【完結済】世界で一番、綺麗で汚い

犬噛 クロ

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5話(終)

2.

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 ――救う?

 本当にキャシディーがあの場所から抜け出たいと思っているのなら、望むところだ。
 何を犠牲にしても、叶えてみせる。
 そう、あの人が、自分を必要としてくれるなら。

 ――だが。

 帰路に着きながら、アロイスは自らの顔を覆うマスクに手をやった。
 滑稽な話だ。火傷を負う前だって、取り立てて美形だったわけではない。流行りの服にも興味がなく、見てくれにも無頓着だった。
 それなのに今になって、こんなにも容姿に振り回されることになるなんて。

 ――自分は醜い。

 こんな男が、あの明るく気立ての良い娼婦の側にいていいものなのか。

 ――だが、もし許されるなら。

「カーク・カッツェ」を訪ねてから、もう一週間ほど経っている。
 前回はキャシディーをひどく怒らせてしまった。本当のところ、なぜあそこまで彼女が怒髪天を衝いたのか、アロイスには分かっていないのだが。

 ――謝ったら、許してくれるだろうか。

 なじみの娼館の方角へ足を向けたところで、道の向こう側からよたよたとこちらに走って来る、見知った顔を見つけた。

「オヤジさん!」
「あっ!」

 オヤジさんにとっては全速力のようなのだが、二人の距離はちっとも縮まらない。それでもなんとかアロイスの元へ辿り着くと、オヤジさんはぜいぜい息を切らしながら口を開いた。

「た、大変なんだ、アロイスの旦那っ! アンナと、きゃ、キャシ、ディーまでもが、客に因縁つけられて、取られちまった……っ! この辺りを取り仕切ってる、ヤクザの親分に、相談しに行ったけど、あいにく、留守で……! べらぼうな上納金をぶん取るくせに、肝心なときに、使えねえ……っ!」
「取られた……!? 客!? どんな男です?」
「アーレンスっていう、金持ちの、き、貴族……だっ!」
「アーレンス……?」

 途切れ途切れの訴えの中に、キャシディーともう一人、覚えのある名を聞いた。アロイスの表情は険しくなる。

「もっと詳しく話してください!」
「うぐっ……!」
「あ」

 息を整えてもらおうと背中を撫でたのだが、力が入り過ぎてしまったらしい。オヤジさんはその場に崩れ落ちてしまった。








 車の窓には、ご丁寧に布が張られていた。運転席との間も厚い板で区切られており、外の様子は何も見えない。押し込められた後部座席は、ちょっとした牢獄のようだった。
 基本的に静かな道中だったが、車が揺れるたび、キャシディーの心臓は嫌な音を立てた。
 どこへ連れて行かれるのか。もしかしたら、無傷では帰って来られないかもしれない。
 当然行きたくなどなかったが、同僚の身の安全、もしかしたら命がかかっているかもしれないとくれば、ほかに選択肢はなかった。
「カーク・カッツェ」から三十分ほど移動しただろうか。車を降ろされて一歩進んだその眼前には、巨大な邸宅がそびえ立っていた。
 玄関ポーチの明かりを頼りに、真っ暗な辺りを見回す。
 道はもちろん、門すら見えない。
 この家は、一体どれだけ広大な敷地の中にあるのだろうか。

「こっちだ」

 そう促すのは、キャシディーを迎えにきた黒服の大男だ。名は、確か「クルツ」といったか。
 もちろん初めて会った男だが、キャシディーは彼をどこかで見かけたことがあるような気がしていた。
 いや、誰かに似ている……?
 全身の筋肉がスーツの生地を押し上げており、それでいて動きはしなやかで、足音すらしない。
 ――そうだ。体格や身のこなしが、アロイスと同じなのだ。
 背後からとはいえジロジロ眺め過ぎたのか、先導していたクルツが訝しげにを振り向く。

「どうした?」
「あ、いえ……。なんでもありません」

 正体の分からない相手に、アロイスの名を聞かせるわけにもいかず、キャシディーは首を振った。

「ふむ……? ――その階段を上ってすぐの部屋で、待っていろ。じき、主がいらっしゃる」

 邸宅の内部は明るく広く、天井も高かった。掃除も行き届いていて、飾られている調度品はどれも高価そうだ。
 クルツに言われたとおり、キャシディーはワックスで磨き上げられた黒い木製の階段を上り始めた。

「――ああ、その」

 呼び止められて振り返れば、クルツは階段の下で咳払いをしていた。

「あまりそう……深刻にならなくていい。あの女の盗みは、未遂だったわけだし。――なに、お気に入りのおまえがうまくとりなせば、主もすぐ機嫌を直すだろうよ」

 連れて来た娼婦があまりに悲壮な様子だったから、励ましているのか。だが男のその気遣いは、かえってキャシディーを混乱させた。

「盗み? アンナがそんなことをしたんですか!?」
「主はそう仰っていたが」

 確かにクルツは「カーク・カッツェ」を訪れた際、「娼婦が粗相をした」と言っていたが。
 しかしアンナが、そんなことをするだろうか。確かに性根は悪いが、アンナは窃盗だとか、そんな大雑把で直接的な悪事を犯すタイプではないように思える。

「アンナはそんな子じゃないと思うんです。何かのお間違いでは?」
「ううん……? 俺では分からんよ。あとは主に直接聞いてくれ」

 犬猫でも追い払うようにしっしっと手を動かし、クルツはキャシディーとの会話を打ち切った。
 仕方なく、キャシディーは再び階段を上った。
 二階へ着くと、指示されたとおり、階段から一番近い部屋のドアをノックした。
 しかし、なんの応答もない。
 どうしたらいいかと階下を覗き込んだが、クルツは既に姿を消していた。
 勝手に別の場所へ行くわけにもいかず――。
 迷った末にキャシディーは、返事のなかった部屋のドアノブを回した。鍵は掛かっておらず、扉はあっさり開く。

「失礼、します……」

 声をかけて、恐る恐る中に入る。
 明かりが点けっぱなしになっているその部屋は、なんとも殺風景だった。
 隅にベッドがあり、その近くに椅子があって。家具といえばそれくらいだ。
 ――ベッド。
 よく見れば、白いシーツの上に、何か転がっている。

「!」

 一瞬、人形かと思った。それほど無造作に、「彼女」は寝かされていたのだ。

「アンナ!」

 ベッドに駆け寄った途端、異臭がむっと鼻をつく。
 ありとあらゆる体液と排泄物の匂いに、むせ返りそうだ。

「……………」

 シーツの上のアンナは、一糸まとわぬ姿だった。意識がなく、しかも後ろ手に手錠をかけられている。
 辺りに目をやったが、手錠の鍵は見つからず、だが衣服は床に散らばっていた。キャシディーはそれらをかき集めると、次に持ってきたバッグからハンカチを取り出し、アンナの顔を拭いてやった。

「キャシディー、姐さん……?」
「アンナ……! 大丈夫?」

 目を覚ましたばかりのアンナは、子供のような無防備な表情で、キャシディーをぼんやり見上げた。

「一体何があったの、アンナ……」
「アタシ……。アタシ、アーレンス様に呼び出されたの……。ここはね、あの人の別宅なんだって。こんな立派なおうちが、ほかに五つも六つもあるんだって。あの人はにっこり笑って、アタシにもひとつあげようか、なんて冗談を言って……」

 感情の篭らない一本調子の声が途切れたかと思うと、アンナはカタカタと震え出した。

「そうよ、最初はとても優しかったの。『よく来てくれましたね』なんて、キスしてくれて。そして、使用人たちを部屋に呼んだ。十人くらいいたのよ。そいつらに、アタシを、アタシを……!」

 そのあと何があったかは、汚れたベッドや淀んだ部屋の空気、そして全身に刻まれたたくさんの傷跡が教えてくれる。
 アンナの口元は切れて血が滲み、体中に痣あった。相当荒々しい性交を強いられたのか、下腹部からも出血している。

「男に抱かれるのは慣れてるわ。でも、あんなの……! 男たちは代わる代わるアタシを、まるで道具に突っ込むみたいに犯して、精液を吐き出して……! 何度も何度もよ! アタシ怖くて、やめてって言ったのに、あいつらは……!」
「いいよ、アンナ。もう分かったから……!」

 キャシディーが抱き締めても、身の内に巣食った恐怖を吐き出さずにはいられないのか、アンナは口を閉じなかった。

「アタシが犯されている間、アーレンス様は何をするでもなく、その椅子に座って眺めてた! 興奮するでもなく、アタシを抱くこともなく、ただニヤニヤ笑って! 面白い見世物を見ているかのように、ただ笑ってたのよ!」
「…………」

 泣き出してしまったアンナの背中を、キャシディーはただ撫でるしかない。

 ――分かった。どうしてアーレンスへの嫌悪感が消えないのか。
 ――あたしは、どこで彼を見たのか。

 やがてアンナが落ち着いてくると、キャシディーは床に投げ捨てられていた服を渡し、着替えを手伝ってやった。
 手錠のせいで、上着は羽織らせるしかない。隠すことができない傷だらけの白い肌が、痛々しかった。

「立てる?」
「うん……」

 アンナはなんとか床に立ち、数歩歩いた。どうやら動けないほどの大きなケガはしていないようだ。
 とにかく、まずはここを出なければ。
 アンナに肩を貸し、歩く。だがあと少しというところで、向かっていた出入り口が開き、金髪の青年が悠々と入室してきた。
 アーレンスだ。

「やあ、キャシディーさん。やっと来てくれましたね」

「カーク・カッツェ」にわざわざ迎えに来たクルツの主であり、アンナを監禁、暴行し――そして、キャシディーにしつこく執心している男。
 朗らかな笑顔が、かえって病的に見える。キャシディーはアンナを背に庇った。
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