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三章
すれちがう心
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月夜は再び外へ目を向けて、まだ完全に開花していない桜の木を眺めた。遠い昔に少しだけ見た夜の桜は雪のようにひらひらと花びらが舞っていた。
あの光景を再び見ることができるのだと思うと気持ちが高揚し、自然と笑みがこぼれる。
「私は昼間の明るいときに桜を見たことがないの。きっと梅の花のように綺麗なんだわ」
すると縁樹は即座に返答した。
「いつでも見られるよ。君が昼間に外出できる身体になれば」
月夜は一瞬戸惑って、それからすぐに思いだした。メアリーにもらったあの薬を飲んだら、人間と同じように生活できるということを。
縁樹は目線を外へ向けながら穏やかに話す。
「あと半月もすれば満開だ。その頃には君を迎えにくることができるだろう」
「迎え……?」
縁樹は目線を月夜に戻し、はっきりと告げる。
「君と正式に婚姻を結ぶ日だ」
わかっていたことだが、面と向かってそんなことを言われると恥ずかしくて、月夜は赤面しながらうつむいた。
念願の桜の花が見られて、あの家から出られて、縁樹と一緒にいられる。月夜にとってこれほど贅沢で幸福だと思えることは他にない。
月夜は緊張と喜びの混じった複雑な気持ちになる。けれど、この感覚は悪いものではなく、むしろ心地よかった。
月夜がしばらく黙っていると、悩んでいると思ったのか、縁樹はもうひとこと付け加えた。
「心配しなくていい。俺は君を縛りつけたりしない」
「えっ……」
月夜が顔を上げると縁樹はわずかに微笑んでいた。
「あの家を出れば君は自由だ。俺は君がひとりで生きていける手助けをしてやるだけ。俺から何かを求めたり命令することはない」
それは縁樹の優しさなのだろう。けれど、月夜は複雑な心境だった。
もしかしたら勘違いしていたのかもしれない。これまでずっと慕ってきた縁樹と一緒にいられることが嬉しくて、自分だけ舞い上がっていたのかもしれない。
しかし縁樹にとって、あくまでこの縁談は香月との約束を果たすためのものなのだ。月夜がひとりで生きていけるようになったら、彼は手放すだろう。
月夜は少し混乱した。胸の奥がわずかに痛む。
あれほど自由に生きたいと願っていたのに、なぜこれほど戸惑っているのか自分でもわからない。
けれど、彼の好意を無下にしてはならない。
「ありがとう。縁樹さんは本当に優しい人ね」
「当然のことをしているだけだ」
夜会の最中に彼が同じことを言ったときは、そっけなくても微笑ましく感じたのに、今は少し冷たく感じる。
月夜は心の中でくすぶっている気持ちをどうにか口に出さないように固く唇を引き結んだ。それはきっと、甘えでしかないから。
もし、この先もずっと縁樹と一緒にいたいと言ったら、迷惑だろうか。
「着いたよ」
媛地家の屋敷の前に馬車が停まると、縁樹は降りるときにきちんと月夜の手を引いてくれた。この優しさも彼にとっては当たり前のことであってそれ以上の情はないのだと思うと、月夜は少し侘しさを感じた。
「まあまあ、お帰りなさいませ」
母の声がして月夜は反射的にそちらを向いた。屋敷の中から駆けでてきたのは、満面の笑みを浮かべた母と、使用人たちだった。
縁樹は真顔で会釈をして、月夜に告げる。
「半月後に迎えにくるので、それまでお元気で」
とても短い挨拶だった。
月夜は笑顔で挨拶し、彼を見送る。
「あら、もうお帰りになったの? ご挨拶くらいしたかったわ」
去っていく馬車を遠目に母は残念そうな声を上げたが、月夜は黙ったままだった。縁樹とともにいられる時間は楽しくて幸せだったが、今はほんの少し切なく感じる。
妙な気持ちが膨らんでくる。
たった今、別れたばかりなのに、もう彼に会いたい。
「さあ、まだ夜は冷えるわよ。早く中へ入りなさい。風邪をひいてしまうといけないわ」
母は嬉しそうにそう言いながら、月夜の背中を押した。
月夜は重い足をひきずるようにして屋敷へ向かう。
この夜はまばゆいほど明るく満ちた月が空に浮かんでいたが、月夜にはその美しさを堪能する余裕など一瞬たりともなかった。
あの光景を再び見ることができるのだと思うと気持ちが高揚し、自然と笑みがこぼれる。
「私は昼間の明るいときに桜を見たことがないの。きっと梅の花のように綺麗なんだわ」
すると縁樹は即座に返答した。
「いつでも見られるよ。君が昼間に外出できる身体になれば」
月夜は一瞬戸惑って、それからすぐに思いだした。メアリーにもらったあの薬を飲んだら、人間と同じように生活できるということを。
縁樹は目線を外へ向けながら穏やかに話す。
「あと半月もすれば満開だ。その頃には君を迎えにくることができるだろう」
「迎え……?」
縁樹は目線を月夜に戻し、はっきりと告げる。
「君と正式に婚姻を結ぶ日だ」
わかっていたことだが、面と向かってそんなことを言われると恥ずかしくて、月夜は赤面しながらうつむいた。
念願の桜の花が見られて、あの家から出られて、縁樹と一緒にいられる。月夜にとってこれほど贅沢で幸福だと思えることは他にない。
月夜は緊張と喜びの混じった複雑な気持ちになる。けれど、この感覚は悪いものではなく、むしろ心地よかった。
月夜がしばらく黙っていると、悩んでいると思ったのか、縁樹はもうひとこと付け加えた。
「心配しなくていい。俺は君を縛りつけたりしない」
「えっ……」
月夜が顔を上げると縁樹はわずかに微笑んでいた。
「あの家を出れば君は自由だ。俺は君がひとりで生きていける手助けをしてやるだけ。俺から何かを求めたり命令することはない」
それは縁樹の優しさなのだろう。けれど、月夜は複雑な心境だった。
もしかしたら勘違いしていたのかもしれない。これまでずっと慕ってきた縁樹と一緒にいられることが嬉しくて、自分だけ舞い上がっていたのかもしれない。
しかし縁樹にとって、あくまでこの縁談は香月との約束を果たすためのものなのだ。月夜がひとりで生きていけるようになったら、彼は手放すだろう。
月夜は少し混乱した。胸の奥がわずかに痛む。
あれほど自由に生きたいと願っていたのに、なぜこれほど戸惑っているのか自分でもわからない。
けれど、彼の好意を無下にしてはならない。
「ありがとう。縁樹さんは本当に優しい人ね」
「当然のことをしているだけだ」
夜会の最中に彼が同じことを言ったときは、そっけなくても微笑ましく感じたのに、今は少し冷たく感じる。
月夜は心の中でくすぶっている気持ちをどうにか口に出さないように固く唇を引き結んだ。それはきっと、甘えでしかないから。
もし、この先もずっと縁樹と一緒にいたいと言ったら、迷惑だろうか。
「着いたよ」
媛地家の屋敷の前に馬車が停まると、縁樹は降りるときにきちんと月夜の手を引いてくれた。この優しさも彼にとっては当たり前のことであってそれ以上の情はないのだと思うと、月夜は少し侘しさを感じた。
「まあまあ、お帰りなさいませ」
母の声がして月夜は反射的にそちらを向いた。屋敷の中から駆けでてきたのは、満面の笑みを浮かべた母と、使用人たちだった。
縁樹は真顔で会釈をして、月夜に告げる。
「半月後に迎えにくるので、それまでお元気で」
とても短い挨拶だった。
月夜は笑顔で挨拶し、彼を見送る。
「あら、もうお帰りになったの? ご挨拶くらいしたかったわ」
去っていく馬車を遠目に母は残念そうな声を上げたが、月夜は黙ったままだった。縁樹とともにいられる時間は楽しくて幸せだったが、今はほんの少し切なく感じる。
妙な気持ちが膨らんでくる。
たった今、別れたばかりなのに、もう彼に会いたい。
「さあ、まだ夜は冷えるわよ。早く中へ入りなさい。風邪をひいてしまうといけないわ」
母は嬉しそうにそう言いながら、月夜の背中を押した。
月夜は重い足をひきずるようにして屋敷へ向かう。
この夜はまばゆいほど明るく満ちた月が空に浮かんでいたが、月夜にはその美しさを堪能する余裕など一瞬たりともなかった。
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