悔しいけど、君が好き。

矢凪來果

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脱獄したい人とスーツケースに入りたい人

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 その日は結局、夕方少し前にやつは着いた。

『検査と手続きで思ったより時間がかかりそう…』
 国際線があるターミナルのカフェに着いた時に、ちょうど届いたヒロトからのメッセージへ『了解!』とセリフ付きのスタンプを送った後は、社用携帯でもあるもう一つのスマホにずっと齧り付いていた。

 急な有給だから、事情を知らないクライアントや協力会社からは当たり前のようにメールや電話が来ていて、何時間も小さい画面を見ていると疲れてきた。流石にPCは持ってくれば良かったと思いながら、スマホの画面を睨んでいたら、ミサキとスマホの間にひょいと手が挟まれた。
「すごい顔になってるけど、大丈夫か?」
「うわっ」
 顔を上げると、久しぶりに見る顔が目の前にあった。

「ごめん、待たせた」
 ヒロトの詫びに、顔上げたままのミサキは間抜けな顔で、ううん、と返す。
「見るたびメール溜まってたからちょうど良かったかも。」
「おお。流石ブラック企業…。旅行すらゆっくり行かせてくれないんだな」
 私が急に休みを取った上に、待ってるのが暇だったから対応してただけだけど。
「…まあね。」
 苦笑いで返せば、ヒロトはくすっと呆れたように笑った。よく見慣れた顔だったが、少し大人っぽくなった気がした。ミサキだってもう少しマシな顔で出迎えようと思っていたが…化粧直しどころか、相当ひどい顔をしていたに違いない。

 ヒロトはミサキの向かいの席の近くにスーツケースを置きながら、何飲んでる?と聞いてきた。ミサキが「飲んでみる?」と持っていたドリンクを差し出したら、一口飲んだヒロトは、「なんだ、ただのアメリカーノじゃん」と笑って、レジへ頼みに行っていた。

 ふと、時計を見ると、クライアントの定時も間近になっていた。『マシな顔』と引き換えにずっと連絡を返していたおかげで、ヒロトがトレイを持って戻ってくる頃には、見るたびに増えるメールも緊急性のあるものはなくなっていた。あとは週明けやろうと全て無視をして社用スマホの電源を切る。

「おかえり」
「ただいま」
 ヒロトが頼んでいたのも、アイスのアメリカーノだった。

「えっと、改めて…久しぶり」
「ひさしぶり、元気だった?」
「まあ、仕事も慣れてきたし…割と元気だったかな。」
 お互い目の前のドリンクに集中するふりで目が合わないまま、ポツポツと会話をつなげる。

「日本に帰ってきたのは、里帰り?」
「まあ、そんなところ…。隔離が緩和されたし、兄貴に子供が産まれたし、姪っ子の顔見にいこうと思って」
「そっか」
 そういえば、何かお祝いの投稿をしていたっけ。…やばい、ここ最近の仕事以外の記憶があまりない。とミサキは自分の忙殺具合を振り返って少し慄いた。やっぱり有給とって良かったかも知れない。

「あ、えーと、隔離生活ってどうだった?」
「ずっと映画とドラマ見てた。プリズンブレイク見返しながら、どうやってホテルから脱獄出来っかな…とか妄想して楽しかったよ。」
 あと二日あれば、脱獄できた。とヒロトは悔しさを滲ませていたので、計画が相当捗るくらいに退屈だったのだろうか。

「脱獄より早く合法的に出られて良かったね。」
「でも無実の兄さんがまだ…」
「ヒロトのお兄さんパパになりたてなんだから、冤罪で捕まえないの。はい、強めのお薬あげるから、早くドラマの世界から帰ってきてください。」
 ミサキがミントタブレットのケースを振ってヒロトの手に出すと、彼はそれを口に入れて、数回深呼吸したあと、「危なかった…」と呟いた。

「現実世界に戻ってこれた?」
「後ちょっとで、もう一回銀行強盗するところだったわ」
「それは、危な…ふふっ、ごめん。」
「おい、途中で笑うなよ。恥ずかしくなる」

 この茶番じみたやりとりも随分久しぶりだな、とミサキは懐かしくなった。お互いの会話の空気感を思い出したところで、聞きたかったことを聞いてみる。
「そういえば、空港で待っててって、何かあった?」
 少し声が上ずった気がするが…勘がいいヒロトは気付がないように、なるべくさりげなく、なんでもないような声は出せていただろうか。

「ん?ああ、元気してるかなぁって思ったから」
 ミサキのなんでも無いように意識した問いかけと同じくらい、ヒロトの答えも軽かった。
「…それだけ?」と拍子抜けしたミサキが聞くと、「ちょうど連絡してきたし」と答えたヒロトがこちらを向いた。あ、目があった。

「まあ、どうせ行くならせっかくだしね…」
 目はそらさないように頑張ったけど、「あんたが目的だったから」と話す勇気は代わりに萎んでしまったので、ミサキは変な間を誤魔化すように質問を続けた。
「っていうか、それだけの理由で遅れた便の分払ってくれるの?」
「うん。」

 ヒロトは、視線を手元に戻してアイスのアメリカーノを啜ったあと、こちらを見遣って「だから」と言葉を続けた。
「全部払うから、旅行中止にしてよ」
「ファーストクラスで五つ星スイートだけど」
「…内臓売ってくるからちょっと待って」
「うそうそうそ、まだ飛行機もホテルも予約してない。」
 ヒロトが勢いよく立ち上がって、どこかへ行こうとしたので、慌てたミサキが腕を掴んで止めると、ヒロトは意外そうな顔をした。

「え、エコノミーも?」
「有給どうやって消化しようと思って、今朝思い立ったの。行きの電車で取るつもりだったけど、電話でああ言われたし、会った後に取ればいいかなって思って」
 ほとんど本当のことだけど、我ながら意味不明な行動だ。

 ヒロトは、少し黙った後、ミサキの隣に立って首を傾げながら言葉を続けた。
「電話の後さ、なんで俺のいた国に行くことになってたんだろうとか、誰と行くんだろうとか、色々気になってたんだけどさ。」
 
 ヒロトは視線を逸らして黙るミサキが掴んでいた手を掴み返して、その掌ごと、椅子の隣に置いていたスーツケースの取手を持ち上げた。
「このスーツケースがすごい軽いのはさ、行く必要無くなったからとか?」
 ミサキは梅干しを食べたような顔をして、押し黙った。

「二人で持ってるから軽い、とかじゃないよな?」と畳み掛けられても、何も答えないミサキに、ヒロトはぐいと顔を近づけて、もう一度問いかけた。
「なあミサキ、一人で、何しに行こうとしてたんだよ?」
 ミサキは片手で顔をヒロトから隠しながらうめいた。
「…スーツケースの中に入りたい」
「そしたら俺が持って帰る」
「税関で引っかかる」
「一緒に捕まろうな」
「嫌だぁぁ…」

 項垂れたミサキにヒロトはスーツケースを置きながら問いかけた。
「とりあえず、旅行は中止でいいよな?あ、ちょうど今日の便も終わりだって。」
 ミサキは項垂れたまま、渋々こくんと頷いた。

 すると、「よくできました」とでも言うように頭を撫でられた。
「じゃあ、ご飯食べに行こう。何食べたい?」
「焼肉!」
「俺、弁当生活で胃弱ってんだけど」
「や!き!に!く!」
 
 ちょっとだけ困ったヒロトの声と、悔しさを誤魔化すようにやけっぱちなミサキの主張は、人の少ない空港の中でよく響いた。 
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