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第三十八話 感情
しおりを挟む夜の王都は、もう人の気配を失っていた。
街灯の下で立ち止まったまま、
二人の間には、わずかな距離だけが残っている。リリアーナは、視線を逸らさなかった。
「……触れないつもり?」
試すような声。エドワードは、一瞬だけ息を止める。
「触れたら、戻れない」
「最初から、戻る場所なんてないでしょう」
即答だった。それが、決定打だった。エドワードは、ゆっくりと手を伸ばす。
急がない。逃げ道を塞がない。
だが――退かない。
外套越しに、背に触れる。
確かめるように、指が沈む。
温かい。
生きている人間の体温。
リリアーナの肩が、わずかに揺れた。
拒絶ではない。堪えきれなかっただけ。
「……エドワード」
名を呼ばれた瞬間、彼はもう迷わなかった。腕を回し、引き寄せる。
強くない。
壊さない。
だが、離さない抱き方。
リリアーナの額が、彼の胸に触れる。鎧の下の鼓動が、はっきり伝わる。早い。彼女のせいだ。
「……冷酷なんでしょう?」
くぐもった声。
「そうだな」
エドワードは、髪に顔を埋める。
「だから、抱くときも慎重だ」
リリアーナは、小さく笑った。
「慎重すぎるわ」
その言葉に、彼の腕に、ほんの少しだけ力が入る。
「……離れたいなら、今だ」
「言わせないで」
彼女は、外套の背を掴む。逃がさない力。
「私は、裁定者で、誰かを切り捨てて、
多分、これからも血を踏む」
「知ってる」
「優しくなんて、なれない」
「それも知ってる」
エドワードは、低く言う。
「それでも――夜に一人で立たせる気はない」
その言葉に、リリアーナの呼吸が崩れた。
堪えていたものが、胸の奥でほどける。
「……ずるい」
「今さらだ」
彼女は、彼の胸元に顔を押しつける。
泣かない。
嗚咽もしない。
ただ、しがみつく。
エドワードは何も言わない。
撫でない。
慰めない。
ただ、抱いたまま、動かない。それが、彼の選んだやり方だった。しばらくして、リリアーナが小さく息を整える。
「……すきよ」
今度は、彼女から。囁くように。エドワードは、少しだけ顔を下げる。額と額が触れる距離。
「知ってる」
そう言って、額に、短く口づけた。
深くない。
逃げない。
約束もしない。
だが――確かに、選んだ証。
二人は、まだ抱き合ったまま、夜の真ん中に立っている。
裁定者と、冷酷騎士。
どちらも、この腕の中では――
ただの、人間だった。
夜気は冷たいはずだった。だが、二人の間にだけ、熱が溜まっていく。
外套の布が擦れる音。
鎧の留め金が、微かに鳴る。
抱き合ったまま、リリアーナの呼吸が乱れているのが分かる。
速い。
浅い。
それを隠そうともしない。
それが、エドワードの理性を削った。
彼は一度だけ、目を閉じる。
自分を制するための、短い猶予。
「……離すぞ」
低く、掠れた声。脅しではない。警告だ。
だが――
「……嘘」
リリアーナの声は、近い。外套の背を掴む指先に、はっきりと力がこもる。
爪が、布を引っかく。
逃げない意思。
退かない覚悟。
その一瞬で、エドワードは判断した。
壁に、押しつける。
石の冷たさが背に走る。
同時に、彼の体温が前から覆いかぶさる。
近い。
近すぎる。
息が、絡む距離。
「……っ」
リリアーナが息を詰める。だが、目は逸らさない。その視線が、彼をさらに追い込む。
顎に手をかける。
逃げ道を塞ぐための位置取り。
乱暴ではない。
だが、容赦はない。
「……覚悟は?」
低く、囁く。答えを待たない問い。
「今さら」
即答だった。
次の瞬間、唇が重なる。
深く。
逃げ場を与えず。
息を奪う勢いで。
触れた瞬間に、互いの呼吸が崩れる。
噛みつくような口づけ。
優しさは、ない。
欲しい、という衝動だけ。
リリアーナは一瞬、
驚いたように目を見開き――
次の瞬間、彼の肩に腕を回した。
引き寄せる。
同じ強さで。
同じ覚悟で。
応えた。
胸と胸が、強く当たる。
心臓の音が、耳ではなく、体で伝わる。
「……っ、エドワード……」
名を呼ばれるたび、
彼の背に走る緊張。
歯を食いしばる気配。
「……黙れ」
囁くような声。
だが、震えが混じっている。
「これ以上言ったら、本当に止まらなくなる」
「……止める気、ないくせに」
挑発。
その一言で、彼の額が、彼女の額に触れる。呼吸が、ぶつかる。逃げ場のない距離。
「……俺は」
低く、抑えた声。
「お前を壊したくない」
リリアーナは、彼の胸元を強く掴む。
指が、震えている。
「私は……」
一拍。
「壊れたまま、ここにいる」
沈黙。
それで、十分だった。
エドワードは、彼女を強く抱き寄せる。
さっきより、深く。
さっきより、逃がさない。
背に回した腕に、
確かな力。
額を押しつけ、肩に顔を埋める。
「……くそ」
吐き捨てるような声。
呼吸が、荒い。
「……好きだ」
短く。誤魔化しのない言葉。
リリアーナの動きが、一瞬、止まる。
そして――
彼の背に腕を回し、しがみついた。
指が、外套の布を掴んで離さない。
「……知ってる」
息混じりの声。
「だから、ここまで来たの」
二人は、互いを押し潰すように抱き合ったまま、しばらく動かなかった。
進めば、もう戻れない。
だから――今は、止まる。
夜の中で、重なる呼吸だけが続く。
激しく。
危うく。
それでも、確かに。
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