いつか誰かの

秋月真鳥

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いつか誰かの 4

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 正直、ジャンにされると言われた時点で、サムエルは酷いことを言われたり、無理やりに痛いことをされたり、傷付けられたりするのを覚悟していた。それでも、ずっと想っていた相手と最初で最後とはいえ関係を持てるのだから、我慢できる限り我慢して、せめてジャンを萎えさせないように努めようと思っていたのに。
 情事が終わって互いにシャワーも浴びて、シーツを替えたベッドで当然のようにちょうどよく冷えたミネラルウォーターを渡してくるジャンを、サムエルは泣いたので少し赤い眼元のまま、凝視してしまう。長めの鮮やかに赤い、少し湿った髪を解いているジャンは、上半身裸のままで自分のミネラルウォーターのペットボトルから水を飲んでいた。一筋零れた水滴が、首から白い胸に伝うのがやたらと扇情的で、サムエルは立てた膝に顔を埋める。
「体、きつくないか?」
「おかげさまで……」
 答えてから、サムエルは深々とため息を吐いた。
「ものすごく、びっくりしたけど」
「そりゃ、初めてそっちをするなら、そうだろう」
「そういう意味じゃなくて……なんで、あんなに優しいの?」
 絶望的なくらいに赤面して問いかけるサムエルに、ジャンは肩を竦める。
「暴力は犯罪だろう」
「それはそうだけど」
 それにしても、最初の準備段階からものすごく丁寧だったし、行為の最中も自分もきつそうなのに、「大丈夫か?」とか「きつくないか?」とか「やめとくか?」とか、細かく気遣ってくれた。行為自体もはっきり言って、サムエルが受ける方が初めてだとは思えないくらいに感じさせてくれた。
「僕、あんなに丁寧にしたことない……」
 決して自分が乱暴だとは思わないが、ジャンのように細やかに気を遣われたことはないと呟くサムエルに、皮肉げにジャンが唇を斜めにする。
「俺も、あんなに『愛してる』だの、『好き』だの言われて、泣かれたことはないな」
 指摘されてサムエルは真っ赤になった。相手に感情がないと分かっていても、サムエルはジャンのことが好きだし、あれだけ優しくされれば縋ってしまっても仕方がない。

――サムは、ジャンと寝ない方がいいよ。すっごく優しいから、多分、溺れる

 アルミロの言葉が頭に浮かんで、サムエルは甘いため息を吐いた。
「酷いことされて、忘れようと思ったのに、ますますはまった気がする」
「俺は暴力は嫌いなんだよ、言葉の暴力も、身体的な暴力も」
 あっさりと言い返されて、サムエルはジャンの顔をまじまじと見つめる。まだ濡れている赤い髪に宝石のような緑の目。その表情がどこか柔らかい気がするのも、彼を深く知れたからかもしれないと、サムエルは思う。
 それと同時に、朝になってしまえば、ジャンは何事もなかったかのようにサムエルを追い出すのだろうと思うと、胸が痛んだ。
「僕がこっちでも構わないから、体だけの関係だけでも続けられない?」
 プライドを捨てたサムエルの懇願に、ジャンは顔を歪める。
「そういうのは好きじゃないんだ」
「だったら、友達……」
 その単語を口にしてから、あれだけ「愛してる」だの「好き」だの口走っておきながら、それが受け入れられるとは到底思えなくて、サムエルは俯いた。紫がかった青い目から涙が零れる。
「あれ……おかしいな」
 情けないと笑うサムエルだが、その涙は止まらず頬を伝い落ちた。
「あんた、選ぼうと思えばどれだけでも相手はいるだろう」
「君が、いいんだ」
 上半身裸のジャンに、サムエルも下着一枚のまま抱き付くと、ぐりぐりと黒髪を撫でられる。
「どうせ、あんたは、いつか誰かのものになるんだよ」
「ならない。僕はずっと君のものでいたい」
 強くジャンの体を抱きしめながら、サムエルは必死に言った。


 電動のコーヒーミルがものすごい音を立てて豆を挽く。タイマー式の自動のパン焼き機で焼かれたパンは、ほかほかと湯気をあげていた。スクランブルエッグとハムと温野菜のサラダに、コンソメスープ。挽きたてのコーヒー豆をフィルターにあけて、お湯を注ぐと部屋中にいい香りが広がる。
「カフェオレにするか?」
 家事というものをおよそしたことのないサムエルは、その光景に茫然と立ち尽くすしかなかった。
「ストレートで」
 なんとか答えると、マグカップがテーブルに置かれる。こぽこぽと注がれるコーヒーはやや濃いめだった。
「なんでも、できるんだね」
「なんでもはできない。生活に最低限のことだけだ」
 あっさり言って食卓に着いてフォークを持ち上げてから、ジャンはサムエルにも視線で座るように促す。焼きたてのパンにたっぷりのバターを付けてかじり付くジャンは、いかにも幸せそうであった。
「君のこと悪く言うつもりはないけど……朝になったら追い出されるものだと思ってた」
「は?あんた、昨日全部吐いただろ。栄養補給しとかないと、途中で倒れるぞ」
 当然のように言われて、労わられているのだと気付いて、サムエルはフォークを持ち上げる。もしも、ずっと弱ったままで目の前にいたら、ジャンは不本意そうな表情のまま、仕方がないと世話を焼いてくれるのだろうか。そのために絶食でもしてみようかと考えて、サムエルは自分はどんなにうっとうしいストーカーじみたことをしようとしているのだろうと陰鬱な気分になった。
 挽きたてのコーヒーも、焼きたてのパンも、スクランブルエッグとハムも、温野菜のサラダも、コンソメスープもとても美味しくて、サムエルはほっと息を吐く。
「ジャン、君が好きだから付き合って」
 真正面から緑の目を見据えて言うと、ジャンは芝居がかった仕草で首を傾げた。
「俺と付き合っても長続きしないよ」
「君のことがずっと好きだった」
「俺はあんたとは付き合わない」
 真摯に想いを告げているつもりなのに、ジャンは飄々として掴みどころがない。
「僕が、一方的に友達って思うのは、止められないよね」
 ジャンの住んでいるところも、入り浸るバーもサムエルはもう知っている。連絡先だってアルミロに聞けば入手できないことはないだろう。
「僕は、Ωのフェロモンに誘惑されない薬の開発をするよ」
 そうすれば、ジャンの恐れる「いつか誰かのものに」ならずにすむのだと主張するサムエルに、ジャンが不機嫌面になった。
「被験者になるのはあんたの勝手だが、アルコールは飲むな」
「心配してくれるの?」
 目を丸くしたサムエルに、「昨日みたいな面倒事はごめんだ」とジャンは素っ気なく告げる。

 後百回、後千回……好きだと言ったら、意外と世話焼きで根が優しいジャンは、根負けしてくれるだろうか。

 明日は出来上がったスーツを受け取りに行く日だと、サムエルはぼんやりと考えていた。
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