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帰還
56.ほんの数日、されど数日
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カガルトゥラードからヴァルヴェキアに来て、ずいぶん違うと思ったのはにおいだった。カガルトゥラードは火の精霊の影響が強いそうなので、ヨラガンにいたときよりも乾いた風のにおいを感じたのを、覚えている。
ヴァルヴェキアは、カガルトゥラードよりも土のにおいが濃い。もっと湿った、柔らかい土のような香りがする。
「神子様、足元にお気をつけください」
「はい。ありがとうございます」
手を引いてくれているのはシアだけれど、案内してくれているのはヴァルヴェキアの文官、という人だ。ここでもベールをつけさせられているから、周りの様子はよくわからない。
これからキアラは、和睦の条件を話し合っている部屋に行かなければならないのだという。
ミオとシアから話を聞いたときは急いで行かなければいけないのかと思ったが、国と国との仲直りには話し合わなければならないことがたくさんあるようで、神子のことは後に回してもいいということだった。それに甘えてキアラの体がある程度回復するまでカガルトゥラードで療養し、ヴァルヴェキアに到着したのが数日前のことだ。
移動の疲れを癒やしてほしいとそっとしておいてもらえたのは助かったし、カガルトゥラード風ではいけないからと、ヴァルヴェキア風の服も用意してもらった。料理は肉のものが多くて少し困ってしまったが、カガルトゥラードともヨラガンとも違う料理は珍しくて、どれもおいしかった。
精霊のおかげで回復した部分もあったが、そうして休ませてもらい、ミオとシアもようやく首を縦に振ったので、いよいよ話し合いの場に同席することになったのだった。今日はエドゥアルドもヴァルヴェキアまで来ているそうだ。
神子様をもののように扱って、とミオとシアは不満そうだったけれど、キアラが思ったこと、したいことを本当に受け入れてもらえたのは、ユクガのもとにいたころだけだと思う。
ヨラガンに行く前は、キアラは何も知らず、閉じ込められて何もさせてもらえていないのだということを、わかっていなかった。カガルトゥラードに行ったあとも、好きにさせてもらえているようで、限られた囲いの中で、その実いろいろなことを制限されて生きていた。
カガルトゥラードとの戦に勝ったのがどこの国であろうと、キアラにとっては、生きる場所が変わるだけの違いしかない。
神子というものに望んでなったわけではないけれど、生まれついたものは変えようがないし、選べるのはその中でどうやって生きるかだ。それも、キアラのように弱ければ、選べる幅はずっとずっと小さくなってしまう。
大きな扉の部屋まで案内されて、ヴァルヴェキアの人が二人がかりで開けた先に、シアに手を引かれ、ゆっくりと進む。廊下より部屋の中のほうが明るくて、少しまぶしい。
「……キアラ」
思わず、立ち止まった。呼ばれるはずのない名前が、聞けるはずのない声に乗っている。記憶の中の声と、少し違っているような気さえした。
だから、急いでベールを取った。
「神子様……!?」
ミオかシアが、キアラを呼んだかもしれない。けれど懐かしい声で心がいっぱいになって、どこか人ごとのようだった。
ベールを取った視界で思い描いた人の姿を確認して、どうしてかぼやけていく視界のまま、キアラは駆け出した。そのまま胸に飛び込んで、目の前にいる人が幻ではないことを実感する。
「ユクガ……様……っ」
すがりついた人からは、懐かしい草原の匂いがした。抱きしめてくれる腕は力強くて、繊細で、温かくキアラを包み込んでくれている。
「遅くなって、すまなかった」
「いいえ……いいえ……!」
二度と会えないと思っていた。どこかで無事に、健やかに生きていてくれたらいいと思っていた。例えユクガがキアラを忘れてしまっても、この人だけがキアラのアルファだと、彼のために祈り続けようと決めていた。
「覚えていて、くださったの、ですか」
にじんだ視界ではなくて、はっきりと思い慕う顔を見たいのに、涙が勝手にあふれてくる。ぽろぽろ落ちてくる涙をなんとかしたいのに、どうやっても止められそうにない。
見上げた人が、優しく微笑みながら目元を指で拭ってくれる。
「番を忘れるはずがないだろう」
「……はい……」
胸が詰まって、それしか言えなかった。ユクガはまだ、キアラを番だと思ってくれている。
ぎゅっとユクガにくっつき直したら、すぐ傍からもう一つ、聞き覚えのある声がした。
「ご覧になった通り、我が国の将軍と神子が番であるのは、明白だと思うが」
顔を向けると、風の精霊の加護を示す緑の髪を一つに結んだククィツァがいた。まったく気づいていなかったから少し驚いてしまって、目を丸くしたキアラににこりと笑いかけてくれる。
「ま、待て、だが神子の首にはファルファーラのくびきがあるだろう!」
そちらに顔を向けてみれば、今度はエドゥアルドがいる。和睦のための話し合いの場だから、エドゥアルドがいてもおかしくないのだが、それにも驚いてしまった。
しかし、ファルファーラのくびきとは何だろう。
「キアラ、この首輪はどうした」
尋ねられて、キアラは顔を上げた。ユクガの手が、キアラの首にある輪を軽く引っ張っている。
ゲラルドが首輪に触れてきたときは恐ろしかったのに、ユクガの手が首に近づいてきても何とも思わないのは、やはり番だからだろうか。
「私のうなじに噛み跡があるとわかったら、番にも危険が及ぶかもしれないと教えていただいて……つけていただいたのです」
「……外すぞ」
「はい」
髪を前に下ろしてユクガに背中を向け、外しやすいように軽くうつむく。ずっと覆っていたものを外された首筋が、少し心もとないような気もする。
「……キアラ」
「はい、ユクガ様」
呼んでもらえたから振り向いたのに、ユクガは少し顔をしかめているように見えた。何かいけないことをしてしまっただろうか。
「どうかなさいましたか」
「……いや」
腰に回ったユクガの腕に抱き寄せられて、うなじに触れられる。髪をそっと寄せられたのは、噛み跡がよく見えるようにしているのだろう。
「俺がキアラを噛んだ跡だ」
ユクガに抱きしめられているから、キアラには周囲の反応はよくわからなかった。ただ、息を呑む音や、信じられないといったつぶやきが聞こえたから、キアラに番はいない、とカガルトゥラードの人たちには信じられていたのかもしれない。
首輪だけで隠し通せるものなのかと、ほんのちょっと思っていたけれど、ファルファーラのくびきという言葉が関係あるのだろうか。
「……もういいだろう」
さっと髪を後ろに戻されて、キアラは何度かうなじを撫でられた。少しこそばゆい。ただ、笑い声をあげていいところではないだろうから、ぎゅっとユクガにくっついて我慢する。
「……だが、神子はヒートの折に、我が国のアルファを受け入れていたはずだ。そのアルファの噛み跡かもしれないだろう」
しかし、エドゥアルドの言葉に、キアラは緩めていた体を固くした。
自分の番が他のアルファと肌を重ねていたと聞かされたら、ユクガも不快になるだろう。でも、事実ではないのだときちんと伝えなければならない。
視線を落としてくるユクガに、真剣に向き合って声を上げる。
「わ、私は、どなたとも、あの……あの、して、おりません……」
勢いで言い出してしまったけれど、大勢の人の前で、あのような行為のことを口にするのは恥ずかしかった。最後のほうは小さな声でもそもそ言うだけになってしまって、うつむいてしまう。
「ヒートのオメガが耐えられるわけがないだろう」
エドゥアルドの声が、胸に刺さるようだった。普通はそう思うだろう。普通は、信じてもらえない。
頬が熱い。顔が真っ赤になってしまっているのではないだろうか。ユクガに顔を向けられない。
「いいえ、神子様はカガルトゥラードにおいて、どなたとも関係を持っていらっしゃいません」
「我々が証言いたします」
どうすれば信じてもらえるのかわからず泣きそうになっていたら、かばってくれるような言葉が聞こえてきて、キアラはおずおずとそちらに視線を向けた。
「……ミオ、シア……」
普段は、侍従はこういう場で発言をしてはいけないからと、キアラの後ろだったり壁際に行ってしまったりして声を出さない二人が、キアラを守ろうとしてくれている。
その二対の青い目に励まされて、キアラはもう一度ユクガを見上げた。黄色の瞳に、怒っているような様子はない。
「……本当、です」
「ああ。お前を信じる」
なだめるようにユクガが何度も撫でてくれて、キアラはそっと身をゆだねた。
何よりも、番に信じてもらえなかったときのことばかり考えていたから、ユクガが信じてくれるなら、他のことは恐ろしくない。
「証拠とは言いきれまい」
「しつこいな、カガルトゥラード王」
エドゥアルドとククィツァがにらみあいを始めてしまい、キアラは心細くなってユクガの服をぎゅっと握りしめた。嘘など言っていないのに信じてもらえないときは、どうしたらいいのだろう。
「……では、その神子様のお相手を務めていたというアルファを、ここに召喚するのはいかがですか」
同じ丸テーブルの席についていたものの、今までひと言も話さなかった男が初めて声を発した。カガルトゥラードとヨラガンの間に悠然と座り、威嚇しあうエドゥアルドとククィツァに臆する様子はない。
「あれを?」
「ええ。当事者でしょう」
「しかし……」
うなずいた男に対し、エドゥアルドはためらう様子を見せた。
「何か問題が?」
「……あれは、黒髪です」
部屋の中がざわめいて、キアラは周囲に視線を向けた。
この部屋の中に、黒髪の人は一人もいない。それに、カガルトゥラードの宮殿の中でも、黒髪の人には会ったことがなかった。
髪の色が黒いというだけで、どうしてそこまで、怖がらなければいけないのだろう。
「……神子様」
予想外の人から話しかけられて、キアラはびくりと肩を揺らした。先ほど初めて声を発した人だ。ユクガの服をしっかり掴んで力をもらいながら、声の主に顔を向ける。
「初めてお目にかかります。ヴァルヴェキア王、ゼウェイドと申します」
「……初めまして、ゼウェイド様」
ヴァルヴェキアの王様ということは、マナヴィカの父なのだろうか。ヴァルヴェキアは地の精霊の加護があついと聞いているが、ゼウェイドの髪も豊かな茶色をしている。
「失礼かとは存じますが……その黒髪のアルファは、神子様に無体を働きましたか」
「いいえ」
ルガートは、キアラを守ってくれた人だ。ひどいことなど、何もされていない。
「では、この話し合いの場にそのものを呼んでもよろしいですか」
「はい」
うなずくと、キアラの体を抱いている腕に力がこもって、キアラはユクガを見上げた。黄色の瞳はゼウェイドを見ているようだが、他のアルファが嫌なのだろうか。心を静めてくれるように、そっとユクガに寄り添う。
「では、エドゥアルド殿にはそのアルファの召喚をお願いしたく存じます」
今日のところは決められないから、次の話し合いにルガートを呼び寄せ、その証言内容に従ってさらに話し合う、ということらしい。キアラがどこに行くかを決めるだけだと思うのだが、国同士の話し合いとなると大がかりになるのかもしれない。
「それでは、神子様は今一度ヴァルヴェキアの預かりとさせていただきます」
ただ、このままユクガと一緒にいられるものと思っていたから、続いたゼウェイドの言葉にびっくりしてしまって、キアラは慌ててゼウェイドを振り向いた。
「お、お待ちください、私は……私は、番と一緒にいられないのですか」
「……我が国は、公平でなければなりません」
今回、カガルトゥラードとヨラガンの戦の和睦のために、この話し合いは設けられている。双方が納得する形で終わらせなければいけないから、戦に関わらなかったヴァルヴェキアがあえて第三国として、両国の間に立つことになった。
現状では神子のうなじにある噛み跡が、ヨラガンの主張するユクガのものか、カガルトゥラードの主張する黒髪のアルファのものか、結論を出せていない。その状態で神子がヨラガンのもとにとどまるのは、不公平になってしまう。
「……そう、なのですか……」
キアラの番が、ユクガであるのは間違いないのに。離れがたくて見上げると、ユクガが大きな手で撫でてくれた。
「……手続きに従えというなら、従おう。ただ、己の番をあきらめるつもりはない」
「ご理解、感謝いたします」
ユクガが従うというなら、キアラ一人がわがままを言っているわけにもいかない。しょんぼりと肩を落とすと、力強く引き寄せられて、抱きしめられた。
「……待っていろ。必ず連れて帰る」
「……はい」
もう、何年も待ったのだ。数日さえいとわしいけれど、数日くらい、物の数に入らないような気もした。
ヴァルヴェキアは、カガルトゥラードよりも土のにおいが濃い。もっと湿った、柔らかい土のような香りがする。
「神子様、足元にお気をつけください」
「はい。ありがとうございます」
手を引いてくれているのはシアだけれど、案内してくれているのはヴァルヴェキアの文官、という人だ。ここでもベールをつけさせられているから、周りの様子はよくわからない。
これからキアラは、和睦の条件を話し合っている部屋に行かなければならないのだという。
ミオとシアから話を聞いたときは急いで行かなければいけないのかと思ったが、国と国との仲直りには話し合わなければならないことがたくさんあるようで、神子のことは後に回してもいいということだった。それに甘えてキアラの体がある程度回復するまでカガルトゥラードで療養し、ヴァルヴェキアに到着したのが数日前のことだ。
移動の疲れを癒やしてほしいとそっとしておいてもらえたのは助かったし、カガルトゥラード風ではいけないからと、ヴァルヴェキア風の服も用意してもらった。料理は肉のものが多くて少し困ってしまったが、カガルトゥラードともヨラガンとも違う料理は珍しくて、どれもおいしかった。
精霊のおかげで回復した部分もあったが、そうして休ませてもらい、ミオとシアもようやく首を縦に振ったので、いよいよ話し合いの場に同席することになったのだった。今日はエドゥアルドもヴァルヴェキアまで来ているそうだ。
神子様をもののように扱って、とミオとシアは不満そうだったけれど、キアラが思ったこと、したいことを本当に受け入れてもらえたのは、ユクガのもとにいたころだけだと思う。
ヨラガンに行く前は、キアラは何も知らず、閉じ込められて何もさせてもらえていないのだということを、わかっていなかった。カガルトゥラードに行ったあとも、好きにさせてもらえているようで、限られた囲いの中で、その実いろいろなことを制限されて生きていた。
カガルトゥラードとの戦に勝ったのがどこの国であろうと、キアラにとっては、生きる場所が変わるだけの違いしかない。
神子というものに望んでなったわけではないけれど、生まれついたものは変えようがないし、選べるのはその中でどうやって生きるかだ。それも、キアラのように弱ければ、選べる幅はずっとずっと小さくなってしまう。
大きな扉の部屋まで案内されて、ヴァルヴェキアの人が二人がかりで開けた先に、シアに手を引かれ、ゆっくりと進む。廊下より部屋の中のほうが明るくて、少しまぶしい。
「……キアラ」
思わず、立ち止まった。呼ばれるはずのない名前が、聞けるはずのない声に乗っている。記憶の中の声と、少し違っているような気さえした。
だから、急いでベールを取った。
「神子様……!?」
ミオかシアが、キアラを呼んだかもしれない。けれど懐かしい声で心がいっぱいになって、どこか人ごとのようだった。
ベールを取った視界で思い描いた人の姿を確認して、どうしてかぼやけていく視界のまま、キアラは駆け出した。そのまま胸に飛び込んで、目の前にいる人が幻ではないことを実感する。
「ユクガ……様……っ」
すがりついた人からは、懐かしい草原の匂いがした。抱きしめてくれる腕は力強くて、繊細で、温かくキアラを包み込んでくれている。
「遅くなって、すまなかった」
「いいえ……いいえ……!」
二度と会えないと思っていた。どこかで無事に、健やかに生きていてくれたらいいと思っていた。例えユクガがキアラを忘れてしまっても、この人だけがキアラのアルファだと、彼のために祈り続けようと決めていた。
「覚えていて、くださったの、ですか」
にじんだ視界ではなくて、はっきりと思い慕う顔を見たいのに、涙が勝手にあふれてくる。ぽろぽろ落ちてくる涙をなんとかしたいのに、どうやっても止められそうにない。
見上げた人が、優しく微笑みながら目元を指で拭ってくれる。
「番を忘れるはずがないだろう」
「……はい……」
胸が詰まって、それしか言えなかった。ユクガはまだ、キアラを番だと思ってくれている。
ぎゅっとユクガにくっつき直したら、すぐ傍からもう一つ、聞き覚えのある声がした。
「ご覧になった通り、我が国の将軍と神子が番であるのは、明白だと思うが」
顔を向けると、風の精霊の加護を示す緑の髪を一つに結んだククィツァがいた。まったく気づいていなかったから少し驚いてしまって、目を丸くしたキアラににこりと笑いかけてくれる。
「ま、待て、だが神子の首にはファルファーラのくびきがあるだろう!」
そちらに顔を向けてみれば、今度はエドゥアルドがいる。和睦のための話し合いの場だから、エドゥアルドがいてもおかしくないのだが、それにも驚いてしまった。
しかし、ファルファーラのくびきとは何だろう。
「キアラ、この首輪はどうした」
尋ねられて、キアラは顔を上げた。ユクガの手が、キアラの首にある輪を軽く引っ張っている。
ゲラルドが首輪に触れてきたときは恐ろしかったのに、ユクガの手が首に近づいてきても何とも思わないのは、やはり番だからだろうか。
「私のうなじに噛み跡があるとわかったら、番にも危険が及ぶかもしれないと教えていただいて……つけていただいたのです」
「……外すぞ」
「はい」
髪を前に下ろしてユクガに背中を向け、外しやすいように軽くうつむく。ずっと覆っていたものを外された首筋が、少し心もとないような気もする。
「……キアラ」
「はい、ユクガ様」
呼んでもらえたから振り向いたのに、ユクガは少し顔をしかめているように見えた。何かいけないことをしてしまっただろうか。
「どうかなさいましたか」
「……いや」
腰に回ったユクガの腕に抱き寄せられて、うなじに触れられる。髪をそっと寄せられたのは、噛み跡がよく見えるようにしているのだろう。
「俺がキアラを噛んだ跡だ」
ユクガに抱きしめられているから、キアラには周囲の反応はよくわからなかった。ただ、息を呑む音や、信じられないといったつぶやきが聞こえたから、キアラに番はいない、とカガルトゥラードの人たちには信じられていたのかもしれない。
首輪だけで隠し通せるものなのかと、ほんのちょっと思っていたけれど、ファルファーラのくびきという言葉が関係あるのだろうか。
「……もういいだろう」
さっと髪を後ろに戻されて、キアラは何度かうなじを撫でられた。少しこそばゆい。ただ、笑い声をあげていいところではないだろうから、ぎゅっとユクガにくっついて我慢する。
「……だが、神子はヒートの折に、我が国のアルファを受け入れていたはずだ。そのアルファの噛み跡かもしれないだろう」
しかし、エドゥアルドの言葉に、キアラは緩めていた体を固くした。
自分の番が他のアルファと肌を重ねていたと聞かされたら、ユクガも不快になるだろう。でも、事実ではないのだときちんと伝えなければならない。
視線を落としてくるユクガに、真剣に向き合って声を上げる。
「わ、私は、どなたとも、あの……あの、して、おりません……」
勢いで言い出してしまったけれど、大勢の人の前で、あのような行為のことを口にするのは恥ずかしかった。最後のほうは小さな声でもそもそ言うだけになってしまって、うつむいてしまう。
「ヒートのオメガが耐えられるわけがないだろう」
エドゥアルドの声が、胸に刺さるようだった。普通はそう思うだろう。普通は、信じてもらえない。
頬が熱い。顔が真っ赤になってしまっているのではないだろうか。ユクガに顔を向けられない。
「いいえ、神子様はカガルトゥラードにおいて、どなたとも関係を持っていらっしゃいません」
「我々が証言いたします」
どうすれば信じてもらえるのかわからず泣きそうになっていたら、かばってくれるような言葉が聞こえてきて、キアラはおずおずとそちらに視線を向けた。
「……ミオ、シア……」
普段は、侍従はこういう場で発言をしてはいけないからと、キアラの後ろだったり壁際に行ってしまったりして声を出さない二人が、キアラを守ろうとしてくれている。
その二対の青い目に励まされて、キアラはもう一度ユクガを見上げた。黄色の瞳に、怒っているような様子はない。
「……本当、です」
「ああ。お前を信じる」
なだめるようにユクガが何度も撫でてくれて、キアラはそっと身をゆだねた。
何よりも、番に信じてもらえなかったときのことばかり考えていたから、ユクガが信じてくれるなら、他のことは恐ろしくない。
「証拠とは言いきれまい」
「しつこいな、カガルトゥラード王」
エドゥアルドとククィツァがにらみあいを始めてしまい、キアラは心細くなってユクガの服をぎゅっと握りしめた。嘘など言っていないのに信じてもらえないときは、どうしたらいいのだろう。
「……では、その神子様のお相手を務めていたというアルファを、ここに召喚するのはいかがですか」
同じ丸テーブルの席についていたものの、今までひと言も話さなかった男が初めて声を発した。カガルトゥラードとヨラガンの間に悠然と座り、威嚇しあうエドゥアルドとククィツァに臆する様子はない。
「あれを?」
「ええ。当事者でしょう」
「しかし……」
うなずいた男に対し、エドゥアルドはためらう様子を見せた。
「何か問題が?」
「……あれは、黒髪です」
部屋の中がざわめいて、キアラは周囲に視線を向けた。
この部屋の中に、黒髪の人は一人もいない。それに、カガルトゥラードの宮殿の中でも、黒髪の人には会ったことがなかった。
髪の色が黒いというだけで、どうしてそこまで、怖がらなければいけないのだろう。
「……神子様」
予想外の人から話しかけられて、キアラはびくりと肩を揺らした。先ほど初めて声を発した人だ。ユクガの服をしっかり掴んで力をもらいながら、声の主に顔を向ける。
「初めてお目にかかります。ヴァルヴェキア王、ゼウェイドと申します」
「……初めまして、ゼウェイド様」
ヴァルヴェキアの王様ということは、マナヴィカの父なのだろうか。ヴァルヴェキアは地の精霊の加護があついと聞いているが、ゼウェイドの髪も豊かな茶色をしている。
「失礼かとは存じますが……その黒髪のアルファは、神子様に無体を働きましたか」
「いいえ」
ルガートは、キアラを守ってくれた人だ。ひどいことなど、何もされていない。
「では、この話し合いの場にそのものを呼んでもよろしいですか」
「はい」
うなずくと、キアラの体を抱いている腕に力がこもって、キアラはユクガを見上げた。黄色の瞳はゼウェイドを見ているようだが、他のアルファが嫌なのだろうか。心を静めてくれるように、そっとユクガに寄り添う。
「では、エドゥアルド殿にはそのアルファの召喚をお願いしたく存じます」
今日のところは決められないから、次の話し合いにルガートを呼び寄せ、その証言内容に従ってさらに話し合う、ということらしい。キアラがどこに行くかを決めるだけだと思うのだが、国同士の話し合いとなると大がかりになるのかもしれない。
「それでは、神子様は今一度ヴァルヴェキアの預かりとさせていただきます」
ただ、このままユクガと一緒にいられるものと思っていたから、続いたゼウェイドの言葉にびっくりしてしまって、キアラは慌ててゼウェイドを振り向いた。
「お、お待ちください、私は……私は、番と一緒にいられないのですか」
「……我が国は、公平でなければなりません」
今回、カガルトゥラードとヨラガンの戦の和睦のために、この話し合いは設けられている。双方が納得する形で終わらせなければいけないから、戦に関わらなかったヴァルヴェキアがあえて第三国として、両国の間に立つことになった。
現状では神子のうなじにある噛み跡が、ヨラガンの主張するユクガのものか、カガルトゥラードの主張する黒髪のアルファのものか、結論を出せていない。その状態で神子がヨラガンのもとにとどまるのは、不公平になってしまう。
「……そう、なのですか……」
キアラの番が、ユクガであるのは間違いないのに。離れがたくて見上げると、ユクガが大きな手で撫でてくれた。
「……手続きに従えというなら、従おう。ただ、己の番をあきらめるつもりはない」
「ご理解、感謝いたします」
ユクガが従うというなら、キアラ一人がわがままを言っているわけにもいかない。しょんぼりと肩を落とすと、力強く引き寄せられて、抱きしめられた。
「……待っていろ。必ず連れて帰る」
「……はい」
もう、何年も待ったのだ。数日さえいとわしいけれど、数日くらい、物の数に入らないような気もした。
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