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草原
16.言葉が足らない
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身重のイェノアを気づかい、ユルトに行かないほうがいいか尋ねたところ、キアラがいてくれると何かと助かるという返答だった。そのためユクガは相変わらず、朝にククィツァのユルトにキアラを預けにいき、帰ってきたらククィツァのユルトで食事をして、キアラを連れて帰る、という生活を続けている。
ククィツァが集落を離れられない分、ユクガがいろいろと代行しているので、お互い様だと勝手に思っている。
戻った自分のユルトで弓の弦を緩め、ついでに軽く拭いておくかと手入れ道具を取り出そうとして、ユクガは自分の前にちょこんと座ったキアラに目を瞬いた。
「……どうした」
「お伺いしたいことが、あります」
機嫌が悪い、だろうか。弓と道具入れを横に置き、むくれた顔にも見えるキアラに向き直る。
「何だ」
「……どうして、私に手を出してくださらないのですか」
急に何の話だ。
手を出すというのが何を示しているかわからないつもりはないが、キアラが話題に持ち出してきた意味がわからない。そういう色めいた話がキアラから出るなど、考えもしなかった。
とっさに返事のできなかったユクガをどう思ったのか、キアラがぎゅっと両手を握りしめる。
「……私が、子どもだからですか」
体は華奢だと思うし知識や経験はまだ少ないが、キアラの歳を勝手に十六と定めて、今年から大人とみなすことを決めたのはユクガだ。幼いと思うことはあるにしても、子ども扱いはしていないつもりだった。
「そうは思っていない」
「では、私が、男だからですか」
確かにキアラは男だが、ユクガはそのことに嫌悪感など持っていなかった。でなければ、番に迎えたいなど言うはずもないし、共寝もしない。
ただ、宥めようとユクガが声をかける前に、キアラは力なく俯いてしまった。
「私が……なりそこない、だからですか」
「何……?」
キアラが自分からそういう言葉を言い出すとは思えなかった。誰かに吹き込まれたのだとして、誰がそんなことを言ったのか。
はらはらと落ちる滴に合わせるように、震えた声がこぼれていく。
「私は、男、の、なりそこない、で、女でも、ない、のに、ユクガ様に、くっつい、て」
「キアラ」
誰かにそう言われたのだろう。それ以上言葉を重ねればキアラが余計に傷つく気がして、ユクガはキアラの声を遮った。言葉が止まって、ただ嗚咽を漏らすキアラをどうしていいかわからない。
「……キアラ」
傷ついていたことに気づいてやれず、それでも今まで心の内にしまって一人で悩んでいたのだろうキアラに、すまないという気持ちが先に立つ。普段通り過ごしているとしか思っていなかったから、キアラが誰かに心ない言葉をぶつけられているなど、考えもしなかった。
「キアラ、来い」
泣いてぐしゃぐしゃになった顔を上げ、キアラが素直にユクガの胡座の中に納まってくる。涙が止まらないまま懸命に見上げてくるキアラの目元を撫で、おそるおそる抱きしめたが、抵抗はなかった。
嫌がられては、いないと思いたい。
「泣くな」
「も、しわけ、ありませ……」
「……お前は悪くない。不安にさせた俺の落ち度だ。すまん」
ひたすら、泣いているキアラをただ撫でながら待つ。
泣くなと命じたいわけではないのに、ものの言い方が難しい。キアラが泣くのを見たくないだけだが、それも自分勝手な言い草だろうか。
しゃくりあげていた声がそのうちぐすぐすと鼻を鳴らすだけになって、ユクガの服をぎゅっと握りしめていた手が緩む。
「……落ちついたか」
「……申し訳、ありません、ユクガ様にこんなこと、申し上げるつもり、なかった、のに」
鼻声のキアラと視線を合わせ、意を決して唇を触れ合わせる。まだ、触れるだけだ。まだ先に進めるつもりはない。
「……ゆくが、さま……?」
そんな顔もするのかと、ぽかんと見上げてくるキアラに思わず笑みが漏れる。もう一度口づけて離し、自分の唇を舐めると、わずかにしょっぱかった。
「……俺は、お前以外を嫁に迎えるつもりはないし、番にするつもりもない」
何から話せばいいのかわからなかったが、最も重要だと思うことをユクガはまず口にした。キアラが傷ついて、不安になっているのなら、それを癒すことが必要だ。男だろうが何だろうが、ユクガがキアラを傍に置きたいと思っていることを伝えねばならない。
「……私が、男でも、ですか」
「お前が男だというのを、気にしたことがなかった。だからお前が男だろうが女だろうが、俺の嫁はお前だ」
キアラを横向きに抱き寄せて、髪を撫でてやる。控えめにそっと、胸元に頬を寄せてくるのがいじらしい。
「……お嫁さんは、子を産まなければならないと言われました」
イェノアが身ごもったことで、傍にいるキアラにもそういう目が向いたのかもしれなかった。華奢で容姿が整っているというのはオメガらしい特徴ではあるが、性別など大っぴらに喧伝するものでもない。本当にオメガなのかと、意地の悪いことを考えるものがいたのだろう。
「オメガなら子は宿せるだろう」
キアラを市に連れていったときに、念のため医者に診せている。ユクガたちの印象通り、キアラはオメガであるという診断を受けているので、男だからユクガとの間に子を授かれないということはない。
そもそも、子を産んでほしいからオメガを迎えようと思っていたわけではないし、たまたまキアラと出会って、キアラだから傍に置きたいだけだ。
「でも、私は……まだ、ヒートが来ておりません」
俯いてしまったキアラにかける言葉を思いつけず、ユクガはただ撫でてやった。
オメガの初めてのヒートがいつ頃来るようなものなのか、ユクガは詳しいことを知らない。ただ、個人差はあるものだろうから、早いものもいれば遅いものもいるだろうとは思っている。
それをキアラに教えていたかどうか定かではないが、少なくとも伝えていたら、ここまで悩ませずに済んでいたかもしれない。
「……来るまで、待てばいい」
だいたい己の落ち度なのではないかと思いつつも、ユクガはキアラの気持ちを軽くすることを優先した。すまなかったと謝罪したとして、キアラの性格なら、ユクガ様は何も悪くありませんなどと言い出しそうで、ますます落ち込ませてしまうだけだ。
「……ずっと、来なかったら……」
「ヒートが来ないからといって、お前を手放す理由にはならない」
オメガがヒートのときにしか孕めないのか、そういうことまで調べてはいない。
しかし、ベータの男女同士であろうと子を授からない場合はあるのだ。キアラが必ず、ユクガの子を産まなければならない理由もない。
「……お前に手を出さないのは、ヒートが来ないからという理由はある。ヒートが来ていないなら、お前の体はまだ俺を受け入れる準備ができていないのだろうと思うからだ。ただ、だからといってお前が俺の嫁に相応しくないとか、番にしないとか、そういう理由にはならない」
薄く色づいた瞳がユクガに向いて、銀色の睫毛がゆっくりと上下する。
「……私は……お傍に置いて、いただけるのですか」
「俺のもとにいろ。ずっと」
じっとユクガを見つめたあと、キアラは小さくはいと答えた。
その顔が本当に、雪の下から初めて覗く花のようで、ユクガも安堵した。
もっと、キアラを不安にさせないように言葉を増やさなければいけないこともわかって、少々気は重くなったが。
「……番になるには、アルファがオメガのうなじを噛まなければならないそうだ」
「……うなじ……」
キアラが手を伸ばし、自分のうなじに触れようとした。ただ、そこには首輪がある。キアラの手が撫でられたのは、硬い首輪だけだった。
「今は、その首輪の外し方を調べている。そのままでは、俺も噛めない」
キアラがまたユクガを見上げてきて、ふにゃりと表情を緩めた。そのまま伸び上がって抱きついてきて、ユクガの胸がにわかに騒がしくなる。
「ユクガ様」
「……何だ」
首輪で覆われていても、キアラのうなじからはいい匂いがする。もし首輪がなければ、こうしてきちんと話し合う前に噛みついていたかもしれず、ユクガはただキアラの背中を撫でた。
「私には、言葉が足りません」
「言葉……?」
「今……とても幸せで、ユクガ様で心がいっぱいで、気持ちをお伝えしたいのですが……言い表す言葉が、わかりません」
腕を解いたキアラが小首を傾げ、ユクガの頬に触れてくる。こんな場面で何と言えばいいかなど、ユクガにも羞恥心はあるし、だいたいキアラの気持ちを表せるのはキアラだけだ。
ぎりぎりと千切れそうになっている自制心をさらに働かせながら、ユクガは再び触れるだけの口づけを落とした。
「……俺にも、わからん」
「……では、次のときのために、探しておきます」
口元を押さえ、はにかむようにキアラが微笑む。その唇に誘われるようにして、ユクガはまた甘い感触を迎えにいった。
ククィツァが集落を離れられない分、ユクガがいろいろと代行しているので、お互い様だと勝手に思っている。
戻った自分のユルトで弓の弦を緩め、ついでに軽く拭いておくかと手入れ道具を取り出そうとして、ユクガは自分の前にちょこんと座ったキアラに目を瞬いた。
「……どうした」
「お伺いしたいことが、あります」
機嫌が悪い、だろうか。弓と道具入れを横に置き、むくれた顔にも見えるキアラに向き直る。
「何だ」
「……どうして、私に手を出してくださらないのですか」
急に何の話だ。
手を出すというのが何を示しているかわからないつもりはないが、キアラが話題に持ち出してきた意味がわからない。そういう色めいた話がキアラから出るなど、考えもしなかった。
とっさに返事のできなかったユクガをどう思ったのか、キアラがぎゅっと両手を握りしめる。
「……私が、子どもだからですか」
体は華奢だと思うし知識や経験はまだ少ないが、キアラの歳を勝手に十六と定めて、今年から大人とみなすことを決めたのはユクガだ。幼いと思うことはあるにしても、子ども扱いはしていないつもりだった。
「そうは思っていない」
「では、私が、男だからですか」
確かにキアラは男だが、ユクガはそのことに嫌悪感など持っていなかった。でなければ、番に迎えたいなど言うはずもないし、共寝もしない。
ただ、宥めようとユクガが声をかける前に、キアラは力なく俯いてしまった。
「私が……なりそこない、だからですか」
「何……?」
キアラが自分からそういう言葉を言い出すとは思えなかった。誰かに吹き込まれたのだとして、誰がそんなことを言ったのか。
はらはらと落ちる滴に合わせるように、震えた声がこぼれていく。
「私は、男、の、なりそこない、で、女でも、ない、のに、ユクガ様に、くっつい、て」
「キアラ」
誰かにそう言われたのだろう。それ以上言葉を重ねればキアラが余計に傷つく気がして、ユクガはキアラの声を遮った。言葉が止まって、ただ嗚咽を漏らすキアラをどうしていいかわからない。
「……キアラ」
傷ついていたことに気づいてやれず、それでも今まで心の内にしまって一人で悩んでいたのだろうキアラに、すまないという気持ちが先に立つ。普段通り過ごしているとしか思っていなかったから、キアラが誰かに心ない言葉をぶつけられているなど、考えもしなかった。
「キアラ、来い」
泣いてぐしゃぐしゃになった顔を上げ、キアラが素直にユクガの胡座の中に納まってくる。涙が止まらないまま懸命に見上げてくるキアラの目元を撫で、おそるおそる抱きしめたが、抵抗はなかった。
嫌がられては、いないと思いたい。
「泣くな」
「も、しわけ、ありませ……」
「……お前は悪くない。不安にさせた俺の落ち度だ。すまん」
ひたすら、泣いているキアラをただ撫でながら待つ。
泣くなと命じたいわけではないのに、ものの言い方が難しい。キアラが泣くのを見たくないだけだが、それも自分勝手な言い草だろうか。
しゃくりあげていた声がそのうちぐすぐすと鼻を鳴らすだけになって、ユクガの服をぎゅっと握りしめていた手が緩む。
「……落ちついたか」
「……申し訳、ありません、ユクガ様にこんなこと、申し上げるつもり、なかった、のに」
鼻声のキアラと視線を合わせ、意を決して唇を触れ合わせる。まだ、触れるだけだ。まだ先に進めるつもりはない。
「……ゆくが、さま……?」
そんな顔もするのかと、ぽかんと見上げてくるキアラに思わず笑みが漏れる。もう一度口づけて離し、自分の唇を舐めると、わずかにしょっぱかった。
「……俺は、お前以外を嫁に迎えるつもりはないし、番にするつもりもない」
何から話せばいいのかわからなかったが、最も重要だと思うことをユクガはまず口にした。キアラが傷ついて、不安になっているのなら、それを癒すことが必要だ。男だろうが何だろうが、ユクガがキアラを傍に置きたいと思っていることを伝えねばならない。
「……私が、男でも、ですか」
「お前が男だというのを、気にしたことがなかった。だからお前が男だろうが女だろうが、俺の嫁はお前だ」
キアラを横向きに抱き寄せて、髪を撫でてやる。控えめにそっと、胸元に頬を寄せてくるのがいじらしい。
「……お嫁さんは、子を産まなければならないと言われました」
イェノアが身ごもったことで、傍にいるキアラにもそういう目が向いたのかもしれなかった。華奢で容姿が整っているというのはオメガらしい特徴ではあるが、性別など大っぴらに喧伝するものでもない。本当にオメガなのかと、意地の悪いことを考えるものがいたのだろう。
「オメガなら子は宿せるだろう」
キアラを市に連れていったときに、念のため医者に診せている。ユクガたちの印象通り、キアラはオメガであるという診断を受けているので、男だからユクガとの間に子を授かれないということはない。
そもそも、子を産んでほしいからオメガを迎えようと思っていたわけではないし、たまたまキアラと出会って、キアラだから傍に置きたいだけだ。
「でも、私は……まだ、ヒートが来ておりません」
俯いてしまったキアラにかける言葉を思いつけず、ユクガはただ撫でてやった。
オメガの初めてのヒートがいつ頃来るようなものなのか、ユクガは詳しいことを知らない。ただ、個人差はあるものだろうから、早いものもいれば遅いものもいるだろうとは思っている。
それをキアラに教えていたかどうか定かではないが、少なくとも伝えていたら、ここまで悩ませずに済んでいたかもしれない。
「……来るまで、待てばいい」
だいたい己の落ち度なのではないかと思いつつも、ユクガはキアラの気持ちを軽くすることを優先した。すまなかったと謝罪したとして、キアラの性格なら、ユクガ様は何も悪くありませんなどと言い出しそうで、ますます落ち込ませてしまうだけだ。
「……ずっと、来なかったら……」
「ヒートが来ないからといって、お前を手放す理由にはならない」
オメガがヒートのときにしか孕めないのか、そういうことまで調べてはいない。
しかし、ベータの男女同士であろうと子を授からない場合はあるのだ。キアラが必ず、ユクガの子を産まなければならない理由もない。
「……お前に手を出さないのは、ヒートが来ないからという理由はある。ヒートが来ていないなら、お前の体はまだ俺を受け入れる準備ができていないのだろうと思うからだ。ただ、だからといってお前が俺の嫁に相応しくないとか、番にしないとか、そういう理由にはならない」
薄く色づいた瞳がユクガに向いて、銀色の睫毛がゆっくりと上下する。
「……私は……お傍に置いて、いただけるのですか」
「俺のもとにいろ。ずっと」
じっとユクガを見つめたあと、キアラは小さくはいと答えた。
その顔が本当に、雪の下から初めて覗く花のようで、ユクガも安堵した。
もっと、キアラを不安にさせないように言葉を増やさなければいけないこともわかって、少々気は重くなったが。
「……番になるには、アルファがオメガのうなじを噛まなければならないそうだ」
「……うなじ……」
キアラが手を伸ばし、自分のうなじに触れようとした。ただ、そこには首輪がある。キアラの手が撫でられたのは、硬い首輪だけだった。
「今は、その首輪の外し方を調べている。そのままでは、俺も噛めない」
キアラがまたユクガを見上げてきて、ふにゃりと表情を緩めた。そのまま伸び上がって抱きついてきて、ユクガの胸がにわかに騒がしくなる。
「ユクガ様」
「……何だ」
首輪で覆われていても、キアラのうなじからはいい匂いがする。もし首輪がなければ、こうしてきちんと話し合う前に噛みついていたかもしれず、ユクガはただキアラの背中を撫でた。
「私には、言葉が足りません」
「言葉……?」
「今……とても幸せで、ユクガ様で心がいっぱいで、気持ちをお伝えしたいのですが……言い表す言葉が、わかりません」
腕を解いたキアラが小首を傾げ、ユクガの頬に触れてくる。こんな場面で何と言えばいいかなど、ユクガにも羞恥心はあるし、だいたいキアラの気持ちを表せるのはキアラだけだ。
ぎりぎりと千切れそうになっている自制心をさらに働かせながら、ユクガは再び触れるだけの口づけを落とした。
「……俺にも、わからん」
「……では、次のときのために、探しておきます」
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