるぐらいに、君をどれほど愛してるかを毎日毎日、ね』
そうしてほしかった。そうあってほしかった。
『抱きしめて、キスをして、笑っている君を遠くからも間近でも見ていたかった。……だけど、今回ばかりはどうにも……勝てそうにない。父はもういないのだから毒の摂取などやめておけばよかったのに……私も存外、愚からしい。君を一人にしてしまう可能性を避けることが私の使命だったのに……』
懐かしい苦笑。恋しかった苦笑。でも今はその表情に、ただただ、胸が締め付けられる。
『アストリッド、どうか……ザファルと共に生きてはくれないだろうか?』
耳を疑う言葉に目を見開くも彼の言葉は続く。
『驚いただろうね。いや、君のことだから怒っているかもしれないな。だけど、人は愛がなければ生きられない生き物だと私は思っている。君の愛はとても大きい。その愛を全て亡き者に捧げ続けるなんて勿体無いことはしてほしくないんだ。かといって、誰でもいいから愛して一緒になってくれとも言えない。こんな状態でありながらも考えるだけで嫉妬でおかしくなりそうなんだよ』
彼らしい言葉なのに、今日だけはクスッと笑うこともできない。
『君が愛を注ぐ相手を私が決めるのは身勝手だとわかっている。だが、彼が相手なら、私は安心して君を見守ることができるんだ。彼は愛情表現が下手で、不器用な人間だが、善人だ。顔は怖いけどね』
アストリッドが思っていたよりもずっと、彼らは交流を持っていたのだろう。そうでなければ残された妻を託そうとは思わないだろうから。
『すぐに決断しろとは言わない。これは私の押し付けでしかないし、亡者の戯言だと思ってくれてもいい。ただ、どうか、彼の傍にいてくれ。外の世界はね、君が強がって生きていけるほど優しいものではないんだよ。風の谷に戻れるのが君にとっては一番いいだろうけど……すまない、私のせいだ。万が一にでも、君が戻れたとして、君はそこでずっと肩身が狭い思いをして生きることになる。私はそれも望んでいない』
ここにずっといられるとは思っていない。イヴァと二人、どこかの国で質素ながらに穏やかに生きられたらと考えたが、きっとそれは、とても甘い考えなのだろうと自覚する。
『できるなら、私が守り続けたかった。君の腰が曲がって一歩歩くのに五分かかるようになっても、私はそれを笑いながら一歩先で待っていたかった。だけど、自ら君の手を離してしまった私にできることは、もう残されていない』
容易に想像がつく未来だ。待ってと必死に足を進ませようとする妻を微笑ましげに見つめて手を伸ばしている夫の姿が。
その未来はもうどこを探しても存在しない。どれだけ願っても叶うことはない。
『アストリッド、もう一度言うよ。どうか、ザファル・アレイファーンに守られて生きてくれ。それだけが私の最期の願いだ』
喋りすぎたのか、浅い呼吸を繰り返しながらも儚げな笑みを浮かべる夫に手を伸ばすも、手は宙を掠めて触れられない。
あの顔に、あの温もりに触れたいのに──
『アストリッド……君はこの十年間、幸せだったかい? 私は君と結婚できて、とても幸せだった。私の妻になってくれてありがとう。私を愛してくれてありがとう。私に、愛を教えてくれてありがとう。天国からずっと、君を見守っているよ。どうか、幸せになっておくれ』
伸ばされた手に手を合わせるように映像に触れると優しい声での「愛してるよ」の囁きを最後に、映像は切れた。
「フィルングッ! いやっ! フィルング──ッ!」
通信機を抱きしめながら叫ぶように泣くアストリッドの嗚咽が風の谷に響き渡る。
ドアの向こうでその声を聞くザファルが拳を握って目を閉じ、イヴァはしゃがみこんで膝を抱えながら声を押し殺して泣いていた。
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