北野坂パレット

うにおいくら

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先生

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――俺はこんな弾き方ができるようになったんや――

どんどん音が変わっていくのが分かる。僕はピアノに語り掛けながら弾いた。

――もっと明るく力強く、音を響かせてほしい――

 そんなピアノの声を感じた。
この頃は、ピアノを弾く時に鍵盤に僅かに温度を感じる事がある。
今がそうだ。文字通り少し暖かい感情が流れ込んでくる。

――試し弾きにこの曲を選んだのは長すぎたかな? もっと短い曲が良かったか?――

そんな後悔も少しよぎったが、今ピアノは僕の指で気持ちよく音を奏でている。兎に角、今はピアノと会話しながら弾いているような感覚が楽しくて仕方なかった。

 そして曲を弾き終わってしまうと全ての事があっという間の出来事に感じられた。
鍵盤から指を離すと暫くの静寂の後、先生が静かに口を開いた。

「また、変わったわねぇ」
と呆れ返ったような驚いたようないくつかの感情がその言葉には含まれてた。

「今の曲で亮平君のこれまでのピアノ人生を全部見たような気がしたわ。というかまるでビデオでも見ているような感覚。私の元へお母さんに連れられてここに来た時の亮平君を思い出したわ」
先生は一気にそう言うと懐かしそうな表情で微笑んだ。
一体僕のどんな姿が見えたと言うんだろう。


「ちょっと入ってきて」
 先生はおもむろにこの部屋と隣の部屋をつなぐ奥の扉に向かって声をかけた。
グランドピアノの向こう側の扉が、その声に応えるかのようにゆっくりと開いた。

 扉から出てきたのは若い女性だった。
その女性はグランドピアノを右手で軽く撫でながら歩いてきた。
そして先生の横に立つと
「久しぶり、亮平。それに宏美に冴子も」
僕たちを見回してニコリと微笑んだ。

 僕たちは三人顔を見合わせてから、もう一度その女性の顔を見直した。
一呼吸おいて
「え? もしかして渚さん?」
僕はおそるおそる聞いてみた。

「そうよ。本当に久しぶりやね。みんな大きくなったなぁ、ホンマに……でもよく覚えとったね。嬉しいなぁ」
 やはり渚さんだった。
でも、それは覚えていたのではなく思い出したのだった。
渚さんは懐かしそうに僕達を順番に見て笑った。

 彼女は元々はこのピアノ教室の生徒で、先生がいない時やレッスンが遅れる時はよく僕たちの面倒を見てくれていた。時には勉強も見てくれていた。
確か彼女は音大を卒業してからすぐにドイツに留学したはずだった。僕達がまだ小学校低学年の頃だったから九年ぶりぐらいの再会になるのだろうか。

「え~、渚さんですかぁ。帰ってきてたんやぁ」
と冴子と宏美は飛び上がらんばかりに驚いて、そして硬直して渚さんを見ていた。

 この教室で彼女は憧れの的だった。華やかで繊細な音を奏でる彼女の演奏は誰にも真似ができない音だった。間違いなく彼女は自分の音を持っていた。そしてここの多くの生徒が彼女のようにピアノを弾きたいと思っていた。

「ホント久しぶりね。三人ともまだピアノを続けていたんやね。えらい、えらい」
冴子と宏美は本当に熱い視線を渚さんに向けて頷いていた。彼女たちにとっても渚さんは憧れの存在だった。そんな人が目の前にいる。二人と同じように僕も少し緊張していた。

「冴子も宏美も亮平の音を聞いてどうやった?」
渚さんは二人に聞いた。

 少し考えて宏美が最初に口を開いた。
「とっても奥の深い音がしていたと思う、一音一音しっかりと弾けていたと思う。この曲にこんな解釈もあるのかと思ったけど……」
それを聞いて渚さんはうんうんと頷いていた。

「で、冴子は?」

「はっきり言ってあんな弾き方は私には無理。ここ数ヶ月で亮平のピアノはどんどん変わっていってた。今日の音はこの前聞いた時よりも音がバラエティに富んでいたと思う。宏美の言うとおり音の厚みも増したと思う。でも、この曲にあの音は合わないと感じたけど……」

「ふぅん。冴子も宏美もいい耳しているわねぇ」
と渚さんは感心したように軽く何度か頷いた。
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